「名は」 暑いわけでもないのにはたはたと揺れる扇。 簡潔かつ事務的に、いとも素っ気なく"どーでもいーけど名前を知らないと不便だから仕方なく訊いてやった"という姿勢をあくまで崩さない割に、不自然に黙り込んだ幼女をちろちろとせわしなく見下ろしている。 血の気の失せた唇がほんの少し、戦慄く。答えようとして声にならず、結局幼女はゆるゆると首を横に振った。 紅黎深は奇跡的に辛抱強く幼女の返答を待った。 しかし幼女は答えない。 緊張した沈黙が場を支配したが、その空気は主に辛抱たまらなくなった黎深のトゲトゲしさの発露であり、幼女の方は体調から意識を保っているのが困難だったため、待テでうずうずしている黎深を後目にすでに何も考えずボヘーっとしていた。 ぼへー。 「えぇい! 名無しなのか己の名を知らぬのか名乗ることも出来んのか名乗ることが出来んのか!」 奇跡は短かった。 「…………そーそー。きっとたぶん」 か細く幼女は声を絞る。そしてまた黙り込み、黎深はそわそわする。 そわそわ、そわ。 「し―――仕方あるまい致し方あるいまい。名無しの小娘其の一と呼び続けるのも煩わしいから仕方なく致し方なくこの私が名付けてやろう」 超恩着せがましくノンブレスで言い放った黎深が、夜中こそこそ蝋燭の火の下で辞書を引き画数を数えごそごそしているのを目撃した幼女フォーリンラブ。まっしぐら。正確には真っ逆様。奈落と書いて黎深と読む。 "目を離したら今にも死にそうだからこの私が直々見張っておいてやろう"とかなんとかいって自室にお持ち帰りされたあたりからですでにリアルツンデレに意識朦朧と萌え萌えしていたのだが、不器用ながら看病しようとしたのだろうがむしろ息の根止められそうになること数回。三回目の臨死体験あたりでもうたまらなくなった。だがとりあえずタオルはちゃんと絞れ、で、顔にかけんな額に置けよ。とは何とか生き延びた李真朱の談。ドMの片鱗が伺える。 あのとき、胸を張って名乗れなかった。 今は名乗るごとに、名乗るだけで背筋が伸びる。 その名には、そんな力が宿っている。 ******************** 李真朱―――吏部尚書紅黎深の養女。兄、吏部侍郎李絳攸。女官。後宮での通称"蛇姫"。 花街においては"鰻姫"とか。どうあってもヌルニョロらしい。どんな姫だ。 小柄な細身。一見発育不良であるのに何故か胸と尻はある。不条理。 常に不機嫌そうな顔をした美人だが顔立ちに特徴はない。強いて言えば死んだ魚のような目をしている。つまり瞳孔が拡散気味―――目が、悪いのだ。 全盲ではなかろうが、ろくに見えていないはずだ。常に不機嫌なのではなく、常に眉を寄せ目を凝らしている。そうでなくては焦点を結ぶことすら難しいのだろう。だからこそ全盲ではない。 眼鏡は高価な品だが、彼女にそれが手に入らない訳がない。それを使用しないのは、凹凸鏡で矯正してもろくに見えないのか、矯正すら出来ない視力なのかのどちらかだ。 会試中、女の身でありながら巡り巡って受験者の監督役を務め、その際、騒音公害"龍笛"に眉一つ動かさず藍龍蓮を叱責したと聞くから、耳もどこかおかしい可能性が高い。 無事役目をつとめあげたというのに、任命自体があまりにも道理に通らぬから、当然、礼部での評判は惨憺たる有様だが、今年の受験者からは天女のごとく崇められている。これは蛇足。 なんにせよ、うっかり蝋燭もつけずに真夜中の真っ暗闇を昼間同様スタコラ歩いたりしているし、耳元でささやかれた熱烈な口説き文句を綺麗サッパリ無視したりもする。