正直、あの時、何を思って、何をしたのか、真朱はほとんど記憶にない。
 覚えているのは直前と直後のこと。

 桃を剥いていた。

 そして酷く苛々していた、と思う。思い出したくないのだろう。努力しても、記憶の蓋はこれ以上持ち上がらない。
 視界が真っ赤に染まった。
 それが、吹き出した血液だったのか―――他の何かだったのか、判然としない。
 しばし記憶が途切れ、目を開けると絳攸が泣いていた。しこたま驚く。そして失血のあまりまた暗転。
 真朱はよく覚えていない。
 絳攸は覚えていないはずもない。しかし死ぬまで語りたくもなかろう。問いつめたところで、拒絶されるだろうことは想像に難くない。
 だから、再び目覚めた真朱はその傷跡から"何が起こったのか"推測するしかなかった。自分で自分を傷つけたのは確かなのだ。ほかの誰も、目の前の絳攸も、そのとき刃物を持っていなかった。
 ―――苛々しながら桃を剥いていた。右利きの真朱は、左手に桃を持ち、右手に小刀を持つ。当然、小刀は順手で握る。
 傷跡は、奇妙なものだった。どうしたら、こんな傷がつくのかさっぱりわからない。ただ、自殺痕でないのだけは一目瞭然だった。
 利き手に刃物を順手に持ち、左手首を切るのなら、そうするのなら、親指側から小指側へと真横へ引く(、、、、、、、、、、、、、、、、、)ものだ。
 傷は掌、手首の際、小指の下から深々と、前腕の内側をざっくりと長く斜めに切り裂いて走り肘に至る。とても奇妙な傷だった。
 傷跡からわかることは、これが自殺ではない、ということだけ。であれば、あとは状況から推測するしかない。

 苛々していた―――。

 何故。何故か。腹が痛かった、濡れた股が至極不快だった。気色悪かった。吐き気がする。イライラいらいら。女になった。もう否定できなかった。このまま生きていくしかなかった。あのころの体は、とうにない。きっともうない。どこにもない。どうして。どうやって。このまま。なんで。
 だるい。
 もとより貧血気味だというのに、下からダーダー垂れ流れるとはどういうことだ。女体摩訶不思議。どーにもこーにも血が足りない。おかげで思考が霞みがかって、ぐらぐらする。

 あぁ、苛々する。どうして、こんな目に。

「おい」
「なんだよまだだよ桃は剥きにくいんだ」
「そうじゃない。辛いなら休め。桃はいいから」
「―――………辛くない。だるいだけだ」
 つるりと桃が滑った。舌打ちをする。
 床に落ちて潰れる前に、絳攸が桃を救い上げた。ナイス。
 潰れなかった果実。
 だけど、何故だろう。潰れて食べられなくなればよかったのにと、思った。
 そんな内心を圧殺して、桃を受け取ろうと顔を上げる。
 酷く気遣わしげな目とかち合った。

「―――大丈夫か?」

 気遣わしげで、いたわりの籠もった、声が、いつだって眩しくて直視するのを避けていた、光が。
 潰れる前に救われた果実。
 ああ―――抉り出してこの手で、爛果の如く握り潰すことが出来たなら、それは息絶えるほどの快感に違いない。
 ―――心臓。鼓動が、煩わしい。

 眩しくて。





 人は、何のために刃物を使う?





 桃を剥いていた。
 あのとき、桃はもう、絳攸の手にあったじゃないか。

 人は、何のために刃物を

 目の前の人に

 振るうのだろう―――。



 赤い。
 あぁあの時の、視界のように赤い。昊が赤い。
 唖唖(ああ)、日が暮れる。
「違う!!」
「………違わないよ。きっと―――この件に関して、君の証言ほど、あてにならないものはない」
 絳攸にだけは守られたくなかった。そう思っていた。でも幼い頃はそうじゃなかった。むしろ守られるのが当たり前だった。手を引いて、絳攸が前を歩いて、いつもとばっちりをくって一緒に迷って、それでも迷子になるとわかっていても真朱は先を歩かなかった。歩けなかった。絳攸に手を引かれて、どこまでも行った。いつだって一緒に迷子になった。バカだ
 いつからだ。
 あれからだろう。
 あれからずっと、守られてきた。庇われてきたのだ。ありもしない、悔いることも出来ない泥を絳攸に被せた。つまりホントはわかってた。
 ―――もう、これ以上。
「これ以上、守らなくていいから―――これだけで、充分だったから、もう、庇わなくていい………いままで、ありがとう」
 やっと。
 やっといえた。
吁嗟(ああ)、長かった………」
 真朱は赤い空を仰いだ。
 左腕に、あからさまに不自然な傷を抱えて、なのにあの日まで、不思議なほど直視しなかった。考えもしなかった。思考を止めていた。
 あの日―――あの春の終わり。
 一人の少女が命を絶とうとした。
 あのころの己と、同じ年頃の少女、後宮の女官、香鈴。
 あの光景を目の当たりにして、止めていた時間が動き出した。

『俺じゃない! 俺じゃない―――っ!』

 何をあんなに必死に、無様に、叫んだのか。叫ぶ必要があったのか。
 あの光景を目の当たりにした、絳攸が、何を思い出したかなんて、一足す一より簡単な答だ。
 手首を真横に切り裂いた傷。己のものとは違う傷。
 俺じゃない、違う。俺じゃない。違う、信じて。信じて―――!!

