紅黎深は自分が呼び出した少女が慣れた手つきでお茶を入れる姿を扇の奥からとっくりと眺めた。 黒髪も艶やかに、名前にごとき朱を刷いた口元も愛らしい。薄く化粧した面は白く、繊細な目鼻立ちは儚げに美しい。丁寧に装った立ち姿と所作は名門紅家の名に恥じない深窓の姫君そのものであるが、黎深は彼女に紅の姓を与えなかった――彼女の兄と共に。 年の頃は十五・六。名を李真朱という。 真朱は黎深と己の分の茶を用意すると顔を上げ、ついで首を傾げた。 絵姿に残したい、初々しい美少女が赤い唇を開き。 「そんで、黎深様、何の用っすかー?」 一声で全ての幻想が瓦解した。 黎深はぱちんと扇を鳴らした。 「その口調」 「おっと失礼」 変な少女だった―――それはもう、拾った瞬間から知っていたことだが。 門前で倒れていた幼い少年に「拾うぞ」と宣言をしたら一刀の元に「いやだ」と返され、黎深はこの少年を拾うことにした。前衛的にひねくれた思考回路の当然の帰結だった。 嫌だとはっきり口にして、そして気を失った少年を手ずから抱えたとき、ぶらんと少年の腕からぶらさがったもう一人の、更に幼い少女に黎深は初めて気づいた。 「そいつ、拾うのか?」 ぶらさがったまま、少女は黎深に尋ねた。 「拾う」 なんか文句あるかといわんばかりに黎深は宣言した。 「熱があるから、看病してやってくれよ。拾うんなら責任持てよ。犬猫じゃねーんだぞ。人間なんだからな」 文句があったらしい。ぶらさがったまま、少女は言葉を重ねた。 手を離さないのは、意識を放棄した少年の執念だった。 「お前、こいつの妹か」 「知らねぇ。多分赤の他人」 少女は少年の手を離そうと腕を動かす。 「ならば何故、手を繋いでいる」 「人間だからじゃねーの?」 少女はさも当然のように言ってくれたが、意味がわからない返答だった。えびぞり背筋状態の少女は頭を持ち上げていられなくなり、がくりと首を落とす。 やや迷ってから、黎深は少年を抱えたまま腰を下ろした。少女は仰向けに転がり、黎深と初めて正面から目を合わせた。生きながら、此処ではないどこかを希求する切ない双眸だった。 「腹の減った獅子の親子の母獅子は……やっと捕らえた、小さな獲物を……子には与えず、まず、自分が腹を満たすんだってな……」 どうでもいいことのように少女は呟く。 「情がないんじゃなくてさぁ……自分が死んだら、獲物を狩れない子獅子も死んじまうから、母獅子は、自分が腹を満たす。子供には絶対、与えないんだと。自分が生きていれば、また狩りにいけるし……今の子供が駄目でも、次の子供を産んで……育てきることが、出来る、かも知れない、から。なのに人間は、ときどき、種を保存する、本能に、死ぬ気で、逆らうんだな……変なの。こいつ、赤の他人だぜ、多分。なのに気がついたら俺の手を握ってて、木の根を分け与えて、なんにもない食べるもの、さらに半分にするの。わけわからねぇ。自分が全部食えばいいのに。俺ならそうすんのに。役立たずに食わせてばっかりで、ついには自分が熱出してぶっ倒れてんの。俺も倒れたけどな」 やせ細り年齢は定かではない。しかし、年に似合わぬ聡明な子供だった。 最後の力を振り絞る少女の声は、徐々に細くなっていく。 「でも、こいつ、馬鹿みたいに、すごく、真っ当に……人間だぜ。すげーめっけもんだと思う。此処あんたの家の前? なら、幸運なのは、コイツじゃなく、お前だ」 微かな微かな吐息。 「助けろよ、絶対。失敗したら………末代まで祟ってやる……赤の他人の、俺がな」 最後の最後の力で――少女は黎深を睨みつけ、そして少年の手を振り払った。 その腕が力なく落ちて、覚めない眠りにつくように、少女は目を閉じた。 ―――その少女が成長したのが、この真朱だ。 最期まで己の命乞いをしようとせずに意識を失った小さな少女を勝手に回収し、ほとんどなし崩しに養女とした彼女は今、黎深の前でお茶請けを用意している。 ぱたぱたとやる気なく仰いでいた扇を閉じて、一拍。 一月前、少女の兄に主上付きを宣言したのと同じ口調で、紅黎深は少女にとって死刑宣告に近い命令を下す。 「後宮に行け」 案の定、少女は音を立てて血の気を引かせ、顔色が赤くなって青くなって白くなって土気色になったところで弾かれたように脱兎した。 