いい加減集中力が限界だった。
 いくら暗算が得意とはいえ集中力が低下すれば間違いを犯す。山と積まれた書翰が減ったようには一向に見えないが、休憩をいれなければ恐ろしいことになる。ただの検算要員とはいえ扱う数字は国のものだ。あな恐ろしや。凡ミスは許されない。後が怖いったらないですよ。
「………ふ〜」
 ゴキっと首を鳴らす。良い音がした。
 室を見渡すと真朱のほかには書翰の向こうに仮面の尚書ただ一人。皆出払っている。
 凝り固まった身体を動かすついでに、とりあえず出来た分だけ抱えて提出することにした。
「これ、終わりました」
 仮面の尚書は顔も上げず一つ頷くのみ。真朱は気にせず、しかし無言のまま差し出された追加分に涙が出そうになった。男装中の本日はすっぴんだ。泣いてもいいですか。
「………お前、こんなところで何をしている」
 そのまま短い休憩を終えて仕事に戻ろうとした真朱にくぐもった声がかかる。驚いて振り返った。

 珍妙な仮面、はともかく、他の追従を許さない麗しい黒髪。背格好、雰囲気。黄家の人。アレ、どっかで――。

「………………………まさか、鳳珠さまであらせられたりいたしますかまさか、え、嘘」
「他の誰に見えるんだ」
「いえ見えません仮面で。仮面しか見えませんから!」
 思わずつっこんだ。
 このお方も仮面の下で無理を言う。さすが悪夢の国試組、元凶――っ!
 やはり悪夢の国試組出身である養い親紅黎深の、多分、友人……だと真朱は思っているのだが、そう口にすれば双方冷笑で否定するような微笑ましい間柄だ。黄鳳珠が紅家別邸を訪ねてきたことは一度としてないが、何度か黎深に連れられて顔を合わせたことがある。そのときはこんな珍妙な仮面をかぶっていなかったような気がする――否、かぶってなかった。かぶってたらかぶってたでの素顔と別種のこのインパクト。忘れられるほど真朱は耄碌していない――年齢はだいぶサバ読んでいるが。
 初めて顔をあわせたときは魂が飛んだあの美貌が仮面に。ブラウン管越しにもまずお目にかかれなかった美貌にアホの子のように大口を開けた覚えがあるあの美貌が仮面に。
 あれ、目から汗が。うん暑いもんね。
 ――たっぷり三十秒近く自失して、黎深に扇でつつかれ我に返った真朱の第一声が「このびぼーが……おとこだなんて、おとこだなんてぇぇっ」。舌の回らぬ幼児でありながらの大暴言だった我ながら。黎深が爆笑して、若かりし日の黄鳳珠は何故か毒舌幼児にお菓子をくれた。栗饅頭だった。美味しくいただいた。
 他愛なくお菓子に夢中になった幼真朱の頭上で、「………そうか、幼い頃から慣らしておけば……」「なるほどその手が。というかお前には最早その手しか残ってないんじゃないか?」とかいう光源氏計画めいた雑談(のち毒舌戦)が交わされていたなんてこと知る良しもない。知らないって幸せ。
「え、でも戸部尚書は黄"奇人"様だと聞き及んでいたんですが」
「どいつもこいつも人のことを奇人だ変人だと口を揃えるのでな。いっそ名前にしてやろうと」
「なんすかその前衛芸術みたいな開き直り方は。でもそーですね、変人よりは名前っぽいですよね奇人のほうがー……」
 他になんとも言えず、追加分の書翰を抱えながら途方に暮れる。仮面の尚書は相変わらず仕事の手を止めてない。

 あれ。てゆーか顔見知りじゃないですか。

 (身体は)女だってチョンバレ―――っ!?
「いやぁ俺は李真でも李真朱でもなくしがない自動算盤でモノですモノ。無機物に性別はありません。だから何故俺がここにいるかと申しますと自動算盤だからなのデスヨ?」
 真朱は潔く人権を捨てた。
 もともと大して尊重されてなかった気がするし、未練はない。
「そんなことは訊いてない。お前にはお前の本来の仕事があるだろうと言っているんだ」
「あー……ソッチですか」
 後宮の女官―――ではない。
 真朱には後宮に入る前から携わっている仕事がある。
「問題ありません」
 一言で、答えに変えた。実際優秀な部下が舵を取っているはずだ。
「ですが、近々一発他州にも手を伸ばそうかと企てております。鳳珠さま一口乗りませんか? 損はさせないと思うのですが」
「………株、というやつか」
「さようです」

