どこまでわかってるのかサッパリわからないが、ふとした瞬間、顔を上げたら黎深と二人っきりなんて地獄の最下層のような状況に陥ったとき、義父は思い出したかのように、問う。 「帰りたいか?」 ………本当にこの人どこまでわかってて、わかってよーとわかってなかろーと、心底どうでもよさそーに問われると、此方としましては是非とも答えて差し上げなくてはとしみじみと思う己の性根は大概断崖絶壁系天邪鬼だ。 忘れた頃に忘れるなと言わんばかりに問われたら―――普段意識して考えないようにしているのに、目を逸らすなとばかりに問われたならば―――。 是非とも答えて差し上げなくてはと真摯に思っちゃうドMこと李真朱ですが何か? 極悪非道冷酷無比根性人外言動魔境ナチュラルボーン地獄主義者略して鬼畜。な義父の、こういうところが好きで好きでしょうがなくてたまらないという己の感性および嗜好はそろそろ末期だとも思う。自らひん曲がったりダレカに捻じ曲げられたりして今に至るそのスパイラルッぷり、矯正不可能な領域にすでに爪先から脳天までどっぷりと浸かっている。つまり手遅れ。 問いは同じ。一言一句たがわずに同じ。 この問いかけを李真朱に投げられるのは、彩雲国広しといえど紅黎深たった一人だ。立ち入り禁止の立て札も、不可視の有刺鉄線もものともしないから凄い。いっそ清々しくて笑みがこぼれる。その笑顔は、きっと傍目には幸せそうにはにかんでる。故に鏡は見たくない。自分で言うが気色悪い。 何度問われても答えも同じ。一言一句たがわずに同じ。 「あたりまえだろが」 幾度となく問い、幾度となく答え、何も変わらなかった十余年の、物語に差し込まれた異物、栞のような一片。 亡霊のような足取りで邵可邸から出てきた王に、静蘭は些か慌てて駆け寄った。 幼い頃、そうしていたように。 「―――劉輝?」 「あ、にうえ」 幼い頃、そうであったように―――諦念の泥沼の中で一筋の光明を見たように顔を上げた青年に、静蘭はいよいよ眉を寄せた。 「とりあえず………やるだけ、やってきました。兄上」 「何があった」 呼び方を矯正するより先に、問わずにはいられなかった。 別段、難解な用向きではなかったはずだ。 楸瑛以来、七年ぶりに藍家が送り込んできた直系。王が藍龍蓮に接触を果たすのに、会試後二日という早さは最短といえる。 七年前、末の公子であった劉輝は失敗した。何もしない、という失敗をした。動かず、動こうとしなかった末の公子に藍家は見切りをつけて楸瑛は武官に転向した。 藍龍蓮は藍家の名を背負って貴陽へやってきた。王は答えればいいだけだ………今は。動いた。それが応えだ。藍龍蓮はそれを必ず当主たちに伝える。伝えねばならない。 「主上。何があったんです?」 答えない王に、静蘭は声を低めて再度問う。 王は何かに気づいたようにようやく顔を上げ、幼く唇を尖らせた。 「―――兄上。敬語はやめてください」 「あなたが兄上と呼ぶからです」 そこはピシャリとたしなめる。 無意識だったらしい。劉輝は驚いたように口元を押さえた。 「やめますっ!!」 「よろしい。で?」 「で、とは?」 「何があった」 「いーいいいいいい言えませんっ!!」 言いたくもない、が正しい。 青褪めて即答した王に静蘭はますます眉間に皺を寄せた。眉を顰めた静蘭に王は慌てる。 「いえちょっとトアル人の名誉に関わる国政とは全く関係のない次元の奇想天外驚天動地な出来事がありまして静蘭だから言えないなんてことはなくここは奥ゆかしく人として沈黙を守るべき事柄なんじゃないかと胸に秘め―――っ!!」 「言いなさい」 「言えませ、」 「言 い な さ い」 「言いたくな、」 「言え」 「……………藍龍蓮と真朱が口付けを交わしているのを見てしまいました」 「なんだ心底どーでもいいことだな。何があったかと思えば」 無理やり聞き出しておいてそれはない。 劉輝は弾かれたように顔を上げて猛然とこの驚きを訴える。 