王は一人ぽつんと執政室で筆を動かしていた。
 最低限の礼儀を守って入室した少女は、その姿にわずかに眉を顰める。
 顔を上げた王は、少女のいつもの不機嫌な様子に紛れ込んだ微かな表情を見逃した。
「あぁ―――真朱…………その、お疲れ様なのだ」
「まったくだ」
 羅衣を翻し、少女は案机の前に立つ。


「………礼部サイテー」


 開口一番簡潔明瞭にして歯に衣着せぬ報告だった。
「―――そうか」
「も、チョーサイテー! 無視だぜ無視! いっそ清々しい壮絶な無ーーー視っ! 道端の石ころにでもなった気分だっつーの! だ・れ・が! あいつらのケツの始末してやったと思ってんだか!? 俺ぁトイレットペーパーじゃねーぞコラっ!! てゆーかケツ! あいつらケツの穴ちっさすぎ!! ゼッテー便秘だから。王様、礼部に下剤配っとけっっ!!!」
 歯に衣着せぬ物言いが聞くに堪えないシモの話に転化した何故。
 劉輝はあんまりにもその容姿とちぐはぐな少女の言に呆気に取られた。
「べ、便秘………」
 せめて遠まわしの奥ゆかしく"秘結"とか言えないのだろうかどうだろうか。
「なんだアノ糞詰まり礼部! あぁ胸糞悪ィ―――おぉクソつながり!? いや違う落ち着け俺落ち着けー。上手いこと言ったとか思うな糞の話で」
 もう王様は言葉も無かった。見目麗しいのに糞糞連呼しすぎなんか泣けてきた。もうちょっとだけでいいから可憐な容姿をブチ壊さない程度、取り繕って欲しいと願うのはワガママなのか……。
 感情的に喚きながらも少女の声音は言葉ほどに感情を露にしない。彼女の口調は独特で、声の起伏が音程でなく声量にあるのだ。いつだか問うと、彼女は己を含めた女性の金切声がキライなのだと答えた。そのせいか、素よりも幾分低い声で喋る少女は表情も相まって余計不機嫌そうに映る。

 高く澄んだ、綺麗な声だと思うのに。思わず呟けば絶対零度の白けた視線が返ってきたのを劉輝は良く覚えている―――恐かったから。

 勢いよく喚くだけ喚くと、真朱は息を深く吸って、細く長く吐き出した。それだけで己の感情を制御してのけるのだから、やはり彼女には、年に似合わぬ落ち着きがあることを見て取れる。
「―――まぁ、俺は国試に及第しちゃいねーから、それだけなら仕方ねーよ。あぁそれだけならな―――あれは違う。ただ単に"女を馬鹿にしてるだけ"だ。なんだっつーんだあんのマロ」
 まろ?
 真朱はぐしゃぐしゃと綺麗に整えた髪の毛を引っ掻き回す。鬢に挿していた白八重の姫椿が、椿のように花ごとボタリと床に落ちる。
「真朱」
「ムガァ!?」
 ケモノっぽい応答に王様は腰が引けた。
 でも頑張る。ここ頑張りどころ。
「―――わざわざ、礼部まで行ってくれて有難う。本当に感謝する」
「ウガーーーーーーー!!」
 吠えられたーーーーーっ!? 王様涙目。
 うっすら涙に曇った目が、少女の裳裾と袖の泥を映す。
 何故、泥。
「真朱、手と衣が汚れている」
「あーコレ!? 糞詰まり礼部式の洗礼なんじゃねぇの!? まるっきり無視された挨拶の帰り、回廊で蛇と蜘蛛に百足を投げ付けられたんだよ! ガキかあいつら! ふんっ、あったまキタから石入り雪玉で応戦してやった。雪遊びなんて二十五年ぶりだゴラァ!! ゴキブリを踏み殺せるこの俺が蛇蠍ごときに悲鳴を上げると思うてか愚か者どもめっ!!」 
 フフハハハハ!! と少女は細い声で目一杯図太く哄笑した。
 
 計算合わないとか決してツッコめない問答無用のド迫力。礼部官吏、つくづく相手が悪かったご愁傷様。
 ―――素手で雪を掴んだのだろう、気迫溢るる頼もしすぎる眼光と裏腹に、細い指先が紫がかるほどに凍っている。
 遅きに失しながらもワタワタ劉輝が手渡そうとした手巾を、少女はその手を軽く振り断った。