彼女の逃亡は屋敷の脱出すら叶わず終焉する。 わめき暴れる少女に一服盛って有無を言わさず後宮へ連行、鬼畜の所業である。 「一言……一言くらい、あってしかるべきだと思うのは贅沢なのですかっ」 血を吐くような少女の訴えに、紅邵可はこっそり目頭を押さえた。 「本当にすいません真朱様……黎深は昔から言わなくていいことばかり雄弁で、肝心なことは全く言わない子でして……」 今度は真朱が目頭を押さえた。 「いえ、いいえ! 邵可様が謝られることなどござませんっ、そういう方だとは百も承知であったのに愚痴など零してしまいお恥ずかしい。秀麗様が後宮に召されると知っていれば、手負いの熊のごとく暴れて一服盛られずとも進んでお勤めいたしましたのに、あぁあぁいらぬ恥をかきました」 邵可は目の前のほっそりとした深窓の姫君が"手負いのクマ"のごとく暴れる様を想像し、失敗した。 「一服、盛られたのですか」 「少々油断いたしまして」 義父の所業ではないし、義娘の返答ではないと思う。 あんな養い親でも尊敬して敬愛してやまない少女の兄、李絳攸との親子関係は奇跡だが、妹の真朱と黎深の関係はただ謎だ。邵可にしても。 あの弟が子供を拾ったと伝え聞いたとき、邵可は世界が終わるかと思った。それも二人も。 天変地異の前触れかと緊張し、家族を連れ避難すべきか、しかし、何処へ逃げれば!? と本気で検討したものだ。結構ヒデェ兄貴である。 黎深と真朱、この二人にはある種の愛情関係は確立していると思う。しかし、面白いくらいに――実際は笑えないくらいに――信頼関係はない。片や目的のためには義娘に毒を盛るし、娘は娘で普通に服毒を警戒している。しかし、しかし、これで仲は悪くないのである。相関図に当てはまる名称は奈辺だが。 ついこの間まで、邵可は彼女の兄、絳攸の愚痴をこの府庫で聞いていた。 秀麗が後宮に召し上がり、王の説得に成功、いまや鬼の首を取ったかのようにビシバシ教鞭をとっている彼に代わるように、今度は何の説明もされずに秀麗のため後宮に女官として放り込まれた妹が愚痴を零しにやってきた。つくづく李兄妹の苦労が偲ばれる。 義理の叔父と姪は、図ったように同じ仕草で衝立から彼らの授業風景を覗いた。 「ふ、ふふ。まぁ感謝はしているのです。おかげさまでわたくしは秀麗様と日夜後宮で親睦を深めていまして、お勤め満了の暁には黎深様に超自慢してさしあげますの。今から楽しみで仕方ありませんわおほほほほほ」 「どうぞどうぞ。存分にどうぞ」 邵可の許可を得、真朱は赤い唇を吊り上げた。鬼に金棒だ。 「お会いできて光栄です、邵可様」 「いえいえこちらこそ。これからも黎深をどうぞよろしくお願いします」 真朱は深々と頭を垂れ、顔を上げてふと首を傾げる。 「……しかし、わたくしもなーにか忘れているような気がするのですわ」 「何をです?」 「えーと、なんか、結構重要なことだったようなー……」 思い出そうと米神を叩く真朱と衝立の向こうを交互に見ていた邵可は、突如椅子を蹴倒して府庫を飛び出していった絳攸を驚きつつ見送り、海より深く納得した。 黎深と真朱。 この二人、似たもの同士だったのだ、と。 「休憩だ」 本を揃え絳攸が休憩を宣言し、秀麗は知らず詰めていた息を吐いた。 さすがは朝廷随一の才人、李絳攸の座学。息着く間もない密度の濃さだ。彼に教わることが出来て秀麗はこれだけでも後宮に放りこまれた元は取れたと思う。もちろん、任務完遂時には金五百両を絶対絶対いただくが。毎日お米のご飯は長年の憧れのちょっと贅沢である。 秀麗は用意していたお茶請けを広げ、花の香るお茶を準備した。 「秀麗、余は饅頭を三つ食べたいのだ」 「駄目。二つよ。三つも食べたら夕餉が入らなくなるじゃないの。子供じゃないんだからお菓子ばっかり食べないの」 大好物である秀麗の饅頭を前にそそくさと手を伸ばす王を、秀麗は母親のようにたしなめる。まさに母親。これでは夫婦というより親子である。 護衛に控えていた楸瑛と静蘭が机に混じり、そんな二人の様子を楸瑛は噴出すのをこらえながら、静蘭は微笑ましく、絳攸は隠すことなく呆れつつ見守っているのがここしばらくの府庫の風景だ。 