絳攸は背中に滂沱の滝汗を流していた。 やましいところはない。全然ない。これっぽっちもないのに何故、笑顔の妹が獄吏に見えるのか。謎だ。 彼が疑問を口に出すことが出来ていたなら、楸瑛か胡蝶あたりがしたり顔で説明してくれただろう―――うん、ひとえに場所が悪い、と。 いつも不機嫌な李真朱がニコニコ笑って無言の重圧をかけているのは、その辺の男の機微(むしろ性)を百も承知であるのは言うまでもない。一生縁がないだろうとばかり思っていた兄を妓楼で発見したので、ここぞとばかりにからかっているわけだが、そんな奇奇怪怪かつ複雑怪奇な妹の胸のうちなど絳攸にはわかるはずもない。哀れ、ニコニコ真朱に恐れ慄き後ずさりをした。 「あれは何の修羅場だい? 藍様」 「あぁあれは限りなく痴話げんかに近い兄妹げんかというか……絳攸、戦わずにすでに負けてるね」 すでに腰が引けている。つまり喧嘩にすらなってない。 場所柄職業柄、修羅場も愁嘆場も見尽くしてきた胡蝶にすら計りかねる変な兄妹の無言の磁場を、楸瑛が解説。 真朱はニコニコ笑っている。 ―――無邪気な笑顔に見える。てゆーか初めて見たァ。何その笑顔、超イイ笑顔ではないか。やれば出来るんじゃないかと絳攸の思考脱線。 「綺麗なおねぃさん、紹介いたしましょうか? おにいさま」 おにいさまときたもんだ。人前で取り繕うことはあっても、面と向かって"おにいさま"呼ばわりなど…………わぁ、人生初。絳攸の思考跳躍。 「わたくしの名前で御代をツケてもよろしいですわよ?」 奢ってやると真朱はぐっと握った指を突き出した。人差し指と中指の間に親指が差し込まれている一風変わった握りこぶしだ。兄妹修羅場を興味深く見守っている面々すらその手の意味は誰も知らず、李真朱の体面は守られた―――お下品。 「いいいいいいいいいらん!! 余計なお世話だっ!!」 「あら? あらあらあらぁ? でしたらそろそろ心優しい兄思いの妹を安心させてくださってもよろしいのではございませんの?」 お義姉さま欲しいなーと上目遣いでおねだり。角度も眼力も完璧な新手の必殺技だ。誰だ、コイツにこんな技を教えたのは!?(答:楸瑛)……絳攸の思考攪拌。 「〜〜〜〜そういうお前は何でこんなところにいるんだっ!?」 「愚問!! 露に濡れた英を愛でるために決まってる!!」 妹の阿呆な即答に―――しかも無駄に詩的な表現だ―――絳攸の思考空中分解。 「馬鹿なことを言うのはこの口かぁっ!?」 「いひゃいいひゃいいひゃいぅ〜〜〜」 両頬をこれでもかと引っ張る。ほっぺたぐにー。おぉ伸びる伸びる。ぐにー。 「……………………がっきゅぅうんこ」 真朱、お約束。 ぷちっと絳攸のナニカが切れた。 頭突き。 「「〜〜〜〜〜〜っ!?」」 揃って額を抱えて蹲る馬鹿な兄妹を、もう勝手にやってろと観客は見捨てた。 「………それにしても藍様よりいい男にこれだけいっぺんに会えるとはねぇ」 「………胡蝶。もしかして私はアレ以下なのかい?」 聞き捨てならないのを通り越して悔い改めるからそれだけは勘弁してくれとばかりに楸瑛は背後で悶絶している馬鹿の片割れを示す。 「…………………」 花街一の名妓女は海より深く沈黙した。 美貌に知性、技芸、教養に溢れた胡蝶が答えあぐねて押し黙るのを秀麗ははじめて見た。 何故だろう、一人でいればその才気に見上げるような思いを抱く二人なのに、揃うとここまでヘンに(心優しい秀麗は直球表現を避けた)なるのかしら絳攸様と真朱って―――ここに彼らの養い親が加わるとさらにどうしようもなくなるという正にどうしようもない事実を秀麗は知らない。 「そうだねぇ。床をともにしても『愛してる』と決して言わない男よりは、マシなんじゃないかい? あれは天然だ。