晴れ渡った昊は青く、どこまでも青く、深く――溺れそうなほど青かった。



 姪のため、ただ姪のため姪のため。奉天殿へと向かう回廊でふと、紅黎深は足を止めた。
「そういえば、絳攸」
「なんですか」
「ついに真朱にフラれたそうだね」

 ゴスッ。

 絳攸は柱にぶつかった。イイ音がした。
「……………………藪から棒に、何ですか一体」
「だからついに真朱がブチ切れて"ウッザーイまじうざーいもーヤダもー耐えらんねぇッ!"とブチ撒けてついに絶縁されたんだろう? ついに」
「ついにツイニって何ですか。事実無根です」
 真正面から柱に突撃した割に、絳攸は冷静に返した。
「なんでもなにも"ついに"だろう? アレもよく辛抱したものだ。私の予想より保った。わずかとはいえ私の予想を覆すとはなかなかだな。まぁアレのことだ――我慢しているうちにだんだん気持ちヨクなってずるずると機会を逸し続けたんだろう」
 ……わーありそう。
 絳攸は心中で黎深に同意した。
「いえ。ですから事実無根です。言うに事欠いてフラれたって何ですか一体」
「お前ときたら、真朱が目も見えず耳も聞こえず立ても歩けもしなかった頃と変わらずに、手を引いては巻き添え喰わせて迷子になるし、縦のものを横にもさせぬ上げ膳据え膳なのに絶ッ妙〜に痒いところに手が届かないという世話焼きっぷりをついに絶縁されるまで貫き通したな。最早嫌がらせだろうに」
 グサっと何かが絳攸に突き刺さった。
「そこじゃないそうじゃないカユい痒いと悶えながら、それもまただんだんキモチヨクなって甘んじていたアレも相当変態だが、その変態をして限界突破か。絳攸、いっそ見事だ」
 グサグサ。
「なるべくしてなったというかフラれるべくしてフラれたとしか言いようがない。仕方あるまい次ガンバレ」
「次ってなんですか――っ!! というか何度でも言いますが事実無根ですっ!!」
 なんか突き刺さったまま絳攸は叫んだ。
「絳攸――未練がましい男は嫌われるぞ」
 黎深にしてはまっとうなことを言う。ありえない。
「ですからっ!! 事実無根! フラれてません!!」
「………絳攸」
「なんですかそのかわいそうなぺんぺん草を見る目はっ!? ほんっとやめてくださいフラれてませんっ――始まってもいないのに終わってたまるかっっっっ!!!
 扇の下で黎深は瞠目した。



 確かに。



 黎深はゆるゆると目を閉じて、ぽん、ぽん、と絳攸の肩を叩いた。
「え――はっ!?」
 そして固まる絳攸を取り残して、秀麗を遠目で眺めるためだけに奉天殿へいそいそと向かう。
 置き去りにされた絳攸は、呆然と黎深に二度叩かれた肩に触れる。
 ゆったりと、なでるように、押しつけるように、二度、軽く叩かれた右肩。
 もしや。
 まさか。
 いやだがしかし。

励まされたーーーっ!!??

 絳攸は真っ白になった。




********************




へーちょ
「…………」
「へーちょ……またですか。誰かが噂でもしているのでしょうか」
 くすんと可愛らしく鼻を鳴らして真朱がぼやき、そのぼやきを聞きつけた、真朱の室を家捜し中の清雅は戦慄した。
「…………今のが、くしゃみだと!?」
 果てしなくどうでもイイ驚愕だった。
「オホホ。へくち、くっちん、くちゅん、とかそーゆーくしゃみ死んでもいやですのワタクシ。だからといってブェックショーーーイコンチクショウっというのも、この可憐な見た目にそぐわないではありませんの。考えに考えたあげく、訳の分からない"大阪式くしゃみ"にたどり着いたのですわ」

