どうすればいい―――そんなこと、わかっている。
 諦めればいい。そうして、開き直ればいい。自分を含めた誰にとっても、それが一番簡単で順当で真っ当で矛盾のない選択だ。わかっている。
 だけど諦めたら、そうして、開き直ってしまえば、まるで泡沫のように消えてしまう。それが恐く、何よりも―――消えゆく"自分"が哀れで仕方なかった。
 生きていたのに、確かに生きていて、今だって身体を代えて生きているのに、誰も知らない本当の名前とともに、削除されてしまうようで悔しかった。そんなに簡単に己の心一つで消えてしまうなんて、そんなのってないじゃないか。
 此処にいるのに生きているのに、この世界の誰にも省みられることのない"彼"が哀れで仕方なく、"自分"が愛されるほどに"自分"が惨めになる。


 ―――認めないのは、"自分"を生かすための唯一手段だ。
 ―――拒絶するのは、"自分"を守るための絶対の条件だ。


 一番わかりやすい差異に、明確な境界を見出してしがみついて取り縋って、卵の殻より脆い鎧を作った。
 認めるものか。
 受け入れてなるものか。
 そうでなければ、あまりに哀れで惨めだ。
 墓碑も要らぬ。銘も不要。たまに思い出して、懐かしんで悼んでくれれば本当はもう、それでいい。あの世界の父や、弟妹友人知人、彼らはそうしてくれるだろう。
 だけど"この世界"は、"彼"が消えたところで―――思い出してくれる記憶も、懐かしむ思い出も、悼むための涙も、誰も持っていない。
 それはあまりにも、哀れで惨めな"死"だ。
 平凡で、ちっぽけな人間にふさわしい死に方だとは思いたくなかった。平凡で、ちっぽけなりに生きてきた二十一年が確かにあったから。自分の中にだけは、あったから。
 認めたら、楽になるだろう。
 受け入れれば、受け入れられるだろう。
 わかっていても―――それだけは、どうしても、出来ない。


 唐突に、声が聴こえた。





 ―――"お前"が"消えた"ところで、世界は何も変わらない。



 ―――あの世界で消えた"彼"がそうであったように。







 気がつけば、目の前で兄が泣いていた。
 涙を流して泣いているところなんて見たのは初めてだと驚いた。何泣いてんのと尋ねようとして声が出なかった。
 手首が痛いなと、気づいたのは、そのずっと後だった。








 妓楼での賃仕事最終日、仕事前の胡蝶と二人で秀麗は買い物に出ていた。
「真朱のお見舞い何がいいかしら? すっごいお嬢様に贈るものなんて思いつかないわー……」
 悩ましげな溜息をつく秀麗の台詞は紅家直系長姫のものとは思えない。
「確かにあの子はあれでもいいトコのお嬢さんだけどねぇ、秀麗ちゃんも見ただろ。そんじょそこらの男よりも千倍恰好の良い惚れ惚れするような心意気の―――優しい子だよ。秀麗ちゃんに贈られたものなら、なんでも絶対に喜ぶに決まってるさ。ホント、女にしといて男なんかにくれてやるには惜しい子だよねぇ。同性なのが惜しいッたらないよ」
「あはは! そうよね、本当にそうよね、恰好よかった………綺麗だったわ。でもやっぱり、喜んでくれるものを贈りたいんだけど―――真朱が身につけるような装飾品には手が出ないし、食べ物っていうのもいつものことだし……姐さんどうしよーっ!!」
 仕事前の胡蝶と二人連れで街を歩くなんて秀麗も初めてのことだった。気兼ねなく相談が出来るし、友達というには胡蝶は憧れが過ぎるが、女同士の買い物は心が弾んだ。
「そうだねぇ。真朱は綺麗に着飾ってるが、それも仕事の一環だと自分に言い聞かせてる節があるんだが、あの子、細金細工がすごく好きなんだよ。若い職人の保護に精を出してるくらいね」
「さ、細金細工……無理だわ姐さんっ」
 秀麗はいつもよりはちょっとだけ重いが基本的にはとっても軽い財布の中身を嘆いた。
 着飾ることにあまり興味はないのだが、現代では失われつつある細金細工だけは末永くその技を伝承して欲しいと、キラキラが好きな年頃の娘の心とかけ離れた理由で真朱が職人の保護を買って出ているということは誰も知らない。博物館でしかまずお目にかかれなかった、五百年くらい経過したら文化財指定を受けそうな装飾品を日常的に身に纏えるようになるまでに庶民根性との仁義なき戦いがあったとかなかったとか。
「背伸びや無理なんかしないで、心を込めた手作りのものがいいと思うよ、秀麗ちゃん」
「うぅー………やっぱりそうなるのよね。喜んでくれるかなぁ?」
 真朱は壮絶な寒がりという話を静蘭から聞いている。なんでもとっても可愛くなって兄を翻弄するとか。熱を出してその現場を拝めなかったことを秀麗はことさら悔しがっていた。でも内心それっていつものことじゃない? と秀麗が思っているのは内緒だ。
 肩掛けとか、ひざ掛けなんかはどうだろう。大事な試験が目前だが、それならあまり時間もかからない。春になるまで、まだまだ寒い。
「ふわふわのもこもこの白いくて可愛いのなんかどうかしら。絶対似合うわ!!」
見た目にはね」
 ふわふわのもこもこを纏った少女を想像した胡蝶は素直に似合うと認めたが、いいとこのお嬢様が何故知っているそんな下街言葉(/スラング)を平気の平左で多発するツワモノである中身を鑑みてしまい、女の子を飾り立てる見立てに一角ならぬ自信があるからこそ胡蝶は外見に限定した注釈をいれずにはいられなかった。
 秀麗は胡蝶の言い様に華やかな笑い声を立てる。




