李真朱はあまり頑丈ではない。 病弱とまでは言わないが、腺病質で蒲柳の質、中身はともかく、身体的には儚げな貴族のお姫さまを地で行く。チャンチャラおかしいのだが、どこが悪いと断定できるような病ではなく、臍で茶を沸かすのだが体質の問題なのだから仕方ない。 そんなものだから、医者にかかる機会は山ほどあった。紅家別邸には主治医がいるし、後宮においてもなんだかんだと医者にお世話になっているため医官に知り合いが沢山出来た。街をほっつき歩けば貧血を起こして町医者に担ぎこまれたことも一度や二度では利かない。旅先でぶっ倒れることもしばしば。トアル木に登ってトアル果実を観察していたところ、木の上で貧血起こしてボテッと落っこちて龍蓮にナイスキャッチされたのが奴との出会いだったりする。ナイスキャッチした龍蓮曰く、「木から落ちる面妖な猿かと思った」。猿て。盛大に文句を申し立てたいところであるが、木から落ちる間抜けなサルの如き会いだったことは言い訳の余地もないただの事実である。遺憾ながら。 必然的に多くの医者に会い、診断を受け、治療を受け、処方を受けた。 は大学生だった。 専門は? と問われて学部を言っても通じない程度にはマイナーな"食い残しの科学"などと揶揄される分野で、えぇっとどのようなことを学んでいるの? と尋ねられたら「フォークの先は何故二叉でも四叉でもなく三叉であるのかを研究するような学問」と至極わかり易く説明するとえーっとそれ何の役に立つの具体的には社会に出て……と可哀想なものを見る目で見られるのにも慣れたものだ。 答えは単純、「あんま役に立たねー」。 強いて言えば知らなくてもいいことに異常に詳しくなって役に立たない雑学大王になれるかなーってところだ。フォークのへさきが三叉だろーと四叉だろーと三叉が採用された普遍的な理由を知らなくてもフォーク使えるし。 実際、も李真朱も知らなくても特に困らないことばかりに以上に詳しい雑学大王である。 しかし今ならこう説明する―――異世界トリップ向きの学問かも知れん、と。 黎深に拾われてから起業するまでの数年間、李真朱はやることもなかったので、これも実地調査フィールドワークフィールドワークと自己暗示をかけて、おにーちゃんが官吏を目指して一生懸命勉強している横で地味に己の専門分野の研究を続けていた学究の徒である。フィールドワークよりも資料の分析のほうが好きだったのだがそこはそれ。他にやることもやりたいこともやるべきこともなかったいい身分の道楽学問だったが結構頑張っていたと思う。 誰に見せるわけでもないレポートを書いては積み上げ、調査しては分析し、現代社会と彩雲国の比較検討などして暇を潰していた。 そのうち一念発起し株式会社を設立してからはなかなか時間が取れなくなったが、老後にはこれらの資料を纏め上げて彩雲国文化史とでも題名をつけて自費出版でもしよーかなーと考えていた。老後の楽しみだ。枯れたお姫さまもいたもんである。 書き散らした未完成の論文のうち、彩雲国の医療について言及したものがいくつかある。 医者にかかる機会が多かったので自然とまとめられたレポートだ。 「――――だからな? まぁ聞け? この国の医療ってのは、伝統的な知識に基づいた医師対患者の一対一の治療医学だろ? つまり、どんな症状にどのような処置を施すか、それだけを追及した極めて具体的で現実的な医療ってゆーか。医師の持つ経験は、個人的な臨床医学であって、それはとても高度に洗練されていると感心しきりなわけよ」 現代医療に勝るとも劣らない、それが真朱の結論である。 救命率は現代医療の圧勝だろう。それは確かだが、理念や意識に優劣は無く、あるのは病理観の違いと一長一短の長所と短所であると判断する。繰り返すが、文化、思想としての優劣は―――ない。 患者の全体を見て、患者の主観的な症状の治療に心血を注ぐのがこの国の医療で、疾病局在論に基づいて原因を究明し、原因を取り除くのが西洋医学の流れを汲んで発展した現代医療である。 つまり、病とは主観的な"症状"である医療と、病とは客観的な"徴候"である医療の違い、病理観の違いだ。 わかりやすい例を持ち出せば、この国では原因不明の不定愁訴も立派な病であり、現代医療では原因不明では"検査結果に何の異常もないから気のせい"と病気にされない。重点の置き方に決定的な違いがある。 「でな? 