俺が傷つけたんじゃない(、、、、、、、、、、、)

 叫んで、気づいたよ。もう、考えないわけには、いかなかった。
「俺は―――認めたくなかった。苛々して、カッとなって、たったそれだけでそれだけのことで―――よりにもよって、君を」
 他でもない君を。
「殺そうとしたなんて、認めたくなかった」
 細く、静かな声で真朱は呟いた。
 そんなことをしでかす人間だったなんて、認めたくなかった。
「遅かったのは―――俺の方だ」
 もっと早く、もっと早く言えたのだ。あの日、真朱はちゃんと気づいて、それなのにまた蓋をした。未練がましいことこの上ない。不様だ。
「なんのことだか、サッパリわからん」
 青い顔で憮然と絳攸が返す。
「そう。なら、それでいいよ。耳障りな懺悔を聞かせて悪かった」
 それでもこの傷がある限り、つまり一生、何も変わらない。
 起こったことは、終わったことだ。もし、奇跡が起きて精算することが出来たとしても、何も変わらない。
 君がわからないと言い張って自分も推測しかできないのなら、真実なんて、そんなものだ。
「だからもう、本当に、まったくもって自業自得以外のなにものでもないんだが、だけど俺は、悔しかったんだぞ」
 小さな手が、傷のある左手が、そっと絳攸の指を握った。
「君の中の俺が、いつだってかわいそうな女の子だったことが―――悔しかった」
 絳攸が愕然と目を見開く。
 否定しようとして、首がピクリとも動かない。声もでない。否定できない。
「然もあらん」
 否定できない絳攸を、真朱は愛らしく嗤った。
「君だけは信じなかった。泣いても笑っても笑っても笑っても嬉しくても喜んでも、何をしても何をしなくても、君は絶対信じなかった。あまりにも頑なだから、いつしか憎んだ。けど―――けど、なぁ、絳攸」
 最後くらい聞け。
 半信半疑でいいから、聞いて。ちゃんと聞いてくれ。
 届け。





「俺はちゃんと、幸せだったんだぞ」





 辛いことも悲しいこともたくさんあった。あるにはあった。悔しいこともたくさんあった。今も悔しい。何度か死にかけた。怪我もした。女の子、やっぱりやめたい。やめられるならいつだってやめたい面倒くさい。男の方が楽だ。いつだってそう思っている。今だってそう思っている。
 だけどそれだけじゃなかった。
「うん。総合的にみて、俺は、俺を幸せだと思う。ふとした瞬間に、そう思う。そういう瞬間がたくさんあった―――たくさん、あったんだよ」
 君のそばにいるということ。それはそういうことだった。
 その幸せを、あの日から君だけが信じなかった。あげく泣いても笑っても、笑っても笑っても笑っても、楽しくてもうれしくても嘘つき呼ばわりだ。
あぁ不毛
 実に不毛な、だけど幸いな日々だった。
「はっ―――……はは」
 気が抜けたように、絳攸が笑った。
「そうか」
「うん」
「―――そうか」
「うん」
「わかった」
「うん。やっぱり、君も遅い」
「悪かったな」
「謝んなよ立つ瀬ねぇよますます不毛」
「………そうか」
 "もういいよ、もう大丈夫"

「もういいのか」

 やっと、絳攸が笑った。
 久しく真朱も見ていなかった、幼い頃は、真朱だけが見ていた、たまらなく懐かしい笑顔だった。
 ―――ああ愛しい。
「うん」
「なら、もう、往くがいい」
「うんっ」
 握っていた絳攸の手を、胸に押し抱き、真朱はこつんとその手に額を預ける。
「大まじめに頑張ったよな、俺たち」
「あぁ」
「楽しかったよな―――?」
 反論を許さない問い。
「あぁ」
 反論する、はずもない。


 兄妹ゴッコ。


 斯くも愛しき光の庭で転げ回った日々。
 日が暮れたから、もう、かえろう。
「俺はずっと幸せだった。君だけが信じなくても、それは覆らない。今度こそ、君も信じてくれるだろう。だからもう、()は幸せなまま、いくよ―――最愛の兄(きみ)を失っすとも」
 あなたのそばにいるということ。それはとても幸せな日々だった。
 あなたのそばにいる幸せを、あなただけが信じなかった。
 だけどだからこそ、あなたが信じてくれるのならば、私はどこにいても、幸せで在るでしょう。
 ―――きっとなんだって手には入る人なのに、他の何も願わずに、あなたが祈った李真朱であるように。