 悩んだ末、秀麗は白と桃色の毛糸を買い求め、胡蝶はそんな秀麗を見守って、妓楼に帰還した。




「さぁて秀麗ちゃん、最後の賃仕事の前に胡蝶に時間をおくれって言ったね」
「え、はい」
 妓楼に到着するなりいそいそと算盤を取り出した働き者の秀麗は、胡蝶の言葉に算盤を置いて居住まいを正した。
「贈り物があるって言ったろう。お化粧の仕方と化粧道具一式さ」

 それを視界に入れた瞬間、秀麗は桃源郷を見たと後に語る。

「ね、姐さ……そそそそそそれっ」
「ふふん、それぞれの妓楼一の妓女のお勧めをひとつずつ注文した"朱李花"の最高級品だよ」
 いやもう中身以前に、薄紅の風呂敷を解いて現れた黒漆の化粧箱に施された繊細な螺鈿細工の七色の輝きに目が潰れた。この化粧箱一つで家が建つ。絶対立つ。目が回った。
「そんな姐さん、わたしお化粧なんてっ! てゆーかそんな目の潰れそうな豪華な箱、箱貰えないわっっ!!」
「化粧箱は真朱の贈り物だね。朱李花の社長が直々に特注した一点ものさ」
 その化粧箱は三段の引き出しがあり、一番上の蓋を開けると銀張りの鏡が立ち上がり簡易鏡台と様変わりする。待って、お願い待って! 引き出しの取っ手が純金製だっっ!!
 秀麗の動揺をさらりと無視して胡蝶は箱の中の陶製の瓶を手に取る。柔らかな花の香りがふんわり立ち上る化粧水を綿に浸すと、慣れた手つきで秀麗の顔にぱちぱちとそれを叩いた。
「ね、姐さぁん……っ」
「値段のことなら気にするんじゃないよ。最高級品って言ってもわたしら妓女は小金が出来たら朱李花の株式を購入するからね。株主特典で割引がきくのさ。真朱も面白い仕組みを考えたもんだよ」
「朱李花って、真朱のお仕事よね? 真朱はお化粧品の商いをしているの?」
「―――呆れた。知らないのかい秀麗ちゃん」
「く、詳しくは。秋の豊穣祭で真朱の会社が女装大会を主催したって事ぐらいしか……なるほど宣伝になるわね」

 化粧をするのが男でも。

 腑に落ちたと頷く秀麗に胡蝶は目を丸くした。親しく付き合っているように見えて、真朱は秀麗に自分の仕事を話したことはないようだ。公私混同を嫌う真朱も真朱だし、年頃の少女でありながら飛ぶ鳥落とす勢いの女の憧れ朱李花を詳しく知らないという秀麗も秀麗だ。
 株式会社朱李花は彩雲国に類を見ない組織である。
 化粧品の原料の確保から生産、流通販売に至るまでを一手に引き受ける。七家を筆頭に貴族が階層的に分散支配するそれを、朱李花は血筋によらず、一本の流通体系を独自に形成した。それがどれだけ斬新で、今までにない試みであったかは、今はまだ目端の聞くものにしか理解されない。各支店の報告や鳩を使った情報伝達も相まって、それは網の目上に茶州を除く彩雲国全土に広がっている。取り扱い品が化粧品なだけに、女性の登用にも積極的で、女性に対する影響力は計り知れない。
 貴陽には当然、既存の白粉問屋がある。客を確保するために真朱がまず訪れたのが、この妓楼だった。
「ふふ。秀麗ちゃんみたいにねぇ、あの子一人で此処の門を叩いたのさ、三年前くらいのことだったかね」
「真朱が?」
 まさか超お嬢様である真朱が秀麗のように賃仕事を求めてやってきたとは思えないし、まさかまさかの妓女志望でもあるまい。
「もしかして……」
「古傷を抉るようで悪いけど、真朱は妓女の仕事を理解してたよ」
「はぅっ」
 理解していたからこそ、妓楼を訪ねたのだ。まだ幼いともいえる年齢で、場違いなほど真っ当に装った深窓の姫姿で、顔立ちだけはあどけないと評せた面に薄化粧を施して、袖から覗く左の手首に真っ白な包帯を巻いた少女は妓楼の門扉を叩いた。
「自分が作った化粧品の売り込みに来たんだよ。貴陽の女性の流行の発信源は此処だってね。名だたる妓女が使い始めれば、ほっといても街の人たちも真似して使い始めるからお一ついかがですかってねぇ、十二、三やそこらの女の子が」
 包帯を巻いた手が、ひとつひとつの化粧品を丁寧に卓に広げた光景を、胡蝶は今もまざまざと思い出せる。
 化粧水を秀麗の顔に叩き終えると、今度は皿に白粉を盛り、それを化粧水で溶き始める。