高度に洗練されてるとはいえ、医者は病気の治療に一生懸命で、 うわぁぁぁんと真朱はマジ泣きした。 泣かないでか。締め切り三日前に"このレポート、やり直し"と教授に笑顔で駄目出しされたときと同じくらい泣けた。だばっだば泣いた。 「あーと……えーと、すいません? いくらでも謝りますからその研究、もうちょっと詳しく詳細に重箱の隅をつつくように話してくれません?」 「あーーーーやり直しっ!! やり直しじゃん!! 俺の調査不足だったかぁ!? 確かに外科手術が必要な大病にかかったことはなかったけどさぁ、この国に冠状鋸手術と腫瘍疾患の手術と白内障患者の硝子体転移手術と扁桃腺潰瘍と接骨、切断以外の切開手術があったなんて聞いてないいぃぃぃぃっっ!!」 真朱は聞いていない。ショックのあまり大絶叫だ。 名前だけ並べると至極たいそうな大手術のように聞こえるし、決して簡単な手術ではないが、これらは元の世界の紀元前にはすでに行なわれていた手術たちである。"外科"という分野が確立していないこの国でも伝統的に行なわれていようとこれらは別段驚くべきことではなかった、がしかし。 「頭部胸部腹部の手術はないと思ってたっ!! 思想的に無理があるじゃん!! 病原を追究する思考がまずないし、だから生理学とか免疫学なんて端っから成立してない自然科学分野だから"原因を切除する"って思考がまず異端だろ!? つーかこの国の思潮ならまず思いつかないはずだぁっ!! なんで聴診器持ってんのこれどーみても止血鉗子だよねッ!? てことは血管結紮術確立してんの!? 血管結んじゃったりする!?」 「します」 「いやーーーーーっっ!! 俺の論文が海の藻屑ーーーーーーっっ!?」 始まりは、華眞と名乗った医者が頬の治療のお礼に頭を下げたことだった。 ドジ属性なのか、華眞は背負っていた荷物を頭を下げたついでにぶちまけてくれたのだ。 ドジなオッサンだなーほんとに医者かよ大丈夫かこのオッサンと思いつつ華眞のぶちまけた荷物を拾うのを手伝った真朱は、幾つかの器具を目にしてチョットマテと華眞に詰め寄った。 「……コノ筒ナンデスカ?」 「えーと、それは心腑の鼓動と呼吸音を聴くための道具です」 「……………コノないふトふぉーくミタイナノ、ナンデスカ?」 「ないふとふぉーくってなんですか? えっとそれは…………あのですねー、例えば病の原因が腹の中にあったりした場合に、乱暴ですけど最後の手段で腹を切り開いてその病の原因を取り除くのに使う道具です……ちゃんと傷は縫いますよ!? 縫うと傷はくっつくんです!! 嘘じゃありません!!」 そんな問答を挟んで、真朱は自説の崩壊を泣き叫ぶことになった。 ―――羅針盤の発明が大航海時代を招いたように、火薬の発明がそれまでの戦争の形を変えたように、活版印刷術が知識階級に独占されていた知識を広めたように、発明された道具により迎える転機、転換というものがある。 医学においては様々あるが、こと自然科学に基づいた分析的な西洋医学が世界の主流になるまで、要所要所で人々が苦心の末に作り上げてきた道具と理論がある。その中でも真朱はX線登場まで、登場してからも医者の象徴となっている聴診器、切開手術における患者の大出血を止める止血鉗子と血管結紮術、消毒と麻酔。これらが大きな転機を与えたと知っていた。 知っていたのは医療史であって、李真朱は医者ではない。医学の専門的な知識はないし、技術もないからこの国の医療に貢献することは全くなかった。 なかったが。 「あの……本当にその話、よく聞かせてくれませんか? むしろその論文読ませていただきたいんですけど!!」 「論文は実家……」 「ではやはり詳しく詳細に重箱の隅を穿つようにむしろ抉るように話してください聞かせてくださいお願いします!!」 「見事瓦解した論文に何の用がある。ちくしょお一から資料から集めなおさなきゃ……」 「違うんですそうじゃないんです。貴女のおっしゃる通りなんです。わたしの研究や切開手術はまるで一般的でないんです。先祖代々それらの技術を受け継いで研究を続けてきた一族なんですが、そのご先祖様からして王様の腹を開いて手術をしようとしところ"王に何をするーっ!?"って処刑されちゃったくらいなんで」 「うぉ………それは」 なんとも相槌の打ちにくい昔話だ。 真朱は反応に困って視線を彷徨わせた。 「―――さぞ、悔しかっただろうと思います」 「そらまー……ある種の濡れ衣だろーし……」 「いえ。