「………真朱は暑くないのか?」
 日中の猛暑を引きずる生温い夜風が長い髪がまとわり付く。
 寝苦しい熱帯夜にも涼しげなたたずまいの女官の姿は凛としていて湿度も温度もまるで感じていないような風情だ。
 就寝の時間まで暑さを維持する今夏には、若い王もほとほとうんざりしている。
「あー。まだまだ余裕っすね。寝苦しいどころかいつでも爆睡出来まっせ。つーわけで主上もとっとと寝てください俺が眠れない」
 李真朱はこともなげにのたまった。やる気なく団扇を扇いで劉輝に風を送りながら、とっとと寝ろ光線を放出している。
 貴陽の人々は身分を問わずバッタバタ倒れ、滝汗を流して秋を待っているというのに、真朱はバテもせずにぴんしゃんしていて背筋を伸ばしている。
 実際、真夏の東京のアスファルトに照り返された熱に、体感温度を容赦なく上昇させる蒸し蒸しの湿度を知る真朱は、彩雲国の猛暑なんぞ屁でもない。クーラーも不要だ。もともとクーラーの冷気が苦手だったは暑さに滅法強い性質だった。纏う肉体を換えてもその性質は継続しているらしい。次々とへたる人々を尻目に真朱は全く健康体だ。
 東京の夏キンチョーの夏に比べれば、貴陽の夏なんぞなんぼのもんでもない。
「うぅ……氷で出来た寝台で寝たい」
「凍傷になりますよ、それ」
 他愛ない願望に、実にそっけない返答。李真朱はぜんぜん優しくない女官だ。
 あまりにもよそ行きの馬鹿丁寧な口調に「少し砕けても良い」などと許可した途端、「んじゃお言葉に甘えて」と真朱の口調とあまつさえ態度仕草からも王を尊敬する要素が抜けた。はっきりいってそういうところは絳攸そっくりだった。形だけの尊敬や敬愛が抜け落ちた真朱の言動に、劉輝は世話焼きだった秀麗の暖かさとはまた別種の親しみを覚えはじめている。
 真朱がその心のままに男の姿であれば、その関係は"悪友"と呼ばれる類の友愛であると気づいたかもしれない。
「あーだめだめいくら暑くても一枚は絶対掛けて寝なきゃ腹を冷やします。それが嫌なら腹巻つけろ」
「は、腹巻……」
 余はこれでも王なのにと呟くと、王様は腹を下さないっつーんなら別に何も言いませんがねと来たもんだ。兄と違う意味で歯に衣着せない少女だった。
 というか、春の終わりにこの少女が秀麗と共に後宮を辞さなかったのには、誰もが度肝を抜かれた。
 紅黎深が秀麗の為に後宮へ放り込んだ義理の娘、李真朱は、秀麗無き後宮にとどまって、あれやこれやとたいした接点の無かった劉輝の世話を焼いてくれる。嬉しいことは嬉しいのだが真朱の内心が不明瞭な上に、側近である兄の絳攸に毎日毎日睨まれる劉輝は素直に喜べない。てか怖い。
「その……聞いてもよいか?」
「は?」
「真朱は何故後宮に残ったのだ?」
 王の寵愛を欲するような女人ではないことはその言動ですぐに知れる。一見丁寧に装って化粧も欠かさない女人らしい女人であるのに、何故か色気はまるで無いという変な少女だ。絳攸には言外に"手を出したら主上と言えども刺す"という眼光をくれる。黎深は何も言わないが、彼に関しては沈黙が何より恐ろしいというのが劉輝の本音。
「あー。あんま深い意味はないっす。しいて言えば機を逸したっつーか、今女官長の珠翠さまが長の宿下がりで不在じゃないっすか。しかもこの暑さに女官もパタパタ倒れて人手不足だし。後宮に入るなんて後にも先にももうないだろーから、一応出来ることはやっとこうかと。解毒剤をいただいた恩は返しておかないと目覚めが悪い」
「あぁ……」
 ほんとうに何の深い意味も無かった。ここまで裏表のない女人は劉輝の人生で初めて見た。
「ついでに言えば、一人くらいいてもいいと思うんすよね。主上がなーんの気兼ねも無く秀麗様ののろけを零せる相手」
 今は珠翠も不在であるし。
「………真朱」
 ちょっとじーんとした。素っ気無いしわかりにくいし遠まわしだが、李真朱は劉輝に当たり前のものをくれる少女だった。
「でもあれはいかんと思います。思い人に不幸の手紙送ってどうすんです?」
「え、あ、あれは恋文で」
「あれが?」
 双方マジ驚く。
 理解を深めるにはもう少し時間が必要な王と女官の色気のない夜は更ける。