「―――白粉が、有毒だってこと、秀麗ちゃん知ってたかい?」





「………え?」
 秀麗は耳を疑った。
「水銀から作るのと、鉛から作るもの、二種類あってね、水銀の方が値は張るが、まぁ結局どっちを使うかは個人のは好き好きさ。それが両方とも酷い毒があってねぇ。わたしら妓女は経験的に白粉が身体に良くないとわかっていたけど、美しく装うことも仕事のうちだ、自分の為に誰よりも美しく装うのが誇りだからね、わかっていてもなお生きていくために、化粧せずにはいられない。女の業だね」
 化粧水で溶いた白粉を刷毛がゆっくりと混ぜる。小皿の上で行なわれる作業を、秀麗は目を見開いて見つめた。
「胃腸をおかしくしてあっというまに死んじまう娘を何人も見てきたよ。貧血や関節痛を起こして歯茎が黒ずむなんてのも日常茶飯事さ。慢性中毒症状だって真朱は言ってたけどね。少しでも美しくあるために白粉を塗るのにねぇ、白粉のせいで黒い皺を刻んだ目も当てられないような悲惨な顔になっていくんだよ。そうやって、妓女は惨めに死んでいく」


 秀麗は、夜を彩る美しい妓女たちを雁字搦めにする細く錆びた鎖を見た。
 日暮れ前に帰るから、知らなかった。


「そんな、姐さん。胡蝶姐さんは大丈夫なの? 大丈夫よね?」
 胡蝶は微笑んだまま答えず、白粉を溶く。
「酷い悪循環だろう? 身体一つで一生懸命生きているだけなのにね。でもそんなことは承知の上だ。明日はわが身と知っていた。それでも美しくありたいのさ、女はね、誰よりも。でもねぇ。この悪循環から抜け出せないと気づいたときに自分を取り巻く世界が皮肉げに宣告する―――"早く死ね、一刻も早く死ね"―――そう、言うのさ。聴こえるんだ。命を懸けて惚れた男に言われるのと同じくらい、胸に来るよ」
 まるで世界から締め出されるように、真綿で首を絞める拒絶の腕。
 自分の力だけではどうにも出来ない連鎖にとらわれたとき、聴こえる残酷な声がある。
 人はそれを絶望と呼ぶのかもしれない。

 ―――聴こえたことが、ありますか?

 小さな少女はそう尋ねた。
 どうすればいいかなんて、とっくにわかっている。
 わかっていてもままならなくて、もがけばもがくほど溺れて沈んでいくような連鎖の中にいると自覚したとき―――。
「死ぬために、生まれてきたみたいって………」
「秀麗ちゃんには、そう聴こえたんだねぇ。内乱の時だろう? あの子がいつ、あの"声"を聴いたのかわたしは知らないけどねぇ……」




 細い腕に巻かれた包帯が、痛々しいほど白く、眩しかったのを胡蝶はよく覚えている。




「きっかけはお家の奥方にそろそろ化粧をしたらどうかと白粉を貰った時だって聞いたよ。あの子も不思議なことに興味を持つから原料と製法を調べて仰天したんだってさ」

 薄く削いだ鉛片を酢で蒸して採る鉛白―――恐らく炭酸塩。
 食塩と苦汁を加えて練り固めて鉄壷で熱して得る白色燐片状の水銀―――多分塩化水銀。
 古代ローマは鉛製の水道管のせいで滅びたとか厚化粧で有名だったエリザベス一世だとか歌舞伎役者の鉛毒障害なんて古今東西の逸話とにうろ覚えの化学式が李真朱の脳内を爆走した瞬間である。

