秀麗はこの雪の降る真冬に川に落っこちて風邪を引いたらしい。
 風邪で済んで本当に良かった。真朱なら体質もあり、確実に昇天していたところだあぁ恐い。
 その原因を作ったとも言える少年の父、柳おじさんの訪問で大人数での夕食は流れた。あの面子で食卓を囲むんですかと引き攣ったのは恐らく真朱だけではないはずだが、それでも冷めた食卓を見ると少し物悲しい。
 柳晋少年捜索隊が出て行った邵可邸はがらんと静かなものだ。
 つい先ほどまで真朱と静蘭の情け容赦無用切捨て御免の罵詈雑言と言う名の指示が飛び交った厨房も、火が消えてしんとしている。

「どーせ役に立ちやしねーけどさー……」

 当然のように捜索隊から外された真朱は体育座りで鬱々としている。王様の得意ポーズが伝染った。
 食卓では邵可と黎深が、真朱と静蘭が指揮して双花菖蒲が作った食卓を囲んでいるはずだ。当然真朱も邵可に誘われたし、黎深は何も言わなかったが拒絶されたわけでもない食卓につかなかったのは、腹が減ってなかったからだ。冬の真朱の食事は薬湯と連動している。薬湯を飲むために食べるので、飲まないですむ間は食事もしない。
 なんで厨房で座っているかと言えば、先ほどまで火を使っていた厨房が一番暖かいからだ。冬と言わず、年中無休で李真朱は即物的である。
 一番暖かいであろう秀麗の寝室は年頃の乙女のサンクチュアリである。恐れ多くて近づけない真朱はどこか壮絶に間違いつつ礼儀正しい。

「馬になんて乗れないしさー雪降ってるしさー体力ないしさー凍傷になり易いしさー」

 でも体脂肪率は一番だと思うんだよね。胸とか尻とか。
 雪の中、外に出たいわけではなかった。否、絶対出たくなかった。
 それでも、青年たちの輪から当然に外されたことが癇に障り、それが馬鹿な訴えとなり口をついて兄に一刀両断却下された。確かに遭難を前提にした阿呆な意見だった。
 だったが。





 たまに、夢を見る。
 彩雲国に落ちたとき、中身だけではなく、そう身体ごと落ちてきていたら、どんな今が広がっていたのかという益体もないひとつの有り得たかもしれない可能性の夢。
 その風景は白黒で、夢にしても愛想がない。
 絳攸と黎深とは出会っていたと思う。だけどそれが兄弟や親子といった関係になったとは考えられない。考えるのが怖いというか……なんてったって元の身体は黎深とは同年代だ。
 この世界で生きていくことに腹を括って、真面目に勉強して国試を受けていたかもしれない。配属先が吏部だったら人格変わっていた可能性大。
 自分を兄のように慕う絳攸がいて、楸瑛と一緒に妓楼へ連れてってはからかって遊んだかもしれない。いやこれは確実に遊ぶ確信がある。
 気立てのいい嫁さんを貰ってた頃合だろう。子供も二、三人くらいいて、自分が育ったものとよく似た家庭を作って―――目を覚ますと、とりあえず破壊衝動に身を任せるほど頭にくる、有り得なかった益体もない夢を見る。
 記憶しか持ってくることは出来なかった。大切にしていたものは、身体と一緒に全部故郷に置きっぱなしで、亡き祖父と母の形見くらい手元に持っていたかったと感傷が囁く。
 父と弟妹は元気だろうか。
 もう記憶にしかない。思い出も大切なものも故郷の風景もであった全てが記憶の中で地層のように沈んでいく。積み重なって、いつの間にか、違う模様を描くようになった断面。
 鏡を覗けば映るのは少女の顔。もう見慣れた。
 見慣れて、もう―――その記憶さえ。





「もう、自分の顔も………思い出せない」





 上書きされていく。
 遠いところに来たのだと思うのはこんな時だ。鬱々とまぶたを閉じる。
 ――何で、此処にいるんだっけ。
 なんでここにいるんだろう。ときどき忘れる。忘れたまま思い出せなくなれば危険信号。静蘭の登場だ。ぶん殴られる。
 思い出さなきゃ、迷惑をかける。
 なんでここにいるんだっけ、あぁなんで、そうだ、思い出した思い出せた。
「秀麗様の、お見舞い」
 言葉にするとすとんと落ち着いた。
 乖離しかけた理性が戻ってくる。
「お見舞い、おみまいにきたんだ」
 無意識の指が動く。
 折り目をつけた料紙を破く。正方形に整えて、三角に折る。やまおり、たにおり、ひっくり返してやまおり、たにおり。
「さむい……ねむい」
 外は雪。
 アスファルトをふんわりと覆う、たまに降る白い雪がは好きだった。李真朱は雪が大嫌いだった。
 冬は嫌いじゃなかったはずだ。
 高校生になって発症した花粉症のおかげで、春が一番苦手だったはずなのに。
 窓の外は雪。降り積もる音が聞こえてきそうなほどに閑かだ。

「……白雪の粉粉たるは何の似る所ぞ」

 柳の綿毛と答えるべきか。模範解答を通り過ぎて、思い浮かべるのは桜の花だ。
 空に知られぬ雪が降ると桜を詠ったのは誰だったか、これももう思い出せない―――薄紅の花弁は嫌い。はらはら散る様はどこか雪に似ている。
 桜の花は大嫌い。ソメイヨシノと似てても違う、彩雲国の桜。似ているから、余計に憎い。
 雪も桜も嫌いだ。
 嫌いなものが多くなった。