 後宮の女官でありながら、李真朱は義父の権勢を借りて七日に一回は自宅に帰る。ほとんど普通の勤め人の勤務状態だ。
 朝に帰宅して奥方と談笑したり、工房という名の私室に篭り次は何を作ろうかと思案したりした後、いまだ自己紹介もできていない義父が「ずるいずるい」と喚くので、黎深が帰宅する前にあれこれと荷物を作り、真朱は夕餉の匂いが漂い始める貴陽を共も連れずほてほて歩いて邵可宅を目指す。四日に一度の絳攸と楸瑛の御宅訪問にはまだ一度も日程が重なっていないため、真朱一人の訪問となる。
 両手で持つずっしりとした風呂敷包みには、真朱印の珍しい食材が詰め込まれている。暑さに悪くなると困る食材もあるので、氷を詰めて厳重に梱包しているため嵩もましてかなり重い。女の身体は非力だと溜息を零し、よいせっと声を出して荷物を抱えなおした。
「真朱様?」
 青年の誰何に真朱は振り返った。
「あ、静蘭殿」
「あ、じゃありません。共もつけず何をなさっているんですそろそろ暗くなるというのに。もしやと思い迎えにきてよかった」
 真朱のおとないは二週間にいっぺんの週末だ。秀麗は真朱の訪問を諸手をあげて歓迎するので静蘭も否やはない。むしろ気の利く家人として率先して徒歩でやってくる少女を迎えに来てくれる。
「え。それはわざわざお疲れのところを申し訳ありません」
「いえ。荷物を持ちますよ」
「あー。ありがとうございます」
 紅家の家人静蘭と真朱は礼儀正しい間柄を維持している。お嬢様には滅法甘いが静蘭は誰にも一線を隔して接するところがあるし、真朱も別段その領域を侵すような必要性を感じていないため、くだけようがないのだ。それでもいつだったか、昨夜の劉輝のように後宮を辞さなかった理由を問うた静蘭に、やっぱり何のひねりもなく昨夜と同じ答えを返した頃から、少しだけ静蘭の当たりが柔らかくなったような感触がある。なんでそうなるのか、因果が真朱にはさっぱりわからないが、逆ならともかく、礼儀正しく親しくなりつつあるので理由を問うことはない。
 朽ちかけた邵可邸の門前で真朱は呆然と立ちすくんだ。
「…………………なんすか、これ」
 思わず素になる。静蘭の前ではついぞ使ったことのない元の口調が漏れたのにも気づかないほど真朱は唖然とした。
 入り口を塞ぐように、巨大な氷塊がでででんと鎮座している。
「あぁその……とある、匿名希望の高貴な方からお嬢様への贈り物で」
 皆まで言われずとも理解した。
「ここまで大きいと家の中まで冷風が入ってよろしそうですね……ところでどうやって中に入るのですか」
「……そこに梯子が」
「わー」
 自宅へ入るのに梯子を使わねばならない秀麗たちのやるせなさ慮り言葉をなくす。
 静蘭は曲りなりにも良家の姫である真朱が梯子を上るのを拒否するかとすら思ったが、真朱は場違いな氷塊への衝撃が去ると、さっさと裾を踏まないように衣をまくり「お先に失礼します」と声をかけてさくさく梯子に足を掛けた。相変わらず良くわからない少女だと静蘭は思う。つかみ所がない。陰湿さや謀略とは無縁そうなので警戒心はわかないのだが、後宮を辞さなかったことを筆頭によくよく人の予想を裏切る女人だ。市井の少年と深窓の姫君を掛け合わせてニで割ったような行動原理は真朱が紛うことなく少女の姿をしているために奇妙に映る。
 一段一段を確かめて上り下りをした真朱が邸内に着地するのを見届けて、荷物を抱えたままの静蘭がほとんど梯子を使わずにひらりと塀を越える。
 静蘭の身のこなしに素直に感嘆する少女は年相応に見えるのだが、真朱は普段、年に似合わぬ物慣れたソツのなさと思慮を誇る……内心、案外この少女も年齢を偽って結構年を食っているんじゃないかと静蘭は考えていた。
 慧眼である。