「こりゃマズイと気づいてから一月もせずに安全な試作品を作っちまうあの子の行動力には頭が下がったね。本人曰く"江戸時代の花柳文化を調べたことがあったから早かった。むしろ今の今まで忘却しくさってたのは一生の不覚"って言ってたけどこれがサッパリ意味がわからなかったんだが、美人薄命だなんて世界の宝の浪費だって力説するんだ。最初は奥方のためだったらしいが―――笑っちまったよ」

 とゆーわけで澱粉を基本に陶器の粉や石松子などを配合して無害なの作ってみましたお一ついかが? ツキもノリも従来の品に劣りませんときたもんだ。

「ね……姐さん、笑い事じゃない」
「嬉しくて笑ったんだよ、秀麗ちゃん」
「そ、そっか。じゃあ、笑っちゃうわよね」
「そうさ」
 李真朱は実に強かだった。
 自らの姿を広告塔に、誰もが羨むような装いを課し、真っ先に売り込んだのは流行の発信源だと見抜いた妓楼。積極的に流行を操作して、あれよあれよと従来の製品を駆逐し、従来の流通を吸収してのけた。目の付け所がいいなんてモンじゃない。当人曰く、"流行の操作なんてファッション業界の常識じゃねーの? よく知らんが"と見よう見まね。実家の権勢まで利用して、やってのけた。
 ―――何かしてないと、気が狂いそうだとも―――言っていた。


「"化粧は女の戦装束―――そうしたら絶対に泣けない"」


 ………そっかー。
 じゃあ、泣かないように、俺も毎日化粧をするよ。
 胡蝶の信条に深く頷いて、あの日少女は笑った。
 アイツの前ではもう二度と泣きたくないんだよね、なんていいながら、毎日毎日装い続けていたのだろうに―――ボロボロに泣いて笑って血塗れでも、白い仮面のこそげ落ちた先日の少女の素顔は美しかった。
 とても、美しかった。
 それは、弱さや醜さを隠して俯かず、むしろ誇るように顔を上げた潔さの輝きだったのだろう。




 ―――あんなの反則じゃないか。胡蝶は思い出し、そっと笑む。




「泣いたら化粧が崩れる。どんな薄化粧でもそりゃあみっともない顔になる。だからどんなに辛くっても泣けなくなるのさ」
 見守ってきた少女の門出に贈る白粉で、泣く女はもういない。
 初々しい少女に化粧を施す手は慈しむように包むように、暖かい。
「そうして秀麗ちゃんも、白粉の下で素顔を磨くんだよ。女はきっと、そうして美しくなっていくんだから」
「姐さぁん……」
「戦いに行くんだろう。一人で―――あの"声"に泣く人に、手を差しのべるために」
 自分の力だけではどうしようもない鎖に囚われたとき、誰かが誰かの助けとなるように。
 もしかしたら今もまだ、あの声に泣いているかもしれない少女に手を差し伸べるのは、誰だろう。
 誰でもいい。そう思う。
 きっと誰かが手を差し伸べるはずだ。彼女がそうしたように。




「―――うん」




 秀麗は俯かず、顔を上げた。胡蝶はその決意に満足そうに微笑み、少女の面に薄化粧を施していく。
 誰かが誰かの助けとなるのなら、あの娘に手を差し伸べる誰かがこの娘かもしれない。餞にはうってつけだと刷毛を閃かせる。

 鏡を前に、白粉を叩き紅を引く。
 今も時々、声が聴こえる。
 それは唐突に、あの時と同じ声で世界が告げる。


 ―――頑張れ。


 そう聴こえる。
 どうしても辛くて泣きたくなったとき、この娘にもその声無き声が聴こえるといい―――。










ぶぇーーーーっくしゅんっっ!!
 真朱は盛大なくしゃみを放って悶絶した。肋骨、あばあばあばばばらばらアバラが、アバラがっ。
「あぁ!? だ、大丈夫ですかぁ!?」
「〜〜〜〜〜っ!!」
 枕をばっしんばっしん叩いて痛みをこらえる真朱に、枕もとの影月が慌てる。
「だ、誰だぁ、俺の噂してんのはっ!?」




 お約束で真朱はくしゃみの原因を噂だと決め付ける。奇しくも真実だった。




「誰だ―――誰がいいかな。うん、タヌキあたりが妥当だろう。覚えてろ狸ジジィっっ!!」
 そして某タヌキに濡れ衣を着せていた。











(主人公、主人公の癖にオチ担当。そして後日濡れ衣タヌキに出会い頭にドロップキック←八つ当たり)



モドル ▽   △ ツギ









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