「で、ででででででででもでもでもでも相手は真朱ですよっ!?」 「だからなんだ?」 劉輝にとってはこの一言、この人名で驚愕も恐怖も伝わるはずだと信じていたのに、静蘭は本ッ当にどうでもよさそうに呆れた溜息をついただけだった。薄っぺらい反応だ。 王は静蘭の反応にこそ愕然とした。 「彼女が清純な乙女に見えるのなら侍医に罹りなさい。どっからどう見ても海千山千の曲者だろうが」 ツワモノではなくクセモノと評したあたりが静蘭の恐るべき眼力である。 「だ、だって相手が………………………絳攸じゃないんですよ?」 ナニか夢見てんのか。劉輝はしどろもどろで抗弁する。 「その組み合わせこそあり得ない」 「えーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!??」 静蘭の断言っぷりに驚く初心者丸出しの実弟に静蘭は眩暈を覚えた。 どこを見ているんだどこを。 「なんでっ!? どーしてっ!?」 「なんでもどうでもどーでもよろしい果てしなく遥か彼方」 静蘭の反応は先にもましてペラッペラだ。 「だって、真朱は絳攸が好きで絳攸は真朱が好きじゃないですか!?」 「はぁまぁそーでしょーねー」 やる気のない相槌だったが同意を得て劉輝は俄然意気込んだ。 「それでどーして、その組み合わせがありえないんです!?」 静蘭は眩暈と頭痛に米神を揉んだ。 「お子サマ」 「―――酷ッ!!」 「あぁ馬鹿らしい。とっとと戻るぞ。こんな寒い中突っ立ったまま話すような事柄じゃないだろう馬鹿らしい」 馬鹿らしいと二度言った。二度言ったァァァァァっ!!! そうしてスタスタ先に行ってしまうから取り付く島もない。 「待ッ―――待ってあに、静蘭っ!」 慌てて追いすがり、肩越しにほんの少し振り返って小さく微笑んだ静蘭に、劉輝はホッと安堵の吐息を漏らす―――。 ―――劉輝とて百も承知だ。 個人的に、真朱は絳攸と一緒になって、彼女が後宮を辞した後もささやかなつながりを持てたら………そう、願うし、それだけじゃなくやっぱり真朱には絳攸だろうと思わずにはいられないが、静蘭の言うとおり、その組み合わせこそあり得ないとも承知している。静蘭が面倒くさくて口内で省いた"現状は――"という注釈も合わせて理解している。 いやもう現状あり得ないだろうアレ絶対。あの、みょうちきりんな兄妹は、お互いが好きで好きでしょうがないのと同じくらい、兄は妹が、妹は兄が、 大―――ッッ嫌いなのだ。 極自然に、極々自然に両人血が繋がっているわけでもないのに口をそろえて「結婚なんてアリエナーイ一瞬たりとも想像したくもアリマセーン」とのたまっているあたり嫌悪も突き抜けている。立場上、惚れた相手と添い遂げるよりも紅家が決めた相手と結ばれるだろう二人は、そこのところは識域下で承知しており、婚姻後に恋情を抱く僥倖もなきにしもあらず、しかし婚姻時に恋情が成立しているかといえばそんなもの奇跡か妄想でしかない。なんたって顔も知らない相手と結婚する可能性も高いのだ。 ヘタレ朴念仁と海千山千のクセモノという真逆の兄妹であるが、秀麗と結婚したいと願い続けて早幾年である劉輝と違い、結婚に関して全く夢も希望も抱いていない。まだ見ぬ伴侶と仲良くできたら勿怪の幸いくらいにしか、片方は無意識に、片方は意識的にそう考えている。 そんな人間が、コイツだけは嫌だ、と断じるというのはもう、どうしようもない次元での拒絶だった。あの理性の権化のような兄妹が、その理性でもどうしようもないという意味では生理的嫌悪に近い。 夢も希望も抱いてないが、死ぬほど大ッ嫌いな奴とはやっぱり結婚なんかしたくない。人としてとても当たり前の感情である。意外でもなんでもない。 耐え難く好ましい一面と、耐え難く疎ましい一面がそれぞれにあって、兄妹であることを理由に無意識にイチャイチャしやがるのと同時進行で兄妹であることにかこつけてあれ以上近づかないというまさにどうしようもないうえにどうやったら両立できるのか人の心の摩訶不思議。