楸瑛が爆笑した。
 小さな執務室に破裂した、彼には珍しい馬鹿笑いに王はむくれた。
「話さなければよかった」
 むすりと呟く。昨夜の悪夢は今も額のこぶとしてじくじくと痛む。ちらりと絳攸を見やれば、馬鹿馬鹿しくて相手にしてられんとばかりにチャッチャカ仕事をする手を止めない。シカトだ。笑われるのも傷つくが、これはこれで酷いと劉輝は思う。
「余の味方は真朱だけか」
 あまりにも徹底した無視っぷりにムムッと来たので、絶対に絳攸が食いつく妹の名を引き合いに出す。
 案の定絳攸がギロリと睨んできた。怖いけど目論見は成功だ。
「ふ……ふふん。真朱は笑わず余の話を聞いてくれて、おでこを冷やす氷を取ってくれたのだ」
「………相槌は"へーほーへー"だったろう」
「何故それを!?」
 何故もくそもない。「へーほーへー」が真摯な相槌に聞こえたのなら幸せな脳みそだ。どう贔屓目に判断しても軽く聞き流されていることに何故気づかない。
 爆笑している楸瑛の方がキチンと話を聞いている。真朱の反応は兄妹らしく絳攸の無視に近い。というか無視より酷い。おでこを冷やす氷にしても、主上付きの女官であり、怪我をしている人間を見たら手当てをするくらいの良心を真朱はもっている。別に劉輝を励ましての行動でなく本当にただの手当てだ。
 その真朱は今朝、劉輝のおでこを冷やすのを最後の仕事に七日に一度の休養日に入って自宅に帰っている。
 そして絳攸と楸瑛は今晩、四日に一度の御宅訪問で邵可邸に赴く。
 秀麗が後宮を辞してから二月、初めて真朱と御宅訪問が重なるのだ。
 今夜、王は完全無欠に除け者である。

「暑いわ〜……」
「暑いですねー」
 同じ言葉だったがその温度差は顕著だった。
 汗を拭いうんざりと零す秀麗と対照的に、真朱はほとんど社交辞令だ。「暑いのは得意なんです」と言っていたが、ここまでとは。ちょっと同じ人間とは思えない。
「そのかわり、寒いのは駄目なんですよ」
「わたしは寒いほうがまだ我慢が利く方かしら。反対ね」
 真冬は上着を着込み火鉢の炭を節約する秀麗と真朱は好対照だ。真朱は冬、引きこもる。一酸化中毒も辞さない勢いで火鉢から離れない。
 いつもは夕刻に邵可邸を訪れる真朱が、今日は昼に秀麗が師を務める道寺に顔を出した。今日は実家の奥方が所用で不在で、話し相手がいなかったので城下をフラフラするつもりだったのが、秀麗の奏でる二胡の音に魅かれ見知らぬ道寺にたどり着いた。そしたらそこに秀麗がいたので、真朱は驚いた。秀麗も驚いた。
 話の流れで真朱は塾を手伝い、今こうして肩を並べて邵可邸を目指しているのだ。
「それにしても真朱はすごいわね。計算が早いったらないわ。しかも算盤も使わないで」
「そうですね、計算は得意です」
 は文系の学生だったが、暗算が得意だった。ガキの頃は公○式に通っていたし百マス計算をやりまくり、脳内で九九とアラビア数字を駆使する真朱の計算は速い。彩雲国の算盤は真朱の知るそれとは少し形が違うので、慣れない算盤を使うより暗算をしたほうがはるかに速い。それが秀麗には驚きだったのだろう。電卓不要の計算能力は真朱の数少ない特技の一つだ。

