「真朱が絳攸様の妹さんだったなんて驚いたわー……」
 李吏部侍郎後宮遭難事件翌朝、いつもの授業に新たな面子が加わった――李真朱、その人だ。
 昨晩厨房に忍び込んでいるところをお互い発見するというなかなかに気まずいシチュエーションで腹を割って話をした秀麗と真朱は一段と仲を深めた。もとより前後して入内した真朱に、分厚い猫をはがすまでには至っていなかったが、秀麗は端から親近感を持っていた。
 厨房での遭遇にお互いとっさに猫をかぶり損ねてしまい、昨日の今日で猫いらずの仲である。
 そして今日のおやつを一緒に作ったのだ。ついでに必死で遠慮する真朱をこの勉強会に引っ張ってきた秀麗である。
 あさっての方を向いて冷や汗を流している妹を、遭難死しかけた兄が睨んでいる。睨みつつも、「絳攸が女人であればとっくに口説いている」と公言しているギリギリの人楸瑛からその姿を隠そうとしているあたり愛だろう。
 ちなみに後宮で野垂れる寸前だった絳攸を回収したのはやはり楸瑛だ。妹は衝立の陰から一部始終を見ていたにもかかわらず兄を探しはしなかった。薄情だ。
「俺は初耳なんだが?」
 あー怒ってる久々にマジ切れしているこりゃやばい。自称鉄壁の理性にひびが入っている。噴火寸前だ。
「えーとですね、お兄様ー? わたくしは吏部尚書から聞き及んでいるとばかり思っておりまして、ですね……」
 一緒に暮らしているのなら妹の不在をいぶかしんでもいいようなものだが、李真朱は意外に多忙な人である。良家の子女でありながら何かにつけて所用で家を空けることが少なくないので今回もその口だろうと絳攸は全く信じて疑わなかった。ら、昨日のおやつだ。あのような一風変わったものを作る女人を絳攸は真朱の他に知らない。
 その驚きたるや。
「言うと思うか、あの人が! 昨日のような騒動を期待して黙ってるに決まってるだろうが!」
 だよなー。
 紅黎深の人柄を知る人々がうんうん頷いた。つまり秀麗以外全員。衝立の陰では邵可もこくこくしていたり。
「ですが! わたくしとて一服盛られて後宮に放り込まれたのですよ!? お兄様にお伝えする暇が何処にあるというのです! 経緯はどうあれ後宮の女官が外朝をうろつくわけにも行かないではありませんか!」
「文という手があるだろうがー!」
 ついに絳攸が爆発した。
「あ」
「あ、じゃない!!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!!」
 すわ李兄妹の兄妹喧嘩勃発というところで、秀麗が割って入った。今かなり聞き捨てならないことを聞いた気がする。
「真朱あなた! 一服盛られたって……」
「あぁ、割と良くあることなんですお気になさらず」
「えぇ!?」
「こうゆ……じゃなくてお兄様は素直な方なのですが、わたくしは昔っから兄の分まで強情なもので、意地を張り出しますともうそのような手段しか残されていないというか、まぁ今回はわたくしの負けということで、それだけのことなのですわ」
 なんつー家だ。
 ほほほと優雅に笑っている真朱に、いつものことだと証明するかのようにそのことに関して何の疑問も抱いていないらしい絳攸がすごい。
 秀麗以外は皆、何故真朱が後宮に女官として送り込まれたかを理解している。兄一家大好き人間紅黎深が、秀麗を守る駒の一つとして義理の娘を送ったのだ。黎深は自分が女だったら自分で乗り込んだに違いない。既婚? 無問題。ごり押す。未だに自己紹介も出来ていない幽霊親族だが、コレを機に秀麗に"おば様"と呼ばれるために頑張ったに違いないのだ――女だったら。
 幸か不幸か、紅黎深は男だった。
 薬から醒めて(眠り薬だった)気が付けばあたりは紅本家に勝るとも劣らないきらびやかな世界だった真朱はそりゃあもう暴れた。しかし貴妃として紅家長姫が召し上がると聞いてからは模範囚……ならぬ模範宮女としてあっさり順応した。穢れを知らぬお嬢様然とした李真朱は実は図太い。でなけりゃ異世界でやってられない。
 実のところ、真朱は義父にさえ毒を盛られる体たらくの自分が、畑違いの後宮と言う舞台で、どれほどまで秀麗の役に立てるかはなはだ疑問である。