 あ○まんが大王。

 当然元ネタを知らない清雅としては、考えに考えた挙げ句ワケのわからないくしゃみにたどり着いたアホにしか見えない。
 そしてその認識は、誤解もクソもなく正しい。
「バカすぎる……」
「ワタクシ、いつでもどこでも大真面目でしてよ」
「だからこそだ」
 というかバカらしいが、これも真朱の嫌がらせの一端だろう。家主の了解も得ず、清雅は真朱の室をひっくり返している。真朱は了解していないが制止もしない。勝手にやってろと放置しているから消極的許可ともいえる。
 そして勝手にやってると、出るわ出るわ出るわ、呪いと毒と嫌がらせと罠の宝庫であった。
 子供じみた嫌がらせから、致死性の毒物を仕掛けられた罠まで盛りだくさん。清雅をハメるために真朱本人が仕掛ける時間はなかったので、これはすべて、宮女が真朱を陥れるために仕掛けたものだろう。
 嫌がらせはともかく、解除に神経を使う本格的な罠をいじっている最中に"へーちょ"。
 くだらないのに手元が狂いそうになった。
 こんなものに引っかかって死んだら死んでも死に切れない。鉄面皮の上司が清雅の死体を指をさして爆笑しかねない死に様だ。最悪だ。
 真朱は表面上清雅なんてどうでもイイという姿勢を崩さずに、謎の言語を駆使して、時折図を書き、何かの資料をまとめているような風情だ。
 清雅は罠の解除を終え、箪笥の引き出しをひっくり返す――と、下着が出てきた。
「…………」
 心底触りたくない。
 だが、下着の中になにか大切な物を隠しているかもしれない。かなりやりかねない。
 ふと真朱を振り返ると、彼女は顔色一つ変えずに熱心に手元を動かしている。顔も上げないし、目もろくに見えていないはずだが、清雅がなにをしているのかわかっていないはずもない。さきほどのヘンなくしゃみの最中は手元も見ずに文字を書いていた。見えてなくても日常生活に支障がないということは、彼女は手元の作業くらいなら、そのわずかな視力さえ必要としていないのだ。
 ともかく、出会ったばかりの男に己の下着を漁られても顔色一つ変えていない。これを手にしたとたん悲鳴を上げるくらいはやりかねないが、それはあくまで清雅を陥れるための悲鳴であって、出会ったばかりの男に己の下着を触られる嫌悪感からではなかろう。
「おい」
「なんでしょう? あ、洗ってあるから清潔ですわよ」
「んなこと聞いてない!」
「じゃあなんですの。ワタクシ忙しいんですのよ。あなたがソレを触ったところで悲鳴を上げる暇もございませんわ。というか、その程度の嫌がらせ、つまらないじゃありませんの――ワタクシが」
 あっそう。
「……そうだな。お前、俺がおもむろにこの下着を頭から被ったらどうすんだ」
「ふぐっ――」
 さすがの真朱も噴いた。
「な、なっ!?」
「……へーえ。ふーん」
 ニヤニヤと笑う清雅に、すぐさま真朱が苦虫をかみつぶしたような顔をした。毒虫(呪)をかみつぶして燕下した彼女がだ。
 一瞬だが、真朱の顔に浮かんだ驚嘆、信じ難いと目を見開き、口元は微妙に笑い出しそうだったが、片方はひきつっていた。
 その表情だけで、清雅は己に似た"誰か"の情報を引き出したのだ。それを悟り、真朱はしかめっ面になる。
「あまりにも似ていたら、自然、先入観が強固になるからな」
「よけいなお世話です! ちなみに、あなたほど性格は悪くなかったですわよっ!! たぶん
 たぶん、はあまりにも小声だった。自信がないらしい。思い出が美化されているのを鑑みると、かなり性格が悪い男と見た。むしろ"たぶん"は真朱の願望だ。
 その"男"は、まかり間違ってもおもむろに下着を被るような男ではなく、まかり間違って己の下着を頭から被られてもやはり彼女に嫌悪がない程度には親しく――つまり相当だ――むしろ爆笑しそうになりつつも、情けなさに泣きそうになっていた。身内の不始末を嘆くのによく似ている。
 彼女の身辺を思えば、該当しそうな男はせいぜい兄の絳攸しかいない。だが言うまでもなく清雅と絳攸は似ても似つかない。似ていてたまるか、あんな男に。 「……誰だ、ほんとうに」
「だから、無駄だといっているじゃありませんの。あぁ、無駄ではありませんでしたね。ワタクシが、至極不愉快ですもの」
 そして"男"の生存の確率がきわめて低いのも、最初からわかっていたことだ。だが、その一言を告げれば清雅はさっさと探るのをやめるのに、彼女は決してその一言を言わないのだ。
 なぜか。
 そこに、手がかりがある。
「退屈しなくて結構だな」
「ほんっと目障りな男ですわねっ!!」
 真朱は苛立たしげに吐き捨てて、興奮を落ち着けるように細く長く息を吐き、本格的に清雅を意識の外へ追い出した。
 顔を上げると、窓の向こうによく晴れた昊がある。
 視力に言及すれば、真朱の視界に色彩はない。彼女の世界の色彩は、見るものではなく感じるものだ――温度といっても差し支えはない。直射日光の下に白い紙と黒い紙を置いておけば、摂氏で二十度は差ができるものだ。黒は吸収、白は反射。寒色と暖色では心理的な体感温度が鮮明だ。そういう世界で生きているからこそ、冬、寒くなりすぎると感度が狂い、世界の認識自体が狂い、すりすり虫が誕生する。
 真朱は放射熱で色彩を判断しているのだが、そんなこと清雅に教える義理はない。
「きれいな、青空ですわね」
 絳攸が誇らしげに、新進士式へ向かったあの日と、よく似ている。
 その後の酒宴で追っかけ回されて涙目でヒーヒー逃げていたのも、真朱はよく覚えている。
 忘れてないし、忘れないだろう。