わたしの見立てじゃ言うときゃ無意識で言うしやるときゃ無意識でやるとみたね」 女だてらに百戦錬磨の胡蝶の絳攸評にどこか納得しつつ(あーそっかそっか意識してたら逆に出来ないんだ恥ずかしくてー)、艶やかな流し目で睨まれた楸瑛が宙を仰いだ。悔い改める刻は近いようだ。 始めから頭突きまで、ずっとジィッと李兄妹のやり取りを見つめていた劉輝が顔を上げて、なにやらとても物を"わかっている"胡蝶に、積年(というほどのものでもない)の疑問を吐露した。 「………とゆーか、何故だ? 絳攸は真朱が好きで、真朱は絳攸が好きなのに、あの二人は兄妹のままなのだ?」 ―――――言ったァァァァァァァァァァァァァ!!!!! 「主上、見直しました。あなた勇者です」 楸瑛、無条件尊敬。劉輝は微妙に嬉しそうだ。 「ななななななな何言ってんの劉輝!! あんたいい加減思ったことすぐ口にするのやめなさいよぉぉぉぉぉっ!! 空気、空気読むのよっ!!」 秀麗はフラダンスによく似た舞を踊る。そよそよ揺れる空気を読めという身振り手振りらしい。劉輝は秀麗可愛いと脳内に収める。永久保存だ。 「言っていいことと悪いことがあるんですよ主上。っめ!」 静蘭、めって言った。めって。うわぁ懐かしい兄上。敬語だったが劉輝はめちゃくちゃ嬉しかった。 「ぼぼぼぼ僕、子供なんでわかりませんっ」 影月は逃げた。劉輝はうむ、余もわからぬのだと共感を覚えてそしてむぅっとなる。つまり、自分も子供なのか? 「……………若様。あんたもうちょっと精進しないと惚れた女逃がすよ?」 濡れたような溜息を零した胡蝶の言葉に劉輝は顔色を激変させた。 「それはいかん!! すでに一度思いっきり逃げられて、」 「あんたホントちょっと黙りなさぁいっっ!!!」 妓楼の一室は混沌の坩堝と化した。 「…………だぁれぇがぁ」 「………………なんだって?」 いつの間にか身を起こしていた李兄妹が劉輝の背後で笑っていた。 混沌に拍車をかける兄妹そろって地獄の底の金輪際の悪鬼を煮詰める大釜の底の絞りカスを煎じてドドメ色と底なし沼色の粉末毒薬を加えて練って練って練りあげたようなわけのわからない喩えだがとにもかくにもおぞましすぎる骨髄液も氷結する地を這うオドロ声で二人して見たこともないような超晴れやかな笑顔を浮かべて背後にいる。見えないけど見える。いる。 後ろにいる。 「………秀麗、余は恐くて振り向けないどうしよう」 「知らないわよっ自業自得って言葉知ってる!? わたしも振り向けないわっ!! とんだとばっちりよぉ!!」 だって(不幸にも)李兄妹の正面に位置する影月が恐怖のあまり石化しているのだ。振り向けない。 「あぁもう! アンタたち此処をどこだと思ってんだい!? 花街の老舗妓楼、姮娥楼だよ!? ウチの娘を可愛がるならともかく、自前の女とイチャつくたぁいい度胸だ藍様のオトモダチ!」 一緒くたに胡蝶に睨まれた絳攸と真朱はぱちぱちと瞬きを繰り返す。え、何まさかもしかして自分たちのこと? 「―――自分ン家でおやり」 「「何をっ!!??」」 あねさんの厳かな命令に李兄妹は心の底から絶叫した。 「胡蝶なにその愉快すぎて不愉快な誤解。勘弁してくれ」 「ゴカイも六階もないね。なんなら部屋を貸すよ。隣の部屋にしけこみな、空いてるから」 真朱は恥も外聞もなく胡蝶に土下座した。 「ゴメンナサイ」 「…………わかりゃあいいんだよ。まったく、仲がいいのは結構だけどね、時間がないっていうのに兄様と遊んでるんじゃないよ、真朱!」 「本当だよ。絳攸、君何しに此処に来たんだい?」 事態を収めた胡蝶に諸手を上げた楸瑛の溜息に、絳攸はそっぽを向く。迷子になっているのに、目印がどーのこーのとそれを決して認めないときと全く同じ顔をしていたのを楸瑛は見た。 