拮抗している好きと嫌いがどちらかに傾いていれば―――もしくは、いっそ無関心でいられたならば。もっと平和にわかりやすく一般的な範疇に収まる兄妹をやっていたのであろう二律背反を具現化させた傍迷惑な兄妹は―――当人達は限りなく大真面目に細心の注意を払ってあの距離を維持しているのだと、もう、さすがに、劉輝とて、気づく。 一年、劉輝は真朱の傍にいた。共に過ごせば"お子サマ"らしき己でも見えてくるものがある。 一年、この一年に限って言えば、劉輝はだれよりも真朱の傍にいたし、真朱は王の傍にいたから、浮いた噂の欠片もないのに少女が"海千山千の曲者"でしかないのも実感している。ぶっちゃけて女性らしさに乏しく初々しさ皆無。仮にも王を相手に、何故か猫被る必要性を感じないのかやりたい放題。絳攸にだって"妹"の仔猫を被っているというのに劉輝相手に限って猫不在。あの情け容赦ないのにそこはかとなく面倒見が良く、時折甘い彼女のアレこそ恐らく何も飾らない本性だと確信している。 けれど。 ―――どえらいもの見ちゃった直後。 とりあえずなかったことにして、度肝を抜かれてちょっぴり半狂乱でズタボロだったが何とか当初の目的を敢行した劉輝は己を褒め称えた。 最後に"覗いちゃってごめんなさいでも不可抗力"という旨をしどろもどろに藍龍蓮に告げ、言い逃げようとした。 その背に鳴り響いたのは噂に聞く笛の音よりも耳障りな警告。 「―――李真朱に気をつけろ」 足を止めた。 「………な、に?」 「李真朱に気をつけろ―――と、言った。彼女は危険だ」 今度こそ聞き流せず、王は振り返り藍龍蓮と対峙した。 「何を言っている?」 「ただの龍蓮の、その独り言だ」 独白という形式を用いる意味を図りかね、その独り言の不穏さに目を眇める。 李真朱という少女が………人畜無害とは間違っても言わないが―――言うに事欠いて、危険? 「然り」 内心を読んだかのように、独り言と言いながら龍蓮は頷いた。 「彼女は危険だ。呪詛の如き言葉を使う」 「何を馬鹿な―――」 「その 笑い飛ばそうとして、続いた言葉に、背筋が凍る。 「そなたは、そなたにとって唯一の大切な者を、他ならぬ彼女の手により―――その手許から永遠に失うであろう」 厳かな予言だった。 「な」 「彼女の呪詛は性質が悪い。右から左に聞き流すが吉。一から十まで信じなければ末吉。それでようやく、彼女と五分だ」 「何を馬鹿な!」 今度こそ、劉輝は龍蓮の独り言を笑い飛ばした。一度失敗したその残滓が口元で強張っていたが笑った。 それはない。 「真朱にそんな すでに仙洞省の太鼓判を貰っている。 そもそも、此処は彩八仙の加護の籠の中、貴陽。あらゆる異能が発動しない。 「異能なものか」 藍龍蓮が小さく哂った。 「―――異能であるはずがない。才もない。能もない。李真朱は何も持たぬ。天から与えられたものなど何一つ持たぬ。特別な力など一欠片もない。彼女は凡人中の凡人だ。それは本人も認めるところで取り柄と呼べる特技すら持たぬ。その無能っぷりは徹底しているから逆に珍しい」 酷評ここに極まった。 「………矛盾している」 知らず眉間に皺を刻み、王は吐き捨てた。 「していない。彼女は無能にして、性質の悪い呪詛を使う。それだけだ」 寒風が一陣、通り過ぎた。 「そんなことはない。彼女は現実に優秀な人だ。そしてなにより、当たり前のことをとても当たり前に出来る得難き人だ―――悪戯な愚弄は赦さぬ」 彼女は当たり前のものを、極当たり前に劉輝くれる。欲しがっていたことにすら、気づいていなかったささやかな当たり前のものばかりくれた人だ。 それは悪戯な笑みだったり、問答無用な暴言だったり冷酷無比なツッコミだったり………何を語るでもなく何をするでもなくただ傍らにいたり。一つの菓子を分け合ったり一つの菓子を取り合って戦ったり飲み比べしたり、その日の出来事を脈絡もなくだらだらと語って、聞いているのか聞いていないのかわからない相槌を交わしたり―――大小さまざまな、他愛ないものを積み重ねた日々がある。 