「秀麗さまに同じコトやってみろアイツら―――生まれてきたことを心から後悔させてやる」


 劉輝はハッと顔を上げる。
「ショージキ、王さまが秀麗さまのためにどんなに頑張ったところで、特別扱いにすらならねーんじゃねーかと思う。同じ出発点にすら、秀麗さまは立てない。女だってだけでだぜ?」
 俺が言うまでもないことだろうが、と続け少女は重い吐息を零した。
「…………厳しいなぁ、現実って」
 自分は問題外。蛇も蜘蛛も百足も平気だ。節足動物が恐くて野宿が出来るか。さすがに毒は無かったし、むんずと掴んで石入り雪玉と一緒くたに投げ返して額カチ割ってやった。チョろいもんだ絶叫が心地よかった。
 李真朱を傷つけたくば、渇望する安寧の死の、絶望よりもなお濃い絶望を用意してみせろ。生温くて片腹が痛いわ。
 更に言えば、所詮アレは、領域侵犯の報いでしかないとすら思う。繰り返すが李真朱は官吏ではなく、官吏志望ですらない。加害者に親切すぎるくらいに弁えている真朱の心に居残ったのは、矜持を傷つけられた苦痛ではなく、ただの不快感だけだ。
 だから、平気だ。強がるでもなく、痛くも痒くもないと言う。
「同じことを―――秀麗にもやらかすと真朱は思うのか?」
「―――やりかねん、としか言えん。秀麗さまの予行になるかと思ったが、オンナつーだけじゃ、土台が違ったな。俺はただの身の程知らずの女官でしかない試験受けてねーもん。進士となった秀麗さまに同じことしでかしたら………つーかフツー、速攻で首だろソレ?」
「当然だ」
「当然―――当然だよなぁ。当然なのに、なんでだろ………スゲェ難しく聞こえる」
 スゲェ難しい。
 それが、現実なのだろう。


 それが一番、劉輝の知りたいことだった。


「ほんとうに―――感謝する。不快な思いをさせた……」
「いいっつってんじゃん。全治二週間くらいの仕返ししたしーぃ」
 喧嘩の常道どおり、怪我させたほうが悪いと言われれば真朱が悪役である―――任せとけってなモンだ。問答無用で得意分野。伊達に黎深の義娘やってない。
「別室の監督役も、よく勤めてくれた。しばらく実家で骨を休めるといい」
王の言葉に真朱は釈然としない顔をした。
「実家に帰れっつーの? 俺、後宮の仕事山積みなんだけど」
「かまわぬ」
 打てば響く返答に、今度こそ眉を寄せた。花鈿の施された少女の眉間に深い皺が刻まれる。
「………なんで、藍将軍と絳攸が、此処にいない?」
 ひとりぼっちの執務室。
「休暇を許可したのだ。特に絳攸は休めと言わねば決して休まぬ」
 この時期に? 違和感に真朱はますます顔をしかめる。
「―――それは、命令か?」
 多くを問わず、それだけを確認する。
「真朱にゆっくり休んで欲しい。余のお願いだ」
 少女は眉を跳ね上げて一拍、憤然と裳裾を翻した。


「そーゆー小賢しさ、似合ってねーぞ!」


 ―――賢明な人だとつくづく思う。
 彼女の忠告はいつだって―――――心ズタズタに切り刻むように、優しい。
 聞き分けと物分りのいい強がりを滅多裂きにして―――痛む心を自覚させる。痛むと同時に熱を持つ傷は、彼女の冷ややかな手の温もりに、よく、似ていると思う。
「………あまり余を甘やかさないで欲しい」
 思わず呟いた。
「なんでそーなる。ただの嫌味だそれくらい解かれ」
 蹴り飛ばして開け放たれた扉の影、振り向きもせずに少女は吐き捨て、解かっているのかいないのか、劉輝は少女の悪態に嬉しそうに微笑んだ。
「なんだか余は、時々無性に真朱を抱きしめたくなる」

 ズッコケた

 カッコよく立ち去ろうとしてたのに藪から棒になんてことほざいてくれるこの王様。見事膝から力が抜け落ちて扉にガツンと額をぶつけた。痛い。
「……………………俺は何も聴こえなかった」
 ヘナりと扉にすがり付いて少女は遠い目で呟く。
 あれなんか無意識に割とすごい告白をしたような気がすると気づいた刹那、劉輝の血の気がズザーッと引いた。
「しゅ、秀麗とは違う意味でなのだ! 余もよくわからないのだが、こう、無心にぎゅーと、ぎゅーっとしたくなるというだけで驚くほど下心は無くだからその出来れば今の言葉なるべく絳攸にはっ!
「聴ーこーえーなーい。しらなーい。そんなメンドクサイ告げ口絶対しなーい!」
「そ、それは聞き逃してくれるということでっ!?」
「違ぁーう。精々悩めってコト―――それ、宿題な」
 激怒するかと思われた真朱は、不思議と柔らかな、微笑未満の淡い色を口元に浮かべていた。