手術を受けて、原因を取り除いて、回復することが出来れば助かったはずの患者を残して逝かねばならなかったのは、医者としてさぞ無念だったと」 そっちかよ。 真朱は正直なところ、呆れ返った。 「わかった。華一族は先祖代々脈々とお人好しなんだな」 そういうDNAが二重螺旋にプリントされているとしか思えん。 しかし。しかしだ。 「………なんつーか、それは初っ端から超極端な例だけど……患者の無理解ってのは、仕事やりにくいだろうな」 外科手術は危険を伴う治療である。麻酔技術が発展するまで痛みで昇天する患者もいたはずだし、静脈注射―――点滴栄養法が確立するまで術後の患者の何割かは侵害反応、手術の傷自体が原因で亡くなっていたはずだ。抵抗力が落ちるから感染症を招くし、口から摂取する栄養素の吸収力が著しく落ちる。尿からたんぱく質が流れていく。原因は多々あるが、主なところはこれらだろう。 危険を伴う治療であれば、患者の同意は必要不可欠だ。患者を救うという大義名分で侵していい領域ではない。それがどれだけ―――真摯な想いであろうとも。 「罵られても、石をぶつけられてもかまわないんです。でも、助かるはずの人を、助けられないのは悲しいです」 若い母親に罵られても、怒りもしなかったのは、空前絶後のお人好しに加えて―――慣れも、あったのかもしれないと真朱は推測した。 「……えぇい!! いい年こいたオッサンが思い出してグズグズ鼻を啜るなぁっ!!」 目の前でシクシク泣き出した華眞に真朱は手巾を渡そうとしたが、何故か懐に手巾はなく―――そうだ、さきほどの子供の顔を拭うのに使ってそのまま手渡したのだ―――仕方なく、袖で顔をゴシゴシしてやった。 「す、すいません鼻水が」 「言うな。袖破り捨てたくなるから言うな。そんで泣くな」 「はい………」 良い子の返事だ。年齢はあえて考えない。 中年のオッサンの涙を拭くという作業は何故か異様に荒むと思いつつ、頬の傷には触れないように注意するあたり真朱はなんだかんだで面倒見がいい。 「んー? アンタの持つ知識と技術が一般的でないっつーことは、俺の論文は根本からやり直さなくてもいいっつーことか?」 「はい。むしろ伝統的な医療と、切開手術を含めたわたしたち一族の医療の差異と長所短所を客観的に、実に的確に指摘した論説だと思います。その論文ください」 「ふぉ!?」 真朱は仰け反った。 「ください。患者さんやそのご家族の説得にとっても役立つと思うんです」 「え、えー? いやでも俺の研究は使命とかそーゆー崇高なモンじゃなくてタダの趣味だし俺は医者じゃないから自分がわかる範囲の事柄と気づいたことをチョロチョロまとめただけだしっ、しかも未完だし手元にないし……っ」 さらに言えばの本当の専門は食文化だったりする。卒論はこれで行こうと思っていた。 「ください」 「いやあの」 「ください」 「いや、あの……」 「ください」 負けた。 「差し上げます」 「ありがとうございます!! ありがとうございますー!!」 笑顔で迫る押しの強さに負けた。 「役に立つっていうなら………書きかけの論文を全部アンタにやる。完成させるのは医者のほうがいいだろ。俺の視点はあくまで患者のもので、医学的知識は乏しいから」 もともとある程度の骨子を立てたら本業の医者に託して医学的見地からの注釈を頼もうと思っていたところだ。 「それならわたしより適任者がいます。わたしの息子なんですけど」 「子持ちかよっ」 素で驚いた。 「えへへそうなんですー。その子は官吏目指して沢山勉強してるんですよ。そう遠くない未来、貴陽に会試を受けに行くはずです。真朱さんが貴陽にお住まいであれば、きっと絶対会えると思うんです。その子に渡してくれませんか?」 「いや待て? お前以上の適任者が官吏志望?」 「でも医者です。貴女は先ほどこの国の医療は医者の経験の個人的な臨床医学と仰いましたがその通りで、医者同士、横のつながりが全くなくて、秘伝として知識が隠匿される傾向があります。それって医学の発展を阻害してませんか?」 「してんな」 真朱は軽く頷いた。一人で考えるより百人で考えたほうが色んな意見が出て発展拡大するはずだ。 「私がそれを嘆いてシクシク泣くからでしょうか。息子はまず官吏を目指すと言いました―――情けない親を持つと子供ってしっかりするんですよね」 華眞は自慢げに胸を反らしてくれたが、それ自分が情けない親だと宣言している。 