後者は性格の可能性が高いようにも思えるが、聞こえていないという可能性もあるにはある。あるにはあるが見ていて思うに絶対に性格だ。 別段隠しているわけでもないのに人にそうと悟られず、人並みにさしたる不自由もなく行動しているのは驚嘆に値する―――が、これも蛇足にすぎない。 噂など噂でしかない。 しかし、噂が流れるにはそれなりの土壌がある。流言飛語を真に受けるのは論外だが、何故、そんな噂が流れたのか。それは把握しておく必要があった―――まぁ、それさえ把握していれば、どう転ぼうと毒にも薬にもならない類の些事であるが。 些事。 王付きの女官の妊娠疑惑。その父親は、王、藍家のボンボン、紅家当主と豪華絢爛でいっそ馬鹿馬鹿しい。賭まで始まっており、羽羽が泣いていた。あのちっこいフワモコが背中を丸めてシクシク泣いていた。李真朱はシクシクスンスン泣く老人にすべてをかなぐり捨てて土下座していた。あれは土下座するしかない。 だから、王ではない。そもそも妊娠が事実ではない。 だが、その馬鹿馬鹿しい噂のせいで、後宮の勢力図が刻々と変化している。昨日までの情報がすでに古い。 折しも彼は、ほしくもない休暇を与えられており、外朝で仕事すんなとまで言われていたので、仕方なく侍官に扮して内朝にいる。 そして噂の"蛇姫"とやらを遠目に観察し、上記のツマラナイ情報を得たというわけだ。まぁいつかなにかしかの役に立つこともあるかもしれないかもしれないかもしれないとでも思わなくてはやってられん。外朝は外朝で史上初の女進士がどうこうと馬鹿らしい騒ぎのただ中にある。馬鹿ばかりだ。 「―――ふん」 その蛇姫が庭院を挟んだ向かい側の回廊をしずしずと歩んでいるのを冷めて眇めた目で見やる。 少女の歩みを遮るように立ちはだかる年かさの女官。目と耳がアレだろうにいかにしてかそれを察し、蛇姫はきちんと足を止めて女に一礼した。 そして礼儀正しく避けて通った李真朱の頬に、女は唾を吐いた。 文字通り唾棄された蛇姫に、クスクスと密やかな嘲笑が沸く。なんとくだらない。 その嘲りを縫うように、少女は一瞬たりとも足を止めず。 俯きもせず。 頬にこびりついた唾液を、拭うことすらせず。 ただ、歩き去った。 シンと嘲笑が消え、まるで見送るかのように、その小さな背に視線が追いすがる。 無視。これ以上ない、完全無欠の無反応。表情も、腕も、ぴくりとも小揺るぎもせず、反射すらない。 静まり返ったまま、徐々に唾棄した女にこそ視線が集まる。天に唾棄したようなもの。屈辱と羞恥に赤面し、女は逃げるようにその場を走り去った。 無視無反応。 たったそれだけ。 なにもしていない。 顔に向かって飛んでくるものに反射すらしないことで、下がった品位は唾棄された側ではないと周囲に知らしめた。 無言の、小さな背。 「へぇ」 面白い戦い方だ。笑えるほど彼女は無力で、しかし完勝。何もせずに。 回廊を折り、こちら側にやってきた少女は相変わらず頬に唾を付けたまま、知らん顔の澄まし顔で、派手なわけでもないのに人の視線を集める奇妙な磁力を放ち人の足を止め、その間隙を滑べる。 来る。 すれ違いざま、気が向いた彼は手巾を少女に差し出した。 やはりどうやって知覚してのけたのか、少女は歩みを止める。 「どうぞお使いください」 少女は怪訝な顔をして、当然だが、受け取らない。 「……見ない顔の侍官ですね」 顔。顔ときた。失笑を堪える。 「お見事でしたよ。もう頬を拭ってもよろしいでしょう」 「だから、誰だよテメェ」 口が悪いとは聞いていたがこれはひどい。 「ですから、侍官です。見ない顔でも。