「すごーくすっごーく美味しかったわ! どこぞの頓珍漢男が家の前にすっごい大きな氷を届けた日にはもうどうしてくれようかっていうかどうすればいいのってホントに困ったものだけどっ……今度近所の子供たちにもご馳走してみるわね、この"あいすくりぃむ"!」
「冷たくて甘いから喜ばれると思いますよー。牛のお乳は手に入りますか? 秀麗さま」
「牝牛を飼ってる人に頼めば分けてくれると思うわ。牛のお乳を使うなんてびっくりしたけど、考えてみればお肉はいっつも食べてるのよね――余裕があるときは。ってゆーか牛のお乳の使い方の多さにビックリよ。こんなに色々使い道があるなんて知らなかったわー」
 厨房に並んで食器を洗う秀麗と真朱は菜談義に花を咲かす。
 日本人が明治を迎えるまでろくに獣肉を食さなかったのは、遡ること飛鳥時代、仏教に熱心だった天武天皇が出した「肉食うな」という詔令に端を発するらしい。牛は長いこと農耕の労働力で、農民の財産であって食物でなかったのが日本の食の歴史だが、そのお隣の国である中国も、モンゴルという牧畜技術乳加工技術発達地域と隣接しながら、近代まで日常的に乳絞りが定着しなかった不思議な国だ。これ実は歴史上の結構な謎である。
 その中国と似通った文化を形成している彩雲国は、やっぱり牛をはじめとした草食有蹄類の搾乳という食文化がなかった。
 二十一世紀日本人として勿体なく思った真朱は地味に牛乳啓蒙活動を続けている。なんたって完全食品。子牛に飲ませてばかりは勿体ない。
 文明開化前の日本と違い、牛肉自体はすでに食べられているので、「角が生える牛になる」などの現代人から見れば珍妙な迷信にとらわれることもなく、牛乳は案外好評を得ている。
「そもそも人間だって牛だって、親と同じものを食べられるようになるまでは乳だけで生きてますからね。それだけでモリモリ成長するくらいですからすっごい栄養があるんですよ。たまーに滋養の薬としてだけに使うなんて勿体ないと思いません? 特に貴重なものだというわけでもないですし、わたくし牛乳は薬ではなく日常的な食物としてもっと伝播してもいいと思ってますの」
「言われて見ればその通りよね。ほんのり甘くて美味しいし、お菓子に使えば変わった風味になるし」
 さすがは秀麗練達の主婦。合理的かつ経済的かつお得とあらば、慣れない習慣でも冷静な理解が返る。
 門前の氷に度肝を抜かれながらその活用法の一つとして真朱がとっさに作ったのはアイスクリームだ。
 静蘭に頼んでノミで砕いてもらった氷塊を広めの桶に敷き詰めて塩を振り寒剤にして氷点下にし、牛乳と卵と砂糖を混ぜた液体を茶筒に入れて桶に突っ込み冷やしたのだ。冷やしながら攪拌すると空気が入り滑らかな舌触りになる。このアイスの作り方は小学生の頃の理科の実験で知った。氷に塩を振ると温度が下がる理屈は忘却したが、まさかその実験がこんなところで役に立つとは小学生時分のは想像だにしなかった。あぁ人生色々。というかイロモノ。
 秀麗たちの絶賛を受けたが、真朱はハーゲン○ッツの洗練された味を思い出し、アイスというより半固体ミルクセーキみたいな素朴な風味になんだかうっすら泣けたのだが、暑い日々が続いているからだろうか、少しだけ元気がないように映った秀麗が笑顔になってくれたのが嬉しかった。
「食べすぎはおなかを冷やしますけど、暑いときには最高の贅沢ですわ」
 正直言えば真夏日に恋しくなるのはアイスクリームではなくキンキンに冷えたビールだったが、そんなオヤジ臭い願望はおくびにも出さない根っからの辛党、真朱の猫かぶり暦もそろそろ十年。
「少しくらい、元気でました?」
「え」
 文句なしの美少女の、気遣う笑顔に秀麗は皿を洗う手を一瞬止めた。
「やっぱり、わかる?」
「暑いですから」
 精彩に欠ける秀麗の不調が、夏バテとは少し違うと予測しながら、"暑さ"のせいにする真朱は礼儀正しく、少し距離がある。
 寄ると触ると恋愛談義に花を咲かせる同年代の少女たちとは、実はちょっと話が合わない秀麗である。そういう意味では恋愛のレの字も匂わさない真朱は慎み深く映る。気さくであるが、さすがは吏部尚書の義娘の超お嬢様(誤解)。真朱との会話は何時自分にレの字のお鉢が回ってくるかと笑顔の裏でハラハラする必要がなく、もうちょっと踏み込んで本音を語り合いたいな、と秀麗に思わせる。
「あの――ね、あのね。叶わない夢を見続けるのって……不毛だと思う?」
 今度は真朱が皿を拭く手を止めた。
 真朱が混ざった夕飯時、秀麗は難しい古典詩の解釈を邵可と議論していた。
 教養の枠を超えた知識欲の根本を考えれば、秀麗の言う"叶わない望み"が何であるのか、さして難しい推理ではない。