 同じ年頃の少女同士(?)、他愛ない会話を交わしながら家路を急ぐ秀麗と真朱は、門前で行き倒れているクマ男を発見し、二人がかりで何とか家に運び込んだ。



 メシをかき込むクマ男は燕青と名乗った。
 最初こそあまりに典型的な不審人物だったため遠巻きに給仕をしていた秀麗と真朱だったが、クマ男は口を開けば気のいいニーチャンだった。男の姿であればやはり気のいいニーチャン(否、オッサン)だったはずの真朱はアッサリと燕青と傍目男女の垣根を越えた友情を築き上げた。
 そしてあまりに警戒心が薄いと、静蘭を筆頭に秀麗とともに兄ちゃんズに怒られた。
「でも知人の家の前で息の根止められたら迷惑じゃないですか」
「だからって見知らぬ男を拾うな馬鹿者!」
 絳攸のガミガミ雷を前に抗弁できるのはさすが妹だ。劉輝であれば亀のように首を引っ込めて嵐が通り過ぎるのを待つ。
「でも静蘭殿の知り合いで」
「それは結果論だ!」
 あーもーうーるーさーいーと真朱はとうとう耳を塞ぐ。
「仲の良い兄妹だなー。兄ちゃんの言うことは正しいぞ。それで助かって飯にありつけた俺が言うこっちゃないけど、もー少し警戒心もってもいいと思うぞー」
 燕青にまでたしなめられて真朱は天を仰ぐ。
「本当にお前の言うことじゃないな」
「はっはっはーホントありがとな姫さんたち!」
 静蘭の切っ先鋭い氷点下なツッコミを笑い飛ばす、行き倒れていたクマ男は大物だった。
 珍客を交えたにぎやかな食卓には多彩な菜が並ぶ。秀麗の方が手際がいいので、今日の真朱は彼女の手伝いに終始した。
 美味しい菜を食べながら真朱は臍を噛まずにいられない。男の身体であればもっと沢山食べられるものを……拒食経験はあれど、実は結構食い意地がはっている。
 茶州から盗賊山賊が貴陽に流入したという話題から、静蘭の臨時仕事に話は移り、静蘭が笑顔で楸瑛をカモにする。その手際に静蘭の腹黒さを垣間見た真朱は彼への認識を少し修正した。もともと出来すぎの男だと思っていたのだ。真に女であればぽわわーと惚れるかもしれないが、出来る男なんてどことなーく癇に障るだけな真朱だ。そういう意味ではこの面子、キラキラしくて男のプライド掻き毟り、燕青のヒゲ面に癒される始末。どーせ俺ぁ平凡だよチクショ。
 静蘭に裏があって、逆に親しみを覚えたくらいだ。
 しかしすぐに視線は卓子に逆戻りする。
 大皿のキノコの炒め物を取り分けようとした箸が空を切る。最後の一口を皿から浚って口に放り込んだ犯人はクマ。
「………やるなクマ男」
 その眼光は関が原で怨敵と合間見えた石田光成の如き真朱。
「ふっ。姫さんもな」
 受けたつ燕青はさしずめ徳川家康か。天下分け目の決戦で、より高みに在る者の泰然とした貫禄すら漂う。キノコはとっくに腹の中。
「しかしこの鶏は譲らない――っ」
「なんのー!!」

 真朱は絳攸に、燕青は静蘭にどつかれた。

「意地汚いことすなこんの馬鹿っ! 恥かかすなっ!」
「少しは遠慮しろこの大喰らいっ!!」
 絳攸の一撃に真朱は後頭部を押さえたが、その数十倍の威力はあっただろう静蘭の裏拳に耐え切った燕青はよどみなく鶏肉を獲得、嚥下した。
「ああ〜っ」
 真朱がえもいわれぬ切ない悲鳴を上げる。
「ふっふっふ食卓は戦場さ。一時の油断が命運を分ける――っ」
「お嬢様! この馬鹿外に捨ててきますから! えぇ捨ててきます! いえ裏の菜園に埋めますか? 生ゴミですから肥料代わりになりますよね? きっと冬にはこの馬鹿の神経のような図太い大根が育ちますよ埋めましょう収穫が楽しみですね」
「せっ静蘭? とりあえず落ち着いて! まだ沢山あるから大丈夫よ!」
「みんな元気だね。沢山食べて大きくなるんだよ」
 これ以上大きくなってどーすんだという燕青にまでほえほえ笑っているのは邵可。この人もいい加減大物だ。
 箸捌きを邪魔された真朱が兄を恨みがましく睨み、絳攸は溜息をつきながら自分の皿から真朱に鶏を分け与えた。真っ当におにーちゃんといもうとだった。精神年齢年上の矜持は何処行った。
 楸瑛は一応女人である真朱に絳攸が手を上げたのに驚いた。兄弟は多くとも、骨肉のおかず争奪戦など一度も経験がない生粋のお坊ちゃまだけにその驚きも一入。
 しかしその後の兄妹のやり取りで、秀麗と劉輝の会話が夫婦漫才めくのに対し、真朱と絳攸はドツキ漫才風味になるだけのことだと理解した。要は仲がいいだけだ。多分犬も食わない。