春から夏、秋に、冬も。 手を伸ばせば肩を叩ける距離に、声が必ず届く場所に、隣じゃないけど傍らに―――在った。ようやく一年。たった一年。それでも一年、一緒にいた。 根こそぎ否定された気がして、思わず龍蓮を睨みつけるが当人は何処吹く風。 独白は続く。 「―――才はない。能もない。取り柄もなければ特技もない。何も持たずにして生まれた人が、一から培って十にも百にも育んだもの―――生きることで身につけたモノが李真朱の術だ。天から与えられたものなど、何一つない」 「………それは」 天から選ばれるように、生まれながらして才を持つ者を天つ才―――天才と呼ぶのなら、それは。 「そなたの 「………………誉めていたのか」 称えてすらいた。全てを与えられた者と全てを培った者、対極の存在が対極の存在を、対極であるが故に。 彼女が青年の対極の存在であるという一点のみ、賛同するのも吝かではない。しかしこれだけは認められない。 「真朱が余の敵に回るなぞ、あり得ぬ」 信じられない。 「……………"信じたいものだけを信じて、真摯に信じて、少しでも自分に都合のいい現実を作り上げる人の愚かさは―――愚かであっても、生きて行く強さには違いない"」 「なっ」 痛烈な皮肉に、一瞬確かに血液が逆流した。 目が回る。目の前が真っ赤だ。泡立つ水面の上に支えもなく立っているような不快と不安に背筋が粟立つ。 ―――気づかざるを得ない。あぁ気づきたくなかった。信じたかった。 つまり。 「…………信じたく、ない」 たとえ何があっても疑われることがないように、信頼を築く、なんて。なんて当たり前の手段だろう。 これか。 これが―――彼女の呪詛か。なんて普通でありきたり。だけど本当はとても難しい、そんな人と人とのつながりで、でも始めからそのつもりでいたのなら―――なんて効果的で、なんと残酷な手段だろう。 敵に回らない、裏切らない、なんて―――根拠なんかどこにもない。言葉で誓われたこともまた、ない。 「彼女には彼女の願いがある。その望みを叶える為なら、邪魔な者はありとあらゆる手段を用いて排除するだろう。彼女が敵に回ることなどありえない? それは李真朱の人格を真っ向否定すると同じことだ。彼女には譲れない思いすら何一つ無いと、言っているのと同じこと」 寒風のせいか、温度のない言葉のせいか。いずれにせよ、耳が張り裂けそうに痛かった。 「悪戯に愚弄するのも大概にするがいい」 返す刃が突き刺ささる。呻き声も出ない。 「此の世でたった一人の大切な者を失いたくなければ―――」 龍蓮は踵を返す。 背中越しに。 「せいぜい李真朱を止めてみせるがいい」 託した。 「………―――いつのまにか」 塊のような白い息のなかに、かすれた言葉が溶けてゆく。 「何か言ったか?」 「いえ………いいえ。なにも」 隣を歩く静蘭が、かすかに目を眇めるのに微笑み返す。 上手く笑えているのだろうか。 笑えているのだと思う。静蘭は笑い返してくれたし、大切な人たちが、一から笑い方を教えてくれたから、上手に笑えるようになった自分がいる。 誰も彼も、一人残らずみんなみんな、たった一人の大切な人が―――いつのまにか、たくさん。 たくさんいて、劉輝には、わからなかった。 彼女が何を願い、彼女が何を犠牲に―――誰を、贄に。劉輝から奪って、どんな望みを為そうとしているのか、わからなかった。 傍にいたのに。 たった一人の大切な人というなら、彼女だって、劉輝の中で住んでいる人なのに―――まるでわからなかった。わからなくなった。 真夜中に耳障りな警笛の音。 耳鳴りの中でいつまでも木霊して、寄せては引いてゆく漣のような鈍い頭痛をゆぅるりと誘った。 (やぁ半年以上振り☆ 何かが気に入らなくて半年以上粘ったんだが久しぶりに見たらどーでもよくなった―――て、あれこの半年って……) |