「―――……昼夜を舎かず、君を想う。君がいつか、自分のためだけに生きられるように、昼も夜も希う。いつか欲しいものを、ちゃんと欲しいといえるようになれよ、バカ」

 天壌無窮に君を想う。

 手を離し顔を上げてニヤリと笑う。オットコらしく片頬をつり上げて、少女は笑んだ。
「じゃーなお兄ちゃん」
 ヒラリと手を振り踵を返す。
 背を向けて振り返らない。悠々と去りたいモノだがあまりにもこっ恥ずかしく、自然と早歩きになって小走りになって全力疾走になった。
 振り返ることも省みることもない。そんな必要はない。だって丸ごと後生大事に持ってきた。
 いつだって繋いでいた手が少しスカスカするのだが、代わりにもう、両手が使える。
 欲しがりな李真朱は己の飽くなき欲求に忠実だ。欲しいから必要なんじゃない、必要だから欲しいのだ。なにを躊躇うことがある。故に真朱はまっしぐらに駆けていく。
 
 願いへ。

****************

「―――何をしているっ!?」
 鋭い声に、絳攸は冷めた温もりの残る手からうっそりと顔を上げた。
「何って………いたのか、楸瑛
あぁ居たよ居ました居ましたとも!! カンッペキ空気だったけれどもねっ!!」
 途中からガン無視だった。なにあの二人の世界。居なきゃよかった。苦痛すぎた
「じゃないっ!! なにボー然としてるんだ君はっ!! 真朱殿を追いかけろっ!! 早くっ!!」


「何故だ?」


 心底不思議そうに問い返しやがった。
「〜〜〜〜君はそれでいいのかっ!?」
 楸瑛が妙なことを訊くと絳攸は怪訝に思う。

『痕が―――………』
 幼い声が蘇る。
 目が覚めて傷を見て一瞬で全部理解してそして声も枯れんばかりに泣け叫んだから、その声は酷く掠れていた。
『痕が残る、こんな傷。こんな酷い傷。誤魔化せない、自分すら騙せない―――っ!』
 誇り高い少女だった。
 己の中の規律に、厳然として忠実に善良であろうとする少女だ。実のところものすごく性格が悪い。だからこそ、内心がどうであろうと善良であろうと努める。
 そんな、あまりにも人間らしい少女だ。
 だが今だけは―――今だけは、その誇りが邪魔で仕方ない。誰にだって過ちはあると、言ったところで馬耳東風。彼女が彼女を許さない。
『事故だ。これは、この傷はただの事故だ』
『誰が信じるんだ、そんな与太っ』
 その誇りが、邪魔だ。その賢さが邪魔だ。よく覚えていないと言いつつ実際その通りで何故傷を一目見てすべて悟る。邪魔すぎる。
『―――俺が(、、)。他の誰でもない、俺が信じる。おまえが信じなくても俺が信じる。心から信じる』
『なんだそれ』
『事故だ事故。ただの事故。不慮の事故だ。事故の傷痕が残ったからなんだ。そのぐらいお前なら平気だろう。事故だ。だからもう泣くな叫ぶな責めるな忘れろ眠れ。そして目が覚めたら食事をしろ』
『なんだよソレ』
 小馬鹿にした笑みに乾いた唇がひきつる。
『そしてお前はただ、その俺を疑わなければいい。こんな簡単な話はないだろう』
 真朱は無言で、絳攸を凝視した。
『というわけでこれは事故だ。この傷は不慮の事故。痕が残っても当然不慮の事故の痕だ。さぁ眠れもう眠れそして起きたら食事をしろ』
 少女は、困り果てて答えに窮し、そのうち何もかもが面倒くさくなったのだろうか、小さく小さく肩をすくめた。

『事故ね。じゃ、もう考えんのやめる』

 絶え間なく思考を続けるその人が、生きるために停滞を許した。
『でも―――俺が大丈夫になるまでで、いいぞ………お休みバカ野郎。大好きだ』

 楸瑛が、妙なことを訊く。
 そんな問いに、絳攸の答えなんて一つしかない。



「これ以上、何を望むという」



 もう大丈夫。だから、終わり。
「―――馬鹿野郎がっ!!」
 常になく荒々しく楸瑛が吐き捨てる。どいつもこいつも人のことをバカ馬鹿うるさい。
 止めていた時が動き出して、あのころの心が蘇る。
 蘇った。
「あぁ―――……そうか。俺は、」
 いつも自分に手を引かれて、一緒に歩いてきた少女。
 自分が手を引かなければ、少女は一歩も動けなくて、いつしかそんな日々は通り過ぎて、彼女は一人でも何処へでも行けるのにいつまでも手を繋いで、一緒に居た。
 小さくてか弱くて、なのに神経図太くて、黎深と素で息が合うくらい性格が悪いのに、いつだって誰かに優しく善良であろうと努力して、誰にでも公平で、だけど自分にだけはちょっとだけ、特別に不公平だった。

「俺はあの子が好きだったのか」

「ぅ遅ェェェェェエエエエエェェっ!!??」
「さっきからやかましいぞ楸瑛」
「あ゛あ゛ぁ゛ぁぁぁぁ〜〜〜もう知らんっ!! 君たちはもうホント勝手にやってろーーーーっっ!!!」

   彼女の名の如く夕焼けは赤く、李兄妹は約束を全うした。







(ネクストステージ。紫宮編、やっと突入)




モドル ▽   △ ツギ ▽





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