<悪鬼巣窟の日常>




 空気が澱んでいた。
 さらさら、さらさらと一心不乱に小筆の走る音がする。ささやかながら聞きなれた音だ。その間隙を縫うように、がっちゃんばったんばりんばばーん、そんな破壊音が鼓膜を刺す。
 遺憾ながら、聞き慣れた音だった。
「備品を壊すな」
 書翰から顔も上げず、騒音に苦言を呈したのは吏部侍郎の李絳攸。眉間にぶっとい皺が刻まれている。
 備品損壊率(消耗率ではない)で他の追従を許さない悪鬼巣窟の吏部官吏は戸部の仮面の某尚書のウケがすこぶる悪い。こないだもすれ違い様に鮮やかな嫌味を言われ、悪鬼巣窟の副首領である絳攸は一も二も無く謝罪したばかりだ。
 しかし地獄だってここまで荒んではいまい、と思わせる修羅場(別名吏部)において、物にでも当たらなければやってられないという部下たちの心も良くわかる。絳攸だってうっかり気を抜くと小筆を無差別に屠ってしまう。だからと言って民の血税により与えられる備品を粗末に扱っていいわけがない。上と下に挟まれた絳攸の悩みを妹は「あ、中間管理職の悲哀!」と一刀両断する。
 先日の朝議で"女人の官吏登用"が可決したばかりであるが、当然いまだ官吏は男所帯。つまりむさ苦しい。そんなむさ苦しい男どもがよってたかって半月ほど一部屋に押しこめられ仕事に次ぐ仕事に漬けられてそろそろイイ感じに発酵―――もとい腐敗してきた中で、正論なんて儚きものだ。風に吹かれて霧散した。窓は閉まっているのに風が入るとはこれ如何に。如何にもクソもない。窓は割れている。
「…………………風呂、入りてぇ」
 換気は充分。なぜなら窓は窓の役目を果たしていない。しかしそれでもいい加減篭って居ついたすえた臭いに嫌気が差したのか、沈黙というより重圧だった無言が破られた。
 がちゃんばりん
 賛同のような破壊音が鳴る。
「備品を壊すなと、」
「いい加減コレはやべぇだろ! 髭剃らせろ! これじゃ仙人髭じゃねーかっ」
「誰か仮眠用の布団干せよいい加減干せよ! 臭ぇと思ったらカビ生えてたぞ!? 赤と緑のっ!!」
「仮眠取れるだけマシだろーがっ!! 俺は五日寝てねぇぞ!?」
「五日ぐれーで何威張ってんだアホかっ!? 俺は十日ロクに寝てねぇしもう一月も家に帰ってねぇ!!」
「どんだけ風呂入ってねぇんだテメェ臭ぇんだよ失せろっ!!」
 芋づる式に不満が爆発した。
 不満というか、不潔自慢か。最悪だ。
「口を動かす暇があるなら手を動かせ」
 絳攸の眉間の皺が深さを増した。
 ばりーんがっちゃーん
「時にこないだ結婚が決まったと浮かれていた阿呆がいたな。彼女にこの現状を見せてみろよ。速攻でフラれっから!」
 他人の不幸が蜜の味な悪鬼たちがグフフと哂う。
 先日めでたく幼馴染との結婚を決意した同僚を九分九厘の嫉妬でもって祝福したばかりだ。
 がちゃーん、ばき。
「………………………………とっくにフラれたよあぁフラれたとも十年付き合った彼女になぁあぁぁあぁぁ!!!」
 隣に住んでた可愛いあの子。お偉い官吏になって世界一幸せなお嫁さんにしてあげようと思った。隣に住んでた可愛いあの子。
「あの子は寂しげに微笑んで―――「何不自由ない暮らしより、一緒に苦労できる彼と一緒になるわ」ともう一人の幼馴染に掻っ攫われたわぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」
 号泣。
「ざまぁみろ一人だけ幸せになろうとするからだブハハハハハ!!!」
「つか女と会う時間があるってのがそもそもオカシインだよありえねぇ! 一蓮托生で不幸になろうぜ俺たち仲間だろっ!?」
「これ以上の不幸がこの世に存在すんのか!? 存在すんのか!? しねぇだろう!?」
「これでお前も一人前の吏部官吏だ! 歓迎するぜっ!!」
 荒んでる。
 絳攸はつくづく思った。誰一人同情しないってどんな仲間だ。
 しかし男女の機微に疎い絳攸も共感出来ず、同情も出来ないので同情した人手を挙げてー、零。
 見事な零だった。


