絶対零度。
 それは真朱曰く――摂氏でマイナス二七三・一五度。摂氏とマイナスがどういう単位なのかの説明は見事省略された(つまり説明してないも同然)が、理論上、その温度にたどり着くことは不可能だとされている、という。そのテキトーな言葉で劉輝が理解したのは、ものすっごくとっても果てしなく寒い、冷たい、ということのみだ。
 理論上、たどり着くことは不可能ではなかったのか。だがしかし、現実に、愛しい少女が、ものすっごくとても果てしなく寒くて冷たい目で劉輝をメッタ刺しにしている。
「絶対零度の視線とはこのことか――」
「なんか言ったかしら。黙ってちょうだい」
「いや、違う。その、黙ってられない! 余は本当に知らなかったっ!! ホント、本当ですっ!!」
 勇気を振り絞って訴えた。久しぶりに会えたのに秀麗がものすっごくとても果てしなく寒くて冷たい。泣きたい。
 今年は吏部試前に見習い期間が設けられた。ここだけの話、合格者に問題がありまくる年の特別措置である。ここだけの話と言いつつそのことを秀麗と影月はちゃんと察しているが。
 先輩官吏に付きながら仕事を覚えるという名目であるにも関わらず、二人に割り振られた仕事は厠掃除と沓磨きだ。当然、仕事を教える先輩などいやしない。
 二人とも文句一つ言わず――「見てらっしゃい! 用を足すのも憚られるほど美しく磨いてやるわっ!! (はばかり)だけにウマイこと言ったわ私! おーっほっほっほ!!」――いや秀麗がなんか言ってたが劉輝の恋する青年脳が愛しい少女のその台詞を削除していた。文句ではないのは確かである。記憶にはないが、それは確かなのである。
 そう。今、とりつく島もなく絶対零度の秀麗だったが、護衛と称してノコノコと衛士に扮して劉輝がやってきた際は、普通だったのだ。呆れてはいたが、普通だった。劉輝の心ばかりの及第祝い、ヨレヨレの福寿草にはにかんでくれた、心優しい少女だった――それが、今。トゲトゲ絶対零度なのである。
「余は知らなかったっ! 事実無根だーっ!!」
「だから黙ってちょうだい。ついでにどっか行ってちょうだい。私は今頬ずりしたくなる便器を目指して忙しいの」
便器に負けたーっ!?
 いくらなんでも、そんなバカなと劉輝が愕然と立ち尽くす傍らで、秀麗はガショガショ便器を磨くのに余念がない。
 出すもの出したら気が抜けるのか……厠は噂の宝庫である。頬ずりしたくなる便器を目指す秀麗はもとより、こっそりついて回っている劉輝まで、その噂を耳にした。
 それで、絶対零度である。
「事実無根……」
「そんっっっっっなこと言ってんじゃないのよっ!! 事実無根だろーが事実有根だろーがどーでもいいのよっ! そんな噂が流れたってことが問題なのよっ!! ついでにその噂をあんたが全く把握してなかったってのもねっ!!!」
「余は、ついでなのか……」
 やはり便器以下の男決定なのか。
「ついでに決まってんでしょっ!? 真朱はあんたと違って女の子なのよっ!? あんっっっっな噂流されて、おもしろおかしく賭までされて、傷つかないはずないじゃない!!」
「はぃ?」
 劉輝は素で問い返した。傷つく? 真朱が? 爆笑しそうなものだが、傷つく? あの、李真朱が?
 問い返してしまった。それが秀麗の怒りにさらなる油を注ぐ。
「――なによ」
「や、その……私見なのだが……だから、その……」
「だから、なによ」
 絶対零度の半眼で睨まれて、劉輝は身を竦める。
「で、ですから!? 真朱はそのっ! 女の子扱いのほうが傷つくのではないかと愚考いたしますデス!!」
 ついに敬語となった。使ったことがないから妙なのはご愛敬だが、その愛嬌ににこりともせず秀麗は眉を釣り上げた。
「真朱自身は確かにそうかもしれないけどっ! だからっておもしろおかしく囃し立てる奴らはそうは思わないし、真朱を知る人はそっちの方が傷つくなんて気を使うし、じゃあどこの誰がこの噂に収拾つけんのよっ!? 信っじらんない無神経っ! ここは真朱をよく知る人が事態の収拾に奔走するべきところでしょーがっ!! それが結果的に盛大な女の子扱いとなろーとも、自分のために何かをしてくれた人を、恨んだり、それで傷ついたりする娘じゃないじゃないの!!」
 たとえ、それが裏目に出ても、余計なお世話でも、その心に真朱はきっとありがとうと言う。そういう、当たり前で、当たり前だから見落としがちな大切なことをちゃんと出来る人だ。
 それを、この男共はどいつもこいつもっ。
「あ……う、確かに」
 多分、劉輝の推測は正しく、ドンピシャリで、真朱本人は床を叩いて爆笑したあげく全く気にしてなかろう。その上彼女は情報操作に長けているので、己の手でどうとでも出来る――噂を耳にしてから今まで、そう高を括っていたが、爆笑してさして気にしないと言うことは彼女自身は何ら対策をとらない。おそらく放置。それは消極的な是認ととられるのが世の常だ。
 彼女を慕わしく思うなら、慕わしく思うからこそ下世話な噂が不愉快であれば、裏目にでても、余計なお世話でも、むしろ傷つけるかもしれないけど、彼女をよく知る人こそが動くべきだと秀麗は思う。それを男共と来たらどいつもこいつも――。
「意気地がないのよっ!! ホントにタマついてんのかしらっ!?」
「秀麗ーーーーーーっ!!??」
 恋する青年脳が追いつかない。追いつかないっ。削除が追いつかない。変換で対応しよう――劉輝の意気地なしっ――うんこれだ。これが良い…………これはイイ。
「ちょっと何惚けてんの」
「おっとすまぬ。ちょっと夢見てた」
「目を開けたまま寝ないでちょうだい」
「いや、今まさに目が覚めた気分だ。開眼」
「だから、目を開けたまま寝ないでちょうだいっ!!」
「ち、違う! そうじゃなくて――真朱が気にしてないということは、確かに動かぬ理由にはならぬと思ったのだ! 何故か余も当事者のようだし……しかし、解せぬ」
 耳障りな警笛が蘇る。
 厳かですらあった、藍龍蓮の独り言。
「なにがよ」
「や、その……真朱は。真朱なら、己は気にせずとも、己を大切に思ってくれている人が不快になるのなら、その噂を消すと思う。そもそも、そんな隙は作らないと、思う。噂を耳にいたらツルッ禿るまで心配し尽くす過保護な兄を筆頭に、秀麗だって、余だって、心配する……してる」