「……なー絳攸。何企んでんの?」
「は?」
 鶏肉のお礼に自分の皿からきくらげの和え物を絳攸の皿に移しながら、真朱が小声で問う。これは鶏肉のお礼であり、まかり間違ってもきくらげの食感が苦手だから絳攸に押し付けているわけではない。ないったらない。
「さっきから、秀麗さまに何か切り出そうとしてそわそわしてんじゃん」
「……あぁ。そうか、そうだな。ついでにお前も行け」
「は?」
 今度は真朱が間抜な声を上げる。
「――秀麗」
「はい? なんでしょう絳攸様?」


「一月ほど宮廷で働く気はないか? 後宮じゃない、外朝でだ―――コイツも付けるから」


 コイツこと真朱は喉を詰まらせた。



 紅秀と李真は互いの男装姿を生温く眺めた。
「服と髪型を変えただけでコレ。どうせ胸ないわよ」
 やるせなくぼやく秀麗に、真朱は真朱で汗を流す。
 暑いのだ。さすがに。
「いやでもこの季節にさらしを巻くのはある意味自殺行為ですよ。暑い、さすがに暑い……蒸れる」
 心のありようはともかく、秀麗よりいささか発育の良い真朱のほうはただ服を変えるだけとはいかず、胸にさらしを巻いている。繰り返すが、暑い。
 そして真朱は普段人前では必ず装着している付け毛をとっていた。自毛の長さは肩にやっと届くかという程度のミディアムショート。長い髪は美の基本である彩雲国では、男でもここまで髪が短いのは珍しい。男女を問わずまずありえないし、それが女人であれば、みっともないのを通り越して痛々しく映るはずだ。
 長髪手入れメンドクサイの一言で断髪するのは、異邦人の感性による蛮行だ。
 秀麗の男装が素材を生かした(失礼)一品であれば、真朱の男装は常識を逆手に取ったものだ。互いにやすやすとは気づかれまい。
「兄上。戸部は左だ」
 突き当たりで反対方向へ行こうとする彩雲国一案内人に向かない兄に小声で申告。すでに抜かりなく男言葉――というか素。
 事前に戸部までの道のりを下調べしておいた真朱は絳攸を信用していなかった。


 秀麗とともに戸部に放り込まれた真朱は、忙しく動く秀麗と対照的に卓子を一つ占領してほとんど動かない。目の前には山のような書翰が積んである。
『コレは俺の弟です。秀ほどの機転はありませんが言われたことくらいは何とかできます。ついでに計算だけは速いので、自動算盤とでも思ってそこら辺に置いておいてください』
 絳攸の言の通り、真朱は自動算盤としてひたすら収支の合わない帳簿の検算を任されている。ドチクショウ。
 確かに秀麗のような機転もないし、気配りも及ばない。政治の造詣に深いわけでもないのでいきなり国政の第一線で施政官と肩を並べてもぼーっとハナクソほじるくらいしか出来ることはない。認めよう。しかし人権が無視されている気がする。自動算盤て何。
 ときどき桁や数字を忘れないように料紙にするメモはアラビア数字だ。そのまま筆算したりもする。傍目何かの暗号となりつつある。
 しかし一つ終わるごとに書翰が三つ増えているのは何事だろう。三百六十五歩のマーチ状態だ。いじめか。
「………日本教育の真髄を見せたるっ! 単純作業が得意な民族性を舐めんなよ。俺は円周率が三・一四だった世代だぞ」

 義務教育中はほとんど週休一日だったのだ。土曜日が休日になった日には同級生とフザケンナと合唱した。
 ゆとり教育実施直前世代の底力。いまこそご覧に入れましょう。







(奴は円周率が三になったときは絶叫した世代。あの一四にどれだけ苦しめられたことかと恨みに思わぬ人はない、筈)











モドル ▽   △ ツギ


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