 真朱の本来の顔は実業家である。

 現状、結婚する気が皆無である真朱は、おそらく孤独であろう老後に備えて、養い親に迷惑かけない――自分のケツくらい自分でふける――収入を得たいと一念発起したときに、まず黎深に金を借りた。開業資金である。
 養い親の紅黎深は国で一ニを争う超金持ちだ。真朱がこれっくらいお金貸してくださーいと申告した額は子供のお小遣い程度の認識しかなかったらしい。ぽんっとだされたあまりのあっけなさに庶民根性根深い真朱の経済感覚が反発を起こした。端から返却されようがあぶくと消えようが興味がない態度の黎深に、"利益が出たら配当を分配します"と意地を張って宣誓した書面を無理やり持たせたのだ――"全額耳を揃えて返却します"という借文書にしなかったのはヘタレのチキンだから。
 中途半端に意地を張って、そして遅まきながら気づいたのだ「これって株券じゃん」と。
 株券――株主権をあらわす有価証券。コレはいけるかもしれないと、同様の手段で出資者を募り株券を発行。当初の予定よりも潤沢な開業資金を得て、なんだか彩雲国初っぽい株式会社を設立したのだなし崩しに。経営参加権にあまり興味のなさそうな金の有り余っている金持ちに話を持ちかけ、出資金額単位を小口に分割、責任は有限、出資にともなう権利は株券を介して自由に売買できるとのうたい文句で体裁を整え、経営は今のところ順調、開業二年目で全商連に加盟した有望株だ。やれば出来るじゃん俺と自画自賛した李真朱が社長、いわゆる代表取締役だ。
 彩雲国は中央集権的官僚体制国家だ。しかし、七州は七家の権勢の強い封建的側面も残す。資本主義的自由市場とまではいかないが、競争はある。真朱の成功には紅家の権勢と人脈が不可欠だったのも事実だが、目新しい仕組みに目端の利くものの注目を集めつつある。

 目端の利くもの――黄鳳珠はしばし思案するように筆を止めた。
 黄尚書の仕事の手を止めさせた――真朱は知らんが快挙である。

「開業資金の全額を黎深に頼むことも可能だったはずだ。何故出資者を小口に分けた?」
「成功するとは限りませんでしたから、ポシャった時の危険回避です。黎深様には痛くも痒くもない額でしょうが、子供の小遣いには過ぎた額でした。相応の責任を自身に課して、周囲を巻き込んだとも言えます」
「経営参加権が付随すると言っていたな」
「一株につきまして一個の議決権が与えられます。金出すんですからそれくらいの権力はないと。決算期に株主総会という議事を開催します。メンドクサイ方は代理人でどーぞ」
「経営に門外漢が口を出すことをよしとするのか?」
「だからあんまりにも経済に暗い方には話を持っていっていません。最終的には所有と経営を分離したいと思っていますね。資金額が巨大化して、株主数が増大すれば自然とそうなると思います。俺が老後、経営に口を出さなくとも所有する株に安定した配当が支払われるようになればウハウハじゃないですか。少なくとも野垂れ死ぬことはないようにしたいですからね」
「………詳しい方針や経営状況を書翰にして後日もってこい。話はそれからだ」
「やったー! 了解しました」 
 思わぬところで大口の出資者を確保できそうだった。真朱は書翰を抱えたまま小躍りする。
「所有の権利を証文にし、自由に売買出来ると言うことは、いずれ買値と売値の差額が出来るな」
 いわゆる"株の大儲け"のイメージ。なつかしのボード人生ゲームにおけるアレ、キャピタルゲインこと値上がり益。
「――さすが慧眼です。もっともそれには株券専門の市場が成立し、それに伴う多少の法令が国に整えられてから、でしょうね。俺たちが生きてる間は無理でしょーから個別交渉になりますが、うまく行けば大儲けできますよきっと」
 応じながら舌を巻く。さすが戸部尚書、そこまで予見できるとは。面白そうに笑った黎深といい、コレだから頭の良過ぎる奴はーと思わないでもない。
 ………悔しくなんかないもんね。ないったらないもんね。

 ブツブツ平凡な自分を慰めながら、話は何故か現在の彩雲国の経済に移行していく。
 山のような書翰を抱えてあっちいったりこっちいったり使い走られていた秀麗が室に帰還したとき、仮面の尚書と腰の引けた真朱が議論を交わしているのに仰天する。

「机上の空論だ。貨幣自体に価値があるから価値尺度が安定するのだろう」
「そ、そりゃそーですけど、それ自体が稀少で、稀少が故に価値のある金銀ではいずれ物量としての限界が訪れますって。それじゃあ流通が滞るじゃないですか。貨幣には価値尺度と流通手段、支払手段、貯蔵手段としての機能が求められます。数の少ない金銀では流通手段としての機能に限界がありますよーだ。いずれは社会の同意に基づいた商品価値のないものが通用するようになりますって。紙とか」
「紙に金銀同様の価値を持たせるには、それ相応の技術が必要だろうが」
「そーですね。だから現状無理ですね。だから過程としては、間に兌換紙幣――金と交換できる紙幣を挟んで、その後に国が完全な自由裁量で国内流通通貨量を調整できる制度に移行するんですよ。技術なんてその間に追いつきます。今は机上の空論でも、必要に応じた転換としてこの過程を踏みますよ……た、多分」
 黄尚書の仮面の迫力に押されながらも、真朱は何かを思い出しながら――政治経済と歴史の教科書だ――負けじと応じる。虎の衣を狩る狐である。
 そのうちやんわり景侍郎が論議に混じり、真朱はたじたじになる。泣ける。何のいじめだ。
 そして戸部の少数精鋭施政官たちも混じってくる。ついに孤立無援の四面楚歌。何のいじめだ。
 マジ泣き寸前の真朱を救ったのは意外なお人。燕青である。



「すっげー興味深い議論だけど、仕事止まってんぞー」



 阿鼻叫喚。



 卓子に戻り涙を拭った(ついに泣いた)真朱は「俺は貝になるー」と呟いて自動算盤と化した。







(実はシャチョーさんだった主人公。何の会社かはまだ内緒。彼女?の武器は特殊能力でも魔法でもなく、現代社会の常識と雑学オンリー。ショボい)




モドル ▽   △ ツギ

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