「………………なんで、女は、「私と仕事のどっちが大事なの!?」なんてわけのわかんねー比較を強いる!?」


 不幸な破談から、女ッ気皆無の悪鬼たちは女性への不満へ話題が移行する。
 こんだけ不満たらたらなのに彼女欲しい結婚したいという根性が絳攸にはいまいちわからない。
「お前も言われたか!? お前も言われたのかっ!?」
「「「「「「おお心の友よっ!!」」」」」」」
 大合唱。
「おおなんて答えた心の友たちよ!! あの難問になんて答えた!?」
「答えられるわけねぇだろーがよ!! そもそも比較対象としておかしいだろアレ!?」
「だよなだよなそうだよな心の友よ! 月餅と桃饅のどっちが好きだと聞かれたら桃饅と答える! 私とあの娘のどっちが大切なの問われれば君だと答えるっ!! 桜と梅のどっちが好きーと聞かれたら桜と答える!! なのに"私と仕事"!! 分類からしておかしいだろ!? なぁ!?」
「なんだアレ究極の難問かっ!? 国試の方が簡単だったぞ!?」
「なぁ!!」
 一転して心は一つ。盛り上がる官吏たちを尻目に絳攸は仕事を続ける。
 こうなっては全てを吐き出すまで愚痴が続く。なんだかんだいって誰一人として手を止めていないので、見逃す。
 しかし喧しい。
 絳攸の眉間の皺はそろそろ人としての限界を越えそうだ。
 刺すような、それでいて粘っこい、なんとも不愉快な視線を感じて、絳攸は渋々――――渋っ々顔を上げた。
「………………………なんだ?」
 物凄く嫌そうに問う。



「ナニ一人涼しい顔してんですか絳攸サマ」
「ナニ一人小奇麗な恰好してるんですか絳攸サマ」
「ナニ一人火熨斗の利いた衣着てんですか絳攸サマ」
「ナニ一人女にモテそうな面してんですか絳攸サマ」
「ナニ一人カンケーねーっつー顔してるんですか絳攸サマ」



 言いがかりにも程がある。



「ナニ一人涼しい顔してるんですかっ」
「実際に涼しいだろうが窓が割れてて!」
「ナニ一人小奇麗な恰好してるんですかっ」
「コキタナイ恰好で王の御前に立てるか!」
「ナニ一人火熨斗の利いた衣着てンですかっ」
「以下同文!」
「ナニ一人女にモテそうな面してんですかっ」
「生まれつきだ!」
「ナニ一人カンケーねーっつー顔してるんですかっ」
「実際関係ないだろうがっ!?」






「「「「「「「そんなアナタが今心から憎いっ!!」」」」」」」」






 最低な職場だ。
「知ってるぞ…………知ってるんですよ俺たちゃー知っている」
「何故こんなにもアナタが憎いのか、俺たちゃー知っている」
「だから尚更憎い」
「憎いなぁ憎い。憎悪。可愛さ余って憎さ百倍」
 言動が胡乱だ。絳攸の眉間もそろそろヤバイ。
「…………なにが、言いたい」
 義務のように訊ねた。
「あんた人として身なりがやばくなると後宮に行くでしょう!! 妹姫のところーっ!!」
 なぜ知ってる。
「風呂入って茶ー飲んで着替え頼んで洗濯頼んでつやぴかになって帰ってきやがってチクショー!!」
「紅家別邸に帰るより近いからだっ!!!」
「ありえねぇ!! あっりえねぇよ!! 俺らがキノコ生えそうになってんのに!!」
「日光消毒しとけっ!」
「赤と緑のカビと俺らが添い寝してるときにアンタ妹の寝台で寝てんだろう死ぬかっ!?」
「仮眠用の布団は別に用意してあるわっ!!」
「俺らが幼馴染のあのコにすらフラれてんのにアンタ妹といちゃコラしやがって自慢か!? 自慢なのか!?」
「事実無根だっ!!」
「可愛くて胸がでかい妹がいるって何だ!? 人生勝ち組じゃねーか!!」
「アイツの性格でお釣りが出るわっ!!」
「血ィ繋がってないってマジですか!? アンタ一人だけ余裕ぶっこいてんじゃねーよ!!」
「だからなんで知ってるっ!?」
 特に胸とか。
「それ妹じゃなくて嫁だろ嫁! アアァふざけんなっ!」
「街歩いてると若夫婦に間違えられるって何だそれ嫁じゃねぇかっ!!」
「だからなんでそんなことまで知ってるっ!?」





「「「「「「「「認めやがったーーーーーーーーっっ!!!」」」」」」」」」





 大合唱。
「幼馴染なんて目じゃねーよ! お隣さんなんて目じゃねぇぞ野郎どもっ!! 同じ家に住んで職場まで同じでつまり仕事に理解があって人としてヤバイ兄貴の世話まで焼いてくれて胸までデカイ妹!! 美人っ!!寄こせぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「やるかぁっ!!」
それなんて桃色草子? 分けろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「出来るかぁっ!!」
 細切れ真朱。プチホラーだ。
「知ってるぞ、知ってるんだぞ。アンタが時々もってくる差し入れの重箱!! 家人じゃなくて妹の手作りだろっ!! おすそ分けしやがって!! 自慢かっ!?」
「じゃあ食うなっ!!」
 どうしろって言うんだ。
「梔子と白粉の匂いさせやがって! 妹の移り香かっ!? 移り香なのかっ!? あああぁぁぁぁ襲うぞゴラァ!!」
イイ匂い………っ」
いい匂いだっ…………っ」
 凄まじい悪寒が走った。
 控えめに表現して貞操の危機?
「き、貴様ら……っ」
 眼がイッてる。頭もイッてるのもわかるよくわかる。
 しかし取り沙汰にされて論われるのは業腹だ。特に胸。人の妹なんだと思っている何処見ている抉るぞ眼球!
 絳攸の米神が別なイキモノのように痙攣した。
「どこかに………どこかにいないのか………可愛くて胸が大きくて家事が出来て仕事一辺倒の俺らの帰りを待ってくれる若い娘。間違っても"私と仕事のどっちが大事なの"なんてワケのワカラン比較を持ち出さない、可愛くて胸が大きくて家事が出来て仕事一辺倒の俺らの帰りを待ってくれる若い娘ェェェェェェェェ!!!」
 血を吐くような叫びだが、さりげなく理想が高い気がする。