「三つ……」 「んもぅ……いいけどね。今日は仲良くなった女官の子に、すっごく珍しくて美味しいお菓子を分けてもらったの。すっごく美味しかったわ。今度作り方教わるの。でも主上はいらないのね。お饅頭三つも食べちゃうならこっちのお菓子はあげないわ」 いつもの饅頭のほかに、秀麗は手巾を絞り、朱色の飾り紐で蝶々結びを施したかわいい包みをひょいっと取り上げた。 秀麗は劉輝にとっとと饅頭を三つ差し出すと、くるりと顔の向きを変えてにっこりと微笑み飾り紐を引っ張った。 「焼き菓子かい?」 解けた手巾を覗き込んだ楸瑛が尋ねる。 「そうです。"かんとりーくっきー"って言うんですって。粗く砕いた胡桃を混ぜたものと、干し杏子をいれたものの二種類。わたしこんなお菓子初めて食べました」 きらりんと光る目は主婦のもの。一家の厨房を預かるものの好奇心が、その女官の気さくなことをいいことに"箸より重いものなど持ったことありませんな深窓の姫"を演じながらも菜譜を尋ねるというギリギリの暴挙に出た。秀麗より一つ年下のその女官は、艶やかな共犯者の笑みを浮かべて「後で作り方を料紙に書いておきます」と内緒話を楽しむように囁き、秀麗は彼女のことが大好きになった。 「へぇ。本当に珍しいですね」 お茶を入れるのを手伝っていた元公子様である静蘭も興味深げにその焼き菓子を手に取る。さっさと齧ったのは毒見のためだ。秀麗がすでに食したと聞いたときには一瞬血の気が引いたが、今のところ彼女は健康を害した様子も無く、むしろ上機嫌で、嚥下した静蘭もほっと息をつく。毒など端から入っていないようだ。彼はこの場の誰よりも毒に詳しい自信がある。お茶に解毒剤を混ぜる必要は無かった。 「これはわたしも初めて見るね」 菓子を手に取りまじまじと観察する楸瑛は彩七家筆頭藍家の直系で、左羽林軍の将軍である。平たく言えば超お坊ちゃま。超お金持ちの御曹司。彩雲国中の食べ物、珍しいものは食べつくしたと自負していたが、その彼にしても知らない焼き菓子だ。静蘭が何も言わないので安全なのだと確信すると続いてさっさと齧る。 変わった風味だが、美味だ。少し甘いが、お茶請けには丁度良い。 「絳攸様もいかがですか?」 「あぁ! 秀麗、余も、余もー!!」 「じゃあお饅頭は一個返すのね―――絳攸様?」 絳攸は固まっていた。 その両眼は信じられないものを見たとばかりに"かんとりーくっきー"に注がれ微動だにしない。眼光で焼き菓子に焦げ穴が空きそうなほどの視線だった。 「……あの、絳攸様?」 変な反応に秀麗がそっと顔を覗き込むと、絳攸はぎぎぎと音がしそうなぎこちない動作で首をめぐらせる。 「こ、これ……カントリークッキーと、言ったか?」 「え、えぇ。そういう名前なのだと……」 「これをもってきた女官、は、まさか……真朱という、名、の」 「え? もしかしてお知り合いですか?」 ビンゴ。 「聞いてないっーーーー!!!」 絳攸は物凄い勢いで府庫を飛び出した。 あまりの勢いに呆然として、楸瑛すらもが彼を追いかけ損ねたため、絳攸はその日、府庫に帰還することが出来なかった。 後に言う、李侍郎後宮遭難事件である。 「………絳攸に言うの、忘れてたー」 衝立の向こうの騒動に、真朱と邵可の間にしぃんと重い沈黙が垂れ込む。 ぽん、と手を打つ妹は、あははと乾いた声で笑う。言い訳が許されるなら、コッチも一服盛られて後宮に放り込まれたクチだ。説明する暇などなかったし、女官が端っこではあれど外朝である府庫を公にうろちょろするわけにも行かず、こっそり遠巻きにしていたのでうっかり言いそびれていたのだ。 「………真朱様………」 「わ、わたくしはわざとではありませんよ邵可様っ! というかてっきり黎深様から聞いているものとばかりっ」 わざとであってもなくても。 義理の父娘、素晴らしい連携を発揮して絳攸を振り回している―――ようにしか見えない。 あーそうか黎深と真朱は似たもの同士だったのかそうかそうかと納得する傍らで、邵可は義理の甥の苦労を思い、こっそり涙した。 (どう考えてもしばらく静蘭とは絡めない。何時までたっても絡めない予感……) |