つまり―――これは、根深い。知っていたが、迷子同様、絶対に認めないのだろうと思うとあぁ頭痛が。なんて面倒くさい兄妹だ。 「―――さぁて、状況を整理しようかね」 胡蝶姐さん、最強。 秀麗がキラキラした眼で美女を見つめた。 「つまり大事な木簡をさがしている、と」 楸瑛がゆったりと顎に手をあてる。 「青巾党の奴らに取られたってのは確かなのかい?」 「いえあの肝心なところの記憶はないんですがっ」 胡蝶の確認に断言できない影月は縮こまった。青巾党のチンピラに絡まれたのは確かだが、飲み比べの段になって以後の記憶はこの姮娥楼の一室で目覚めるまで綺麗サッパリごっそり白紙だ。 記憶のない間の"自分"からかの木簡を奪うとはなんたる超人ホントに人間? 都会コワイと慄きつつ、しかし影月は他に心当たりもなく、現実に木簡は手元にない。 「………姐さん、確定でいいんじゃない?」 近くに配置するとまたぞろ妙な磁場を発生しかねない李兄妹は全員一致の采配で対角線上に離されて座っている。その扱いにどーゆー意味だと問い質したいのを薮蛇を恐れて喉の奥に仕舞いつつ、 真朱は胡蝶を伺う。 肝心なところが心もとないが、被害者の証言ととっても問題ないように聞こえた。 「ちょっと待て。真朱、何を知ってるのだ?」 「あァん!? 俺昨日の夜ちゃんと忠告したよなっ!? 青巾党はよそ者の集まりだからヤバイかもしんないって!」 劉輝はハテ、と首を傾げやがった。 「昨夜は真朱が余……私を寝台でヒンヒン泣かせてくれたから記憶が曖昧だ」 何人かがズッコケた。 「人聞きの悪いこと言ってんじゃねぇ!? 死ぬか!?」 「何がだ? 昨夜のさようなら青猫は大号泣だ……あ、思い出しただけで涙が」 ―――なにをやっても駄目な少年の下に案机の引き出しより未来からやってきた謎の青猫(一見タヌキ)のお話は、最近の劉輝の超お気に入りだった。謎の青猫(有袋類)は不思議な道具を用いて、駄目な少年を時に助け、時に一緒に冒険し、時に失敗しながら彼らは種族を超えた大親友となっていく。その謎の青猫(ネズミ駄目)が未来へ帰るとき、少年は独力でいじめっ子に立ち向かう。ボロボロになっても負けず、無様に地を這いながらも戦い、ただ謎の青猫(可愛い妹がいる)が安心して未来へ帰れるように、たったひとりでいじめっ子に勝って謎の青猫(中古)を見送るのだ。もう、号泣。 「な……なんの話よ、それ」 「うむ。あんなに泣いたのは橙州の犬以来だった」 「あぁ……あれは泣くわね、泣くわ。わたしも盛大に泣いたもの」 秀麗は心の底から納得した。 助けてドラえ○ーん!!! 珍しく、世にも珍しく真朱が真っ白になった瞬間だった。 「………なんかよくわからないけど、そこの若様はせっかくの忠告を聞き流していたみたいだね……」 "若様"の正体に感づいている胡蝶の重い溜息に、双花菖蒲は揃って頭を抱えた。 「し、信じらんないっ信じらんねーよー!!」 涙目の真朱が喚く。そして心に決める―――もう二度と(真っ当な意味の)夜伽なんてするもんか。するもんかったらするもんかと。もう一人で寝ろチクショウこの馬鹿。 この瞬間、謎の青猫の未来からの帰還は真の最終回とともに幻と化した。 「帰る、俺は帰るーーーーーっっ!!」 もうヤダ。こんな馬鹿な話があるか。巻き込まれてはたまらない。もう知るか。 しかし、真朱の決断は遅かった。 カタリと扉が鳴り、武装派衆が顔つきを変える。 「藍様、大丈夫だウチのものだよ―――用はなんだい」 「青巾党の奴が一人、裏から入ってきやした」 ぎにゃー。 (見所は個人的には静蘭だよややパニクッた静蘭。夜伽ネタでは主人公はよく意図を外しまくる模様) |