 紅当主一家に育ったとはいえ、真朱を形作るのは暢気な一般人だったの常識だ。出来て毒見役が精々だろうと思っている。
「やぁお久しぶり真朱殿。しばらく見ないと思ったら後宮に入っていたなんて驚きだね。ついでに貴女が絳攸の妹御だとは本当に知らなかったんだけど」
 絳攸の妨害もなんのその。楸瑛は朗らかに真朱に挨拶を交わす。
 しかもその口ぶりから見て、誤解の仕様もなく顔見知りだ。
「はぁ。兄がいつもお世話になっているようで。これからもどうぞよしなにー」
 如才ない返答に愕然としたのは絳攸だ。
「いいいいいい何時知り合ったお前らぁ!!」
「かれこれニ、三年前でしょうか?」
「あぁうんそのくらいだね」
「何処でっ!?」
「…………」
「…………」
 真朱は気まずげに視線をそらし、楸瑛はなんと言ったものかと沈黙する。
 傍目には意味深な反応だった。
 蚊帳の外で事態を見守っていた劉輝と静蘭がこっそり身を乗り出して耳をダンボにする。秀麗は良くわからないながらもえぇまさかもしかしてと胸を鳴らす。
「お、おま、おまえら、まさまさまさか」
「ないないないありえません。わたくしは仕事のほうで藍将軍と面識を持ちましたがその程度です。ね?」
「わたしは遊びに出かけた先で仕事中の真朱殿と顔をあわせたんだよ絳攸。心配しなくても……っ」
 言い訳の途中で珍しいことに、楸瑛が吹き出した。くっと口元を隠す。
「失礼真朱殿。お、思い出してっ」
「あーかまいませんかまいませんどうぞ爆笑してください藍将軍」
 投げやりな許可は下りたが、自身の矜持が許さないのか楸瑛は精一杯沸きあがる笑いをこらえて引き攣っている。それもどうかと思う姿だ。
「実は初対面の折、わたくし酒を鼻から噴き出しまして」
 深窓の姫君がなんか言った。
 周囲が凝固する。
「どーしてそのような無様を晒す羽目になったかというのはわたくしの名誉の為に聞かないでくださると助かりますわ。まぁともかく、想像してみてください。鼻の粘膜から酒精を噴出したその後を。くしゃみ鼻水涙ぼろぼろ化粧ハゲハゲ腹筋酷使のそりゃあ無様なもので、百年の恋も冷める醜態を演じまして、初対面から十秒後にはお互いを恋愛対象から外すという偉業を成し遂げたまぁ普通の顔見知りです」
 ハンッと肩をすくめた真朱はなんだか男らしかった。
 本人に言ったら「俺は男だ」と真顔で返したに違いない。
 実を言えば女性と見たら老若問わず礼儀としてとりあえず口説く楸瑛に口説かれた真朱が飲みかけの酒を鼻から噴いたのだ。しょーもない出会い方だった。こうなると女は選り取りみどりである楸瑛から恋愛対象外にされるのも当然の成り行きだ。一歩間違えれば軽蔑されていたところだったのが、何がどう転んだのか不明だが、礼儀正しく見なかったことにしてくれた(しかしときどき思い出しては笑う)楸瑛とは気取りようもない気安い仲である。
「そーゆーわけで色めいた事は皆無といいますか色めきようがない出会い方をしたと申しますかとにかくお兄様の懸念は杞憂にもほどがありますのでご心配なく」
「女性との綱渡りのような駆け引きも面白いけれど、そういうものもなく気安く話を出来る女人も貴重でね。妹みたいに思っているってかんじかな?」
「俺の妹だぁ!!」
 ぎゃあぎゃあ喚く絳攸に軽く聞き流している楸瑛を放置して、真朱はお茶の準備にかかった。
「あ、手伝うわ真朱」
「ありがとうございます紅貴妃さま」
 てゆーかアレ放っておいていいの? と思ったのは劉輝と静蘭。
「絳攸は妹が大好きなのだな」
 どこか羨ましそうに呟いた王は、遠い面影を思い出す。彼にも昔、大好きで大好きな兄がいた。実は隣にいるけど。

「過保護なんですの。わたくしが愚かだったばっかりに―――さ、お茶にいたしましょう。お茶請けは早い者勝ちなのですわ」

 詳しくは語らず、真朱は月餅を広げた。
 少女の華奢な左手首で、細い連環がしゃらりと鳴った。






(義父は放任、兄は過保護。でも今更それが人格形成に一役買うほど素直なワケがない)









モドル ▽   △ ツギ

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