まさかすべての侍官の顔をご存じなのですか?」 「そう言ってンだろ」 すべての侍官の顔を記憶していると。うそか誠か大言壮語か。 「―――見えてもいないのに?」 少女はうっすらと微笑んで、謎の侍官から距離を取った。 否定はない。 「噂を探りにきた物見高いどこぞの暇人か。探るような謎なんてなかったんじゃねーの? 無駄足ご苦労」 その通り。取るに足らないことばかり。 彼女に探られて痛む腹はない。 「まぁ、暇つぶしだしな。わからなかったのは、あんたの知覚方法くらいだ」 この粗野な男のような口調を相手して敬語を使うのも馬鹿らしい。早々に切り捨てた。そもそも尊敬していない。 「わー。どうでもいい謎。だがわざわざ教えてやる義理はねぇよな」 ひんやりとした微笑に弧を描いていた眉が、ぎゅっと寄る。 青年は手を伸ばし、少女を抱き寄せ―――その鼻先を拳大の石が空気を切り裂く。 ガツッと柱を傷つけて、空飛ぶ凶器が地に落ちた。 「唾を吐くは腹いせに石を投げるはガキかあの女。ろくな女がいないな」 さすが昏君の後宮。お似合いだ。 「………………」 ろくでもない女の筆頭ともいえる蛇姫が、腕の中で不満げに身じろいだ。 「死角から石が投げられても気づく―――が、回避する身体能力はない、と」 すごいようで役に立っていない。 「やかましいわ」 「なぁおい。教えてやる義理はないんだったよなぁ?」 その舌の根も乾かぬうちに思い切り借りを作ったといえる。これはそーとー恥ずかしい。 「…………」 嫌みったらしい囁きにピタリと少女はむずがるのをやめ、気まぐれな猫のようにうにゃんと鼻面を寄せ―――白粉が剥げるのも委細かまわずシャカシャカーっと青年の胸元で頬を拭った―――頬っ!!? 「このっ!!」 「―――ふふん」 ろくでもない女の唾液+白粉がべっとり。 「………………」 「………………」 「………………く」 「………………くくっ」 双方こめかみに青筋を作り、身を寄せあったまま忍び笑う。 こいつ、すっっっっげーむかつく。 忌々しくも二人の心境は同一だった。 こめかみをピックンピックンさせながら、見ず知らずの男の腕の中で真朱は顔を上げる。ぐっと顔をしかめる不機嫌な顔は、この気に食わない(お互い様)男の面を拝める気になった証。しかし青年が親切に屈んでやる云われはない。 身長差に阻まれたのか、真朱はすぐに眉を解いた。 身長差。 この距離で見えない。相当見えてない。 というかその目で何が見えているのか。 「顔。触るぞ」 「―――嗅覚じゃないのか」 まさかの触覚。庇われたのがよっぽど癪だったのか、アッサリと答えが与えられた。 「犬じゃあるめーし。ふつうよりは敏感かもしれな―――いが……?」 言葉とともに、青年の鼻筋をなぞっていた手が固まった。 「………………え?」 青ざめた。 「なに。誰? ホント誰だお前っ!!??」 「は? なんだ。あまりの美形ぶりに俺に惚れたか?」 なぞる。 なんどもなんども、認めたくないと言わんばかりに青年の顔をなぞる、震える白い手。 好きにさせていたら、だらりと力なくその手が垂れた。 「ふ―――はは。マジかよ。洒落になんねぇ……最悪っ」 じわじわと、じわじわと少女から立ち上る。においたつような、これは。 悪意。 「俺の顔が、すさまじく気に入らないようで重畳」 「はは。はっはっは。いやいやいや。顔ね。顔は好き。すっごく好き。懐かしくて愛してる。だからテメェが気にくわねぇやってそんだけ。じゃあな」 「まぁ待て。ただの暇つぶしでどうでもいい興味だ。誰に似てたんだ?」 