「俺が後宮からいなくなる前に、答えだしとけ。そうしてくれると俺も嬉しい」



 王は目を見開く。
 ―――少しずつ、少女の室から物がなくなっているのを知っていた。
 少女の気まぐれな模様替えだと思い込みたかったが、言われてしまってはもう、自分をごまかすことも出来ない。
「いつ」
 刻限を問う。
「春」
 別れの季節。
「そうか」
 彼女に代わるような出会いがあるのだろうか。春。
「ん」
 あぁそうか。代わりにならないともうわかっているからこそ、泣きたくなるのだ。
「行くなと言ったら?」
 本音を疑問で包み隠す。
「慰めてやらんこともない。苦手分野だから期待すんなよ」
 なにゆえ手をワキワキ蠢かせるのか。割と空気台無し。
 ………彼女らしい。
「―――行くのは許さない、では?」

「はン、言えねぇくせに」

 ―――反則だ。
 いつもは不機嫌な顔をしているのにこんな時ばかり――――慈しむように、微笑むなんて。
 秀麗の時と同じだ。泣きたくなる。
 この笑顔を失うとわかっていて、どうして引き止めることが出来ようか。
「仮定の話なのだ。余の反応をわかっていて答えないのはズルイ」
「ふーん…………そう来たか。行くなと命令されたら―――? ん、そーだなぁ………」
 真朱は細い頤に白い手を添える。想像出来ないのだが、無理やり想像してみる。
 まぁ、確実に怒る。ムカツク。ひっちゃかめっちゃかに文句を言って王であろうとなんだろうとひっちゃかめっちゃかに引っ掻き回して飛び蹴りをお見舞いして―――うん。











「この命の総てを以って、我が愛を君に捧ぐ」











「………………鬼ーーーっ!!!

 言える筈がないとわかっていて――――っ!!!

「はーーーーーーーっはっはっはっは!!! 青いわガキがっ!! その調子だと秀麗さまなんて超絶高嶺の花だなワハハ!!」
「ぐぬっ、ぐぬーーっ!」
 ケタケタ哄笑するお姫さまはきっと本当に愛してくれるのだろう。有言実行のお人だ。
 だけど劉輝は同じ愛情を返せない――――絶対者の誘惑に負けた劉輝は劉輝を許せずに。
「つまりどう転んでもありえない未来ってことでQ.E.D(/かく示された)!! 満足かお子ちゃま! その程度の覚悟でお前が俺を愛せるか(/、、、、、、、、、)ってんだバァカ
 少女は今度こそ鮮やかに踵を返す。
 振り返らない。



 小さな背中を呆然と見送るしかなかった王は、かなりの時間が経過してからようやく息を吹き返した。
 なんだアレ今のナニ。
 結論。
「…………真朱はカッコよすぎる―――っ」
 敵う気がしないんですが。

 









 実家は混沌が渦巻いていた。
 ―――ふふふははははははふはははははっ。
「……………何アレ」
 耳をふさいでも聴こえてくる不気味な笑い声。この耳がイカレていなければ笑い声の主はすなわちこの家の主。
「いずこよりお帰りになられてからずっとあの調子なんですーーーーーっっっ!!」
 実家の門前をくぐったその瞬間、真朱は「ぅお嬢様アアアァァァァァァァァァッッ!!!」と涙声で叫ぶ家人らに突進され群がられ危くひっくり返るところだった。

 紅黎深が笑っている。不気味にひたすら笑んでいる。止まらない。
 怖い怖い恐いお嬢様恐いんです助けて!!