 ――そなたは、そなたにとって唯一の大切な者を、他ならぬ彼女の手によりその手元から永遠に失うだろう。



 蘇り、夜毎劉輝を苛むのだ。
 秀麗の言うとおりだ。劉輝は意気地がなかった。
 真朱に問い――その肯定も、否定も怖かった。彼女は嘘をつかない。アッサリと頷かれたら、劉輝は彼女と戦うのだろう。劉輝にとって唯一の、大切な誰かを守るために。
 彼女が否定しても―――違う。わかってる。もうちゃんとわかっている―――彼女は問えば、嘘をつかない彼女は……頷くのだ(、、、、)
 怖くて、あの夜から彼女を避けていた。その結果、自分チの噂も知らない便器以下のダメ主が厠にいる。

 噂が流れている。

 そんな噂が流れる隙を作らないだろう彼女が隙を作った。その噂をすぐさま消火してのけるだろう彼女が、床を叩いて爆笑しながら何もしない。
 秀麗の言うとおり、事実無根だろうと事実有根だろうと、そんな噂が流れたこと自体が問題で、証拠なのだ。
 真朱はもう、心配してくれるだろう人を―――切り捨てている。

 譲れない願いのために。

「……絳攸はこの噂、知っているのだろうか」
 ガショ。
 劉輝が思い悩み始めたので放っておき熱心に便器を磨いていた秀麗の手が止まる。
「――秀麗?」
「あ、あー。そ、そうね。どっかの誰かと違って……絳攸さまは―――知ってるんじゃないかしらとか思ったり思わなかったりどうかしらオホホ」
 いつも滑舌のよい秀麗の歯切れが悪い。どもったと思ったら完全無欠のお嬢様微笑を浮かべ、明後日の方角を向いてあそこに梅を飾りましょうそうしましょうと続ける。
 あからさまに話を逸らした。
「絳攸と真朱になにかあったのか?」
「何ノコトカシラ。ネェ劉輝。アソコニ梅ヲ飾ロウト思ウノ。ドウカシラ」
「秀麗っ!!」

 甘かった。
 彼女は頷くだろうと、もうわかっていた。わかっていたつもりで、それでも劉輝はまだ信じていた――真朱が、絳攸の手を振り払うことだけはなかろうと――信じたくて、信じていた。