「………秀麗さまの"叶わない夢"は、希望ですか? 絶望ですか?」

 奇しくも、家事仕事にまくった袖の下、真朱の左手首の大きな傷に視線が止まった。まじまじと見つめるのは不躾なのだが、目が離せず、秀麗は沈黙する。
「希望を捨ててはいけないと思います。絶望は捨てるべきだと思います。ままならないのが夢ですが――それでも」
 絶望を捨てきれないなんて、貧乏性にもほどがある――そう思いながら、出来ることなら、今でも、元の世界の元の自分に――男に戻りたいと願うのが真朱の"絶望"。
「希望か、絶望か……」
 そんな分別は考えたこともなかったのだろう秀麗が、吟味するように言葉をかみ締める。
 以後、夢を歩み始めた秀麗は、立ち止まりかけたときにこの言葉を、真朱の透明な表情とともに何度も何度も思い出し、心を量ることとなる。

 女人の身でありながら、官吏になりたいという夢を捨てずに頑張る秀麗の、その生き方に、真朱は切実な興味を抱いている。
 男とも女とも断言しがたい真朱は、性別によって分かたれるどんな生き方も選べずに停滞して、絳攸を筆頭とした親しい人に多大なる心配をかけている。
 騙し騙し生きているが、このままでは遅かれ早かれ発狂すると思う。自分はもう少し器用に生きていけると思っていた真朱は、お花畑に片足を突っ込みつつ現実に居座り、迫り来る期限に背筋を冷やす。
 精神と肉体の乖離は、妥協点を知らぬままで、何処にも行けずに彷徨っている。
 女の身体で男として生きるか、女の身体を全て受け入れて生きるか。どちらにせよ答えを出さねば進めない。何処にも行けない。

 帰りたい、戻りたい。嘘じゃない。
 それでも、真朱はこの世界で生きると、とうに決めたのだ。







(極論を言えば精神的ホモになるか肉体的レズになるかの究極の選択を突きつけられているワケで、この件に関してはノーマルすぎてにっちもさっちも合掌……)











モドル ▽   △ ツギ

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