 心より恐怖した紅家家人らの涙の訴えだった。
「いや俺にどうしろと。いいじゃんアレ多分機嫌イイだけだから。ご機嫌麗しゅうってヤツ?」
「でもでもでもでもコワイんですーーーーーーーっっっ!!」
 大合唱に耳を押さえる。
 わかるわかる。わかるけど。だからどうしろと。
「…………どうにかしろと?
「お願いしますぅぅぅぅ」
「無理。てゆーか、そーゆー報われない役目、俺より適任が居るだろ」

 ずばり兄。

「絳攸様はすでに玉砕済みで山のようなお仕事を押し付けられておりますっ!!!」
「あれま」
 泣く子も痙攣する紅黎深になんの遠慮も無く言いたい放題なのは、兄ではなく妹の方であるのは周知の事実だ。折りよくご帰宅なさったお嬢様に泣きついた家人らの心の中は、明確な言葉にこそなっていなかったが翻訳すれば毒をもって毒を制する。しかしこのお嬢様、意地悪でもなく傲慢でもないのにこの手の訴えには基本的に馬耳東風。故に毒喰らうのは大抵兄となるのは、紅家別邸の七理不尽の一つである。七不思議じゃない七つの理不尽。ちなみに七理不尽のうち二つはそれぞれ紅黎深と李真朱という人名を兼ねるから、とっても不思議。
「ま、帰宅の挨拶には行かにゃーならんから、一応文句垂れてみるけどさ」
 期待はすんなよ?
 泣きついてきた家人らにそう釘を刺しておきながら、紅黎深の室に足を踏み入れたお嬢様の第一声は、実に頼もしかった。


「黎深さま。純粋にキモイ


 我らがお嬢様は勇者である。


「私はつくづくお前の教育に失敗したと思う」
「ありがとうございます」
 黎深に教育された記憶なぞ欠片も無い真朱は慇懃に頭を下げた。
「褒めてないこの馬鹿娘」
「あ・り・が・と・う・ございまーす。黎深さまにも出来ないことがあるかと思うと心洗われる思いですわこの世も捨てたものではありませんわね―――ただいまー」
 仲がいいのか悪いのかわからないというかただひたすらに険悪にしか見えない久方ぶりの父娘の対面はいつだってこんなモンである。
「ふん、まぁいい私は今、実に機嫌がいい。その減らず口を聞き流してやろう感謝に咽び泣いて崇め奉るがいい」
「ヤなこったい。ただいまー」
 ぱちんと扇子が鳴る。
「ただいまー」
「……………」
「た・だ・い・まーー」
「……………………」
「たーーだーーいーーまーーーーあ!!」
「ヨクゾカエッタワガムスメヨ」
「よし」


 知ってる人は知っている。李真朱が伝説級の超勇者であることを。


「―――真朱、茶を入れろ」
「何飲むー? 紅茶でいいー?」
 この父娘の間では、伝説も水洗便所の如く綺麗サッパリ流される運命にある。
 かちゃかちゃと大雑把なようで丁寧な手つきで茶器を用意する義理の娘がここしばらく何をしていたのか知らない紅黎深ではない。しかし、彼の中でそれはかなりどーでもいいので別段話しかけたりしない。愛する姪っ子紅秀麗と一つ屋根の下(でも牢獄)でアレというのはおぞすさまじく気に入らなかったが、藍家の若造とか洟ッ垂れ主上とかなんか心底どーでもいい。
 少女も少女で報告するほどのことではないと思っているのかいないのか、言わなくたってどーせ知られていると考えているのか面倒くさいのか黙秘を貫いているつもりなのか、傍目からはどうにも内面が計れないというところと呼吸するように外道なところばかりそっくりな義理の父娘だ。

 この二人の間に奥方と兄、少数の例外を除いた人間が挟まれると、たった半日で胃を煩って吐血するのは有名な話。凶悪な父娘である。

「ほい一丁あがり茶ぁ入ったぞ―――黎深さま、案机の上のその包み邪魔なんだけど茶が置けな」
「えぇぇぇぇいもう許さぬ! 許さぬぞこの馬鹿娘!! この包みの中に何があると心得るっ!?
 寛大な心は何処吹っ飛んだってカンジでいきなり黎深は激昂した。
「知るか」
「なんと愚かなっ!! 心の目を開けっ!! これが見えぬとはどういう了見だ真朱っ!!」
「俺が愚かならアンタは無茶だ!! 中身自慢したいならまず包み解けっつーのっ!!」
 香り高い紅い茶の湯気を挟んで父娘喧嘩勃発。脈絡も無く。
「ふ―――ふふふふふふははははははははは! 良くぞ言った、見て慄け」
 フワサァッと黎深は華麗に風呂敷包みを解き去った。
 間。










 ぎーーーーーーーーーにゃーーーーーーーーーー!!!???










 慄いたなんてもんじゃない。











(最長になるのを覚悟で仮面まで拾うようにみせかけてモにょモにょ……)



モドル ▽   △ ツギ







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