「「「「「「「「具体的にはアンタの妹オォォォォォォォォ!!!」」」」」」」」


 米神にでっかい青筋が浮いた。
「妹さんは俺が幸せにしますっ!」
「一昨日来ヤガレ」
「まずはお茶から! 清く正しい男女交際ーーーーーー!!」
「出来ルもんならヤッテミロ」
 妙に律儀な絳攸の返答もそろそろ投げヤリだ。いやもう心から一昨日きやがれそんでもって出来るもんならやってみろ。止めはしない
「お義兄さまと呼ばせてくださいっ!!」
「クタバレ」
 こんな義弟まかり間違ってもいらない。
 それに忘れているようだが。




「舅は黎深さまだぞ」




 幾人が口から泡を吹いて昇天した。
 ―――悪鬼巣窟の吏部、その修羅場、諸悪の根源吏部尚書、氷の長官、悪党の親玉大親分。
 まずあの人を"父"と呼べるか否かが結婚以前の大問題だ。その点でいえば、吏部官吏は黎深による心の傷により大部分は脱落すると見て間違いない。
「ふん、他愛ない」
 絳攸はヘッと吐き捨てた。
「不公平だ………不公平っすよ。なんで李侍郎にだけ可愛い女のコがっ」
 性格は可愛くないと声を大にして言いたい。
 あれはむしろカッコイイ生き物だどっちかってーと。
「女嫌いとか言っちゃってあんな妹いたらそらー女嫌いとか言っても楽勝だろ、人生っ」
 あれはむしろ絳攸の女嫌いに拍車をかけている存在であるどっちかってーと。
「理知的ででしゃばらなくて可愛くて胸でかくて料理上手いって何だよそれ男の夢じゃねーかっ」
 その男の夢の実情を強いて言えば、理知的というより小賢しく、でしゃばらないのは興味がないだけで、可愛いのは顔だけで、胸がでかいのは置いといて、料理は本人の趣味だ。

 絳攸は心の中で反論した。

「アンタぁ言われたことなんてないんでしょうっ、アレをっ」
 アレとはあれか。
 "私と仕事"か。
 絳攸は眉をしかめ天井を仰いで米神を押さえ、答えた。
「……………あるぞ」
 マジッすか!?
「あの理知的ででしゃばらなくて可愛くて胸のデカイ料理上手の妹に言われたのかっ!?」
「可愛いっ!! 可愛いじゃねぇか!!」
 なんでそーなる。
「普段聡明なオンナノコが我慢の限界をむかえて涙目で袖をそっと引っ張って"私と仕事どっちが大事なの?"って首を傾げるっ!! 萌える!!」
 意見が先ほどと百八十度違う。
 てゆーかそれ、ありえない。
 本人が耳にしたら怒髪天をつき名誉毀損で訴えられかねない誤解だ。



 ―――顔を上げて絳攸は混沌なる室を見渡す。 
 今日中に挙げねばならない仕事があとニ山。放射線状に山積みとなっている残りの書翰はギリギリ明日でも間に合うか。
 先ほど泡を吹いてぶっ倒れた幾人かは二日は目を覚まさないだろうし、生き残った数人も人間をやめつつある。
 部下たちはそろそろ本格的に人外に進化しようとしている。


 潮時か。


 絳攸は溜息をついた。


「侍郎侍郎アンタそれでなんて答えたんですかその難問にっ!?」
「後学の為にご教授ください憎いなんていったの嘘ですからっ!!」
「普段聡明なオンナノコが我慢の限界をむかえて涙目で袖をそっと引っ張って"私と仕事どっちが大事なの"って小首を傾げてアンタァどう答えたんですかっ!? どう答えたら角が立たんのですかフラれないんですかっ!?」



「俺の妹がそんなこと言うか」



 李真朱がその台詞を口にしたと思っているのがそもそも根本的な誤解だ。
 ソレを絳攸に言ったのは――――。















黎深さまだ
















 口から魂魄を吐いて白目を剥いた部下を見渡し、絳攸は一人、残りの仕事を仕上げにかかった。











(何と答えたのか、チョー謎。知ったこっちゃねぇや)





モドル

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