真朱は華眞の息子に貴陽で会える可能性を検討してみる―――まぁどうにかなるだろう。いつ受験をするかは華眞の息子次第だが、養い親に頼めば受験者の名簿くらい見せてくれるだろう。別段悪用するわけでもないし、紅黎深に"公私混同"とかいう思考はないので無問題。 頷いて、了承した。 華眞はほわりと笑み崩れた。 「―――貴女に会えた奇跡に感謝します」 「……奇跡っちゅーのは大げさだが、まぁアレがなんかの役に立つんなら俺もちょっと嬉しい、かな」 やることがなくて。したいこともなくて。兄が目標に向かって一直線だった横で、何もない己が情けなくて、何かせずにいられなかった日々の欠片。 「いえ、そうじゃなくて」 片手をふって真朱の言葉を否定した華眞に真朱は身構えた。 さっきからこの男、真朱の予想の右斜め上をかっ飛んだ発言を連発してくれる。心構えがないとまた無様に驚愕しかねない。 半眼になって構え、さぁ言ってみろ何言われても驚くもんかと腹に力を込める。 そんな少女の様子に目を細め、華眞は悪戯っぽく微笑んで―――。 「貴女のような、素敵な女性に出会えたことが、奇跡なんです」 心構えなんて無意味だったと言っておく。 ―――肋骨に罅が入っていたおかげで真朱は実家の寝台に兄に縛り付けられていた。後宮の仕事もあるのでとっとと王城に戻って今日も今日とて根暗で陰湿な策を弄する下準備に励みたいのだが、王様にはゆっくり休んでくれとお願いされるし養い親は一週間は謹慎(養生じゃない)! と兄を擁護するし奥方も駄目ですと譲らない。とりあえず逆らえない筆頭三人に揃って駄目出しされてはさすがの李真朱も大人しくするしかない。 孤立無援だ。確かに派手に身体を動かしたりすれば痛むが、日常生活を送る分にはたいした不便もなかったので真朱は寝台で不貞腐れている。 以前二階から飛び降りて足を骨折したときも思ったものだが、この身体は―――男であった頃より、痛みにだけは、強いように思う。 有体に言えば超暇だったので、真朱は邵可邸を辞して安宿に泊まっているという影月を紅家別邸乙女の寝室に招き、事の次第を包み隠さず語り終えると、約束のものを影月に託した。 「―――これ、が」 「そ」 気心の知れた家人に影月の迎えを頼んだのだが、安宿の門前に場違いに高級な軒が止まったかと思えば慇懃ながらも強制的に連れてこられた超豪邸に白目を剥いてぶっ倒れそうになりつつ、あまつ嫁入り前の乙女の寝室に放り込まれて息も絶え絶えだった影月は、騒動のドサクサで聞き損ねていた懸案を耳を大きくして一言も漏らさんと聴いた。 「堂主さまが……」 「一応あれから俺もなんとか時間をやりくりして調べなおしたんだけど、やっぱり病原を追求するとか切開手術は全っ然一般的じゃないと思う。処刑されたご先祖様の伝承とか、そのご先祖様に切開手術の方法を授けた謎の美少年の伝承だとか、華眞じゃないっぽい伝説の流れの医者の逸話は拾えたけど、前者はともかく伝説の医者なんてのはちょっと眉唾ってゆーか、信憑性にかけるんだよなぁ……誰か一人ぐらい助けられた患者の話が聞ければ信じてもいいんだけど……」 つーかその謎の美少年とか伝説の医者は異世界トリッパーかもしくはカミサマ彩雲国風に言えば仙人なんじゃねーのと疑っている。つまりあまり信じていない。 「あとは伝言だな……『ありがとう、元気です、頑張っています。愛しています愛しています愛しています愛しています愛しています』―――陽月くんにはもう伝えた」 「―――あ、あは……」 料紙の束を大切そうに抱えた影月が、笑いながらほろっと涙を零した。 「堂主さま……っ」 「お前も泣くのかよー……陽月くんといい影月くんといい、ほんっとそっくりだなぁお前ら親子」 華眞にそうしたように、シクシクする影月の顔をゴシゴシする。 「その手巾やるから鼻もかんじまえ」 「はひ……」 遠慮なくズビーと鼻をかんだ影月はのち、洗って返そうとした手巾の見事さに卒倒することになる。鼻かんじゃったー。 「―――会試、がんばれよ、孝行息子」 「はい」 返ってきたのはやっぱりイイ子の返事で、真朱は面影に目を細めた。 影月がもじもじと寝台の真朱を見上げて、言った。 「あの……い、一回だけおかあさんって呼んでもいいですか?」 「年近すぎるんじゃなかったのかよ」 そんな会話もあったとか。 (最後のは場を和ます冗談、なはず。真の勇者は誰か) |