 もう別人じゃないかと口の端で哂った。





「―――これは、見事だね」
 食器を下げに厨房に訪れた邵可は、うずくまって眠る少女の周りに散らばる小さな白い鳥をつまんで感嘆した。
 何処にでもある料紙で作られた見事な紙細工。
「何の鳥なのかな」
「鶴です兄上。見えませんが、本人曰く」
 お見舞いお見舞いと呟きながら、冷えた指で作られた折鶴の群れが無造作に散らばっている。
「ははぁ。いや、鶴に見えるよ。見事なものだ。なんて器用なんだろうね。ところで黎深、なんでまだ中身の残っているお皿まで持ってくるんだい」
「食器を下げるのです兄上」
「子供たちはまだ食べてないだろうに。何やってるんだい君」
 黎深は速攻で食卓に皿を戻した。 
 何事もなかった顔で戻ってくる弟に苦笑する邵可は、あえて彼の失敗をあげつらいはしなかった。
「これは、花かな? 綺麗だねぇ」
 やはり紙で作られた白い花を花冠のように連ねたものまである。ところどころに実と葉の付いたままの南天の枝を刺して、白い花と赤い実、緑葉が映える。見るものが見れば―――クリスマスリースみたい、そう言っただろう。
「ふふふよくやった真朱。これは私が持ってきたことにしてやろう」
 蘭の花を持ってきた鳳珠に遅れを取った黎深が白い花冠を手にとって満足げに笑うと、義娘の手柄を横取りしようとする弟を邵可がぺちんと叩いた。
「馬鹿言ってるんじゃないよ黎深」
「はい兄上!」
 本気だったのだが返事は良い子。
「よく寝てる。疲れてたのかな? わざわざ秀麗のお見舞いに来てくれて、真朱殿は本当にいい子だね」
 黎深、海より深く沈黙。
 ぞっこん敬愛する兄の言葉だが、いい子と言う単語と李真朱がどうにも結びつかない。真朱が長じて開き直れば、男を軒並み手玉に取る彩雲国一の悪女になると黎深は踏んでいる。今ですら絳攸を筆頭に複数の男を手玉にとって一緒に遊んでいる。それは身体の性別を故意に無視しているからこその温度差の産物だが、意識して出来るようになれば愉快に輪をかけて性質が悪くなるはずだ。
 色仕掛けを覚えればよほどの男でなければ手に負えなくなるだろう―――それはそれで楽しみな黎深である。娘を思う父心としてはだいぶ歪みひねくれており最早全くの別物だが。
 深く眠る少女たちはいまだ蕾。咲き誇ればまるで正反対の艶姿を披露するだろう。秀麗が凛とした大輪の花を咲かすなら、真朱は可憐なフリして蝿喰らうかや食虫植物――葉は多肉系。




 開き直ることが出来れば―――の話だが。




「客室に布団を敷こうか」
「あぁっ!? 駄目です兄上ーッ!!」
 黎深の絶叫は遅かった。
 客室に運ぼうと軽々と真朱を抱き上げた邵可にスリスリ虫発動。
「……あったかぁい」
 スリスリ虫はすりすりしている。
「おや。懐かしいねぇ。秀麗の小さい頃を思い出すよ」
 意外にまんざらじゃない邵可は慣れたもので、傍らで百面相している弟を見やる。
「こ、この馬鹿娘ッ、兄上に抱き上げられてすりすりすりすりするとは羨ましい何様ッ」
 ムキィと扇をへし折りかねない黎深の姿は、邵可にしても面白い。噴出しそうになった。
 嫉妬の矛先が娘を抱き上げる自分ではなく、自分に抱き上げられた娘なのはどうかと思うが。羨ましい発言は故意に聞き流す。いい年こいた男兄弟がすりすり? はっはっは
「じゃあ君が抱きなさい。ほら」
「……っ!?」
 ほいっと渡され、黎深は凝固した。
 すぴーすぴー眠っている真朱は覚醒時より相手に頓着しない――覚醒時だって頓着しない。邵可より下手くそな抱き方にもぞもぞと収まりのよい場所を探して落ち着くと、黎深の首に手を回してスリスリ開始。
 黎深は絳攸以上にスリスリ虫が苦手だ。
「あ、兄上ーっ、動けませんっ」
「はははこうして見るとちゃんと仲のいい父娘に見えるねぇ。君が父親だなんて、私は感無量だよ」
 邵可は邵可でなんか感動していて助けてくれない。
「重たくて、あったかいだろう? 黎深」
「………」
「娘の重さとぬくもりだよ。大切にしなさい」
 病的に低体温で、虚弱で細い少女の身体は決して重いとも暖かいともいえない。むしろ軽くて冷たい。
 それでもなんとなく、邵可の言う重さと温もりが、ただの事実を指す言葉ではないと黎深は思う。
「じゃあ私は客室の布団を準備してくるから、黎深、ちゃんと運んであげるんだよ」
「え」
 さっさと客室へ向かった邵可の背を視線で追い、取り残された黎深は途方に暮れる。
「ああぁ兄上ぇぇ……動けません〜……」
 スリスリ虫はすりすりしている。
 大好きな兄の言いつけを守ろうと黎深は健気に(…笑)頑張るが、一歩動くごとに黎深の下手な抱き方で居心地の悪い思いをするのか真朱がむずがりひしっとしがみつく。動けない。
「か、"影"―――駄目だ、兄上に怒られる……」
 呼ばれて飛び出なかった無感動な"影"もかくっとコケた。
 ―――客室が遠い。
 柳晋少年を保護して黄尚書宅に届けて帰還した捜索隊は、厨房で固まりつつ真朱にすりすりされている紅黎深という世にも珍しい光景を目撃し、生ぬるーい視線を送ることになる。








(割と謎な主人公の背景がちょっとだけチラリ。別に全然たいした物じゃないですが)





モドル ▽   △ ツギ




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