腹が減りすぎると食欲をなくす。それを通り過ぎると、強烈な飢餓に目を回す。 そして甘いものが熱烈に欲しくなるのだと知った。 21歳、就職活動に忙しい大学3年生―――だった。 過去形で語らねばならない理由はいまだ判然としない。理由などどこにも無かったように思う。強いて原因らしきものを言葉にするなら"ずれた"、もしくは"外れた"。そんな表現が浮かぶ。 要は踏み外したのだ。 自分が認識している世界というのは、実は綱渡りのようなものだったのだと今にして思う。ずれることも、外れることも、踏み外すことも想像だにしなかった昨日は最早遠く、昨年成人したはずの己にあるまじき細い腕、小さな手のひらを―――それを握り締める、やはりやせ細った少年の腕をぼんやりと見上げた。 繋がれた手が熱い。汗ばむ手のひらは自分のものではなく、少年の体温だ。 「………手を離せよ」 は億劫に腕を振った。振り払うつもりで力を込めたはずが、飢えのおかげでいささかも揺れはしなかった。口惜しい。 「い、やだ」 十前後の少年は荒い息を吐きながらの手を握る力を強める。今にも倒れそうな少年の細腕のどこにこんな握力が残されているのか疑問に思うほどに強く。 「あのさ」 「いやだ」 まだ何も言ってねぇ。はどうにも強情な少年をもてあます。舌打ちをする体力すらないのがつくづく惜しまれるところだ。 「お前、一人の方が、楽できるぞ」 「いやだ」 どうしたものか。 は途方に暮れて昊を仰ぐ。やせ細ると、自分の頭を支えることすら危なくなるらしい。頭頂の重さに耐えかねて体の均衡を崩し、足がもつれた。 少年もろとも、すっころんだ。 「………ばかだなぁ」 巻き添えを食らわせた少年に謝罪するどころか、は彼を笑う。 共に倒れ、もはや立ち上がる体力も共に無い。つまり力尽きた。 今まで歩いてこれたのも、ただの惰性だ。 世界が暗転した瞬間を、は鮮明に記憶している。 ただ、道を歩いていただけだった。通いなれた駅から大学へと続く道。午前の講義を済ませたら、就職説明会に参加するためのスーツ姿で慣れないネクタイが息苦しかった。 歩いてきた道が後ろにあるように、これから歩く道が見えていることは当然のことだった。その道が突如途切れたり、道からずれたり外れたり、踏み外すことなど一度として想像したことも無く、それはだけのことではなかったはずだ。誰もがそうやって地続きの"明日"を信じていたはずだ。 信号でもない道の途中、ガードレールに挟まれた細い歩道では足を止めた。自らの意思ではなく、大気から圧力をかけられたかのように身体が重くなり、足がアスファルトに張り付いた。 狭い歩道で足を止めたを、迷惑そうに通り過ぎていく通行人を見送りながら、突如動かなくなった両足に愕然とした。 話に聞く貧血のような眩暈が襲う。 ―――暗転。 そして気がつけば、そこは知らない世界だった。 「嘘みたいな、ほんとの話」 誰に話しても信じないだろうし、誰よりもが現実を疑っている。 当たり前に豊かだった現代日本から、電柱の姿も無い世界に瞬きで渡ったというのなら、小説にしても陳腐な展開だ。なら異世界トリップをした瞬間に興味を失い本を閉じてしまう荒唐無稽な、嘘みたいな本当の話。嘘であれば、夢であれば、まだ救いがあっただろう。ばれない嘘は難しいし、夢ならいつか醒めるのだ。 縮んだ身体は細く、細く、針金のように細い手足に膨れた腹。いつか見た欠食児童の写真のようなまさにそれだ。飢えなど知らない国に生まれ、育った自分が栄養失調にあり、もう長いことろくなものを食べてはいないという現実も認めがたい。むさぼるように川に顔をつっこんで水を飲み、水面に映った己の姿に唖然としたものだ。どこをどう見ても幼児だ。そして餓鬼だった。 飢えなど知らなかった。知りたくも無かった。 「……手を離せ、おい」 「………いや、だと……言ってる」 「あっそ………なら、いいや。死ぬまで握ってろ」 「……ふん」 「死ぬまで、握っててやる」 お互いが。 最後の力で、手を繋ぐ力を込めた。 (絳攸夢というかオールキャラの友情夢なんですが、飽きたらいつでも絳攸オチで終わらせることが可能な設定……わーサイテー) |