「待たねぇ。ただの暇つぶしでどうでもいい興味で殺されたいのかテメェは。殺意がわいてどうしようもないんだよ。どぉしよー。シネ、死ね死ね今すぐ死ね―――離せっ」 おもしろ半分嫌がらせ全部で軽く捕まれただけの手が、少女にはふりほどけない。 それに、青ざめるのを通り越し、白くなるほどに憤る。 捕まえた、傷のある左手首。 そこから伝わる、滴る悪意。悪意。圧倒的な悪意。 殺意じゃ足りない。殺したところで飽き足らないと告げる、一片の躊躇いのない悪意だ。 「―――面白い」 「あぁん!?」 「いーい暇つぶしを見つけたぜ。今まで暇つぶしにもならなかったんだが、これは単純に"面白い"」 ほとんど出会い頭。 最初から気に食わなかったのはお互い様だが、縁もゆかりもない、利もなく故もなく、誰かに似ている顔立ちだけでここまで他人を憎める人間に、目の前の少女に、彼はようやく興味を持った。 「なぁ、誰に似てるんだよ」 「どーでもよくね? いやマジで。つか教えるとでも?」 「いいや? 突き止めてやるよ」 「無駄だね―――誰も知らない。誰も」 だれも。 「よっぽど似てるんだろう? そいつ、骨の髄まで利用してやるから俺にバラすと自動的に地獄に堕ちる。お手軽に復讐出来るぞ」 「だぁぁかぁぁぁらぁぁぁぁぁっ!! 来んなっ!! 付いてくんなぁっっ!! つぅかその面でその声でなんたる事をっ!! 俺の思い出を自動的にぶち壊してくれてるわっ!! 消えろ失せろテメェこそ地獄に堕ちろっっ」 「逃がすか暇つぶし」 「―――にゃろぉ……」 腸が煮えくり返る。沸き立つごとにあふれる悪意に青年は面白そうに笑う。興味半分面白全部の暇つぶし。 煩わしい。憎い。悔しい。腸が、煮えくり返る。こんな不躾な腕を、振り払えない、己の細腕がっ。 これだけの悪意を真正面から浴びて、それでも身の危険なんてまるで感じないのだ。なんで、なんで。こんなにも非力。 ―――いつも薄暗い視界が、遠近のトチ狂った耳が、李真朱の狂った世界が、怒りのあまりカチリと音を立てて、晴れ渡った。 「よろしい。ワタクシはド暇なあなたとちがって多忙なのですけれど。ちょうど生きた肉の盾があったら便利だよね使い捨ての。って思ってたところでしたの。てか今思いましたの今まさに。あなたの暇つぶしにつき合って差し上げます。どーせ無駄ですけど、探れるものなら探ってごらんなさいな」 「許可なんかいらないがな。その細腕で、なにが出来るという」 「ふっ」 晴れた視界、目眩がする。笑う。 あぁ同感。忌々しくも同感だ。いつだって己が己に問いかける。 その細腕で、この細腕で、何が出来る。 「その顔その声で、よくぞ言ってくれました。其方、名は何という」 鏡の向こうにあった、その顔その姿、その声でよくぞ。よくぞよくぞその顔その姿その声で!!!! 「まぁ清雅とでも呼んでおけ」 なにげに本名だったが、双方そんなこと果てしなくどうでもよかった。 「せぇが」 つぶやいてかみしめてこぼれて滴る悪意。とどまるところを知らない悪意。 「目に物見せてやんよ―――ねぇ、甚振って差し上げるわ。この細腕で」 「いいぜ―――出来るもんならやってみろよ」 宣言して受けてたって相対してつくづく双方疑問を抱く。 なんでこーなる? それどころじゃないんだけど、お互い全くそれどころじゃないんだけど、全身全霊全力前進で嫌がらせ戦争勃発。火蓋は切って落とされた。 なんでだ。 一目会ったその日から、憎悪の花咲くこともあるという、運命の出会いだった。 (紫宮編まさかの相棒決定。おめでとーございマス) |