 真朱は、絳攸の顔立ちさえ、知らないけれど。




「だから、見えてないだろうに」
 感傷ぶった切る清雅の存在に、今この瞬間真朱はほんのちょっっっっっとだけ感謝した。
 そしてすぅっと息を吸う――悲鳴を上げるために
 罠は二段構えが基本である。



********************



 針のむしろの進士式を終え、終始うつむかなかった自分をちょっとだけ誉めてあげたい。始まったばかりで、うつむいてなんていられない。
 街の人たちの豹変した態度に深く傷つきつつ、秀麗は文字通り道草を食っていた影月を拾い家路についた。買い物は簡単に済ませた。今日は楸瑛と絳攸がご飯を食べにやってくる予定だから、食材は困らない。むしろ豪華な日だ。
 いい素材を使って、身に付いた菜の腕でもって、おいしいご飯を作るのだ。おいしいご飯を食べさえすれば、人間、大抵のことは耐えられるし明日の活力も得られる。秋口一時的に軽くヤバかった秀麗だが、真朱式美容法の活用で元に戻った。元に戻ったばかりか太りにくくなった。真朱には足を向けて寝られない。
 今日はたくさんご飯を食べようと心に決める。
「な、なんか? 絳攸さまちょっと顔色が悪くありませんか?」
「あぁ秀麗殿。触れてあげないで」
「だから違うっ!!」
 絳攸の顔色の悪さは楸瑛の懸念とは見当違いの方向で、朝方、黎深に心から励まされたことに起因する。
 天変地異を警戒しているのだ。警戒せざるを得ない――が、ハッ気づいて思い直す。
「天変地異を警戒する前に、あの人に励まされた己を見つめ直すべきなのか――!?」
「絳攸……大丈夫だよ。そのままの君が好きだという女人がきっと現れるから。実際かなりイイ線いってるんだよ。今回ばかりは相手が悪かったとしか……」
「だから、何故どいつもこいつも沈痛な面もちで励ましてくるんだっ!?」
 絳攸は心底ソレが理解できない。
 なのに楸瑛は生あたたかい目で絳攸を包み込む。気色悪い。
「な、何かあったんですか?」
「あぁ――実はね。絳攸がついに真朱殿にフラれたんだよ」
 目撃者楸瑛は、修羅場時の絳攸の対応に思うところがありすぎる。逡巡もせず隠さず暴露してのけた。
「だから、何故、どいつもこいつも"ついに"! "フラれた"と言うんだっ!?」
 絳攸は心底ソレが理解できないのだが、楸瑛のみならず、邵可、秀麗、静蘭、影月まで――つまり漏れなく全員――が生あたたかい視線で絳攸を包み込み、押し黙る羽目になる。
「わ、私!! キクラゲの炒め物作ってきますね!! 絳攸さま好物ですよねっ!?」
 おいしいご飯を食べるのだ。うん食べるのだ。秀麗は意気込んで立ち上がる。
「好物というか。アレは真朱が自分が苦手だからと言って俺に食べさせるんだが」
 ……秀麗は意気消沈して座り込んだ。
「い、いや!? 普通に俺は好きだぞ!? キクラゲ!!」
「絳攸殿……実は秀麗と影月君の及第祝いにいいお酒を用意していてね」
「ええぇっ!? 僕、お酒は飲めません! 飲めませんのでっ!! だからどうぞ僕の分まで是非っ!!!」
 そして出来た家人であるところの静蘭が無言で杯を用意した。秀麗は今度こそと肴を作るために立ち上がる。
「……………………っ」
 すさまじい連携でよってたかって励まされ、絳攸は勧められるがままに酒を飲まざるを得なかった。


 絳攸にとってはむしろ"アレ"で前進でしかないのだが――あの時はよってたかって心から励まされさすがに落ち込んだと後に語る。






(心から同情されることで、逆に落ち込むコトってよくあるよね)




モドル ▽   △ ツギ ▽





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