 彼らはいつまでたっても手を繋いでいるだろうと、祈ってすらいたのだと思い知る。




********************




「本日の夕飯―――っ!!」
 裳裾が翻り、小さな足が宙を掻く。チラリと白い太股が覗く。

 ブチ

 小さく可憐な見た目の少女の足裏で、一つの命が終わりを告げた。終わりを告げたのに、彼女はタシタシと二度ばかり足踏みをした。つまりだめ押しでさらに踏んだ。そして足をどける。
「夕餉は唐揚げにいたしましょう。心優しいワタクシは、お邪魔虫なせぇがにもご相伴にあずからせて差し上げますのだから食え。大丈夫。きっと海老みたいなものですわ。きっとおいしい。だから食え」
「その、今お前の足裏で絶命した蠍をか?」
 わかっていてなお、清雅は問わずにはいられない。
「毒性の弱い蠍ですもの。とある地方では食用ですのよ――逝けますわ」
「勝手に逝け。俺は食わん。毒性云々以前に、踏んだろ。今、踏んだだろう」
「踏まなきゃ刺されちゃいますわ。痛いじゃありませんの。踏めばご飯です」
「その神経が心底理解できない。したくもないが」
「だったらさっさと失せやがれですわ。意気地のない男ですこと」
 真朱はホホホとほほえんで、絶命した蠍を摘んでなんかの駕籠に入れた。本気で夕餉にするつもりなのか。どうでもいい。絶対に食べないからどうでもいい。
「しかし、蟲だらけだな」
「蟲毒とは一種の使い魔でもありますからね。キーちゃんがいなくなったのは、術者にはわかるのでしょう」
「術者は特定できているのか」
 十中八九、後宮に住まう放蟲の家系。その末。
「ホホホ。学習しない男ですわね。教える義理がありまして? 唐揚げ食べたら考えなくもないですわよ。食べます?」
 清雅の右足が翻る。こちらにお色気(?)サービスはない。
 ブチ。
「こいつも揚げたら食えるのか?」
「百足はちょっと、堅そうですわね――逝ってみます?」
「だから勝手に逝け。俺は食わん」
「ツマラナイ男ですこと――ほんと、ムカつくのですわ」
 小柄な真朱の足が短いばかりに、またコレだ。コレを借りとカウントする己の矜持がいい加減真朱は面倒くさい。
 面倒くさいが、こいつに借りを作るのは、百足を食べるよりイヤだ。真朱とて、命が懸かっていないのなら虫は食べたくないのである。ホントだよ。食べたくないよ? 食べられるけど。
「内朝の者の素性はすべからず、一年かけて洗ってありますわ。当たり前でしょう」
 後宮は素性を伏す。バレバレなのは李真朱だけである。もとより隠す気がなかっただけだが。
 文化は社会が作る。社会は人が作る。人が社会を作るのは、婚姻を結び、家族ができるからだ。家族と家族が集まって、社会が形成されていく。すなわち婚姻は文化である。
 つまり真朱の独壇場。本領発揮。現地調査万歳。嬉々として洗った。超楽しかった。個人情報保護? 概念がありません。
 真朱は清雅がエセ侍官だと一発で見抜いたのは、大言壮語でも何でもなく、全員漏れなく研究対象だったからだ。覚えようとして覚えたのではなく、研究中に覚えていった。一人残らず、漏れなく全員だ。
「――ふぅん」
 おざなりな相づちのさなか、清雅は毒蜘蛛を潰す。真朱は舌打ちをする。
「特定できているのなら、なぜ、対処しない」
「こうして対処してますでしょう」
 毒蜘蛛の対価に答え、真朱は二匹の蠍を踏む。
「コレが対処だと? 笑わせる。ただのイタチゴッコだろうに。術者本人をなぜ放置する。そして蠍だけ駕篭に回収すんなっ!!」
 清雅も負けじと蠍を屠り、こちらは真朱が回収できないようにさらに蹴り飛ばす。
「確かに鬱陶しいですわね」
 呟き、真朱は水差しの水をぶちまけた。
「あなたが一匹仕留める度に答えていたら割に合いませんわ」
 床にぶちまけた水を足で引き円を描く。超簡単な結界だ。水は川を見立て、川とは国すら隔てる境界である。生死すら区別する、その川は三途の川という。見立ては呪術の基本中の基本だ。
 邪なモノは水を渡れない。線を引くという行為と、川を模した水が彼岸と此岸を形成する。コッチとアッチと区切る。通れないから区切られる。区切られたからアッチとコッチ。それが結界である。それを承知していれば、小難しい呪文とかなくてもどーにかなるもんだ。
「……出来るんなら、早くやれ」
「あなたが巻き込まれたら、ワタクシが楽しいじゃありませんの」
「……で?」
 最後の蠍の対価が残っている。
 真朱はため息をついた。
「術者本人を対処と言われましても、ねぇ。やられたらやり返すなんて、不様じゃありませんか。同じ土俵で喧嘩なんてしませんのワタクシ。ねぇ――ワタクシが墜ちてやる必要はございません。ワタクシを相手取りたいのなら、向こうがこちらまで這い上がってきませんと、ね?」
 むちゃくちゃ上から目線だった
「イタチゴッコも十分不様だぜ」
「それはあなたへの嫌がらせにすぎません」
 それはそれで最悪だと清雅は思う。イイ度胸だ。
「ちょっと特殊な家に生まれたからってバカの一つ覚えで虫虫虫、蟲!! ワタクシ、もうとうに飽きてますのよ」
 少女の手のひらの上の、まだ見ぬ誰かに、真朱は嫣然と微笑んだ。






(ぴんぴんしてた兄、予想よりヘコまない妹。シリアスにならないね不思議だね)




モドル ▽   △ ツギ ▽





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