竈の煙が立ち昇る炙り火刻。
 烏の声と夕餉の匂いに背を押され、名残惜しげに家路に着く幼子たち。
 店仕舞いに忙しい露店の男たちは気もそぞろ、客寄せを始める酒楼を物色して視線が泳ぎ、女房にケツを引っ叩かれて、それを帰り道の子どもたちが指を差して笑う。怒鳴れば蜘蛛の子を散らすように逃げて行く小さな背中に、大人たちは「早く帰れよ」と声をかける。
 一日の終わりの寂寥感と、それぞれの夜の始まりがぐんにゃりと溶け合って赤く染まる日没の風景。
 一足お先に飲んだくれている身なりの良い若者は、先日国試を終えたばかりの青年かもしれないがそんなことは今どうでもいい。

「…………寒い」

 木枯らしが身に沁みる――むしろ凍みる。 
 寝起きを義父に強襲され世界で一番最低な脅しに屈し着の身着のまま邸を飛び出してまだ門前
 黎深曰く、分不相応の崇高な使命を課せられた李真朱は邸を出た第一歩で北風に膝を折った。寒い寒いさーむーいー。
 上着を引っ掛ける暇も(心の)余裕もありはしなかった。普段のダルマ級の防寒が見る影もない薄着だ。ついでに言えばかろうじて洗顔だけは済ませたもののスッピンである。面の皮も一枚足りない。
 寒いはずだ。寒い。
 寒いし指先はすでに痛い。それでも為さねばならぬことがある。
 そう。




貴陽の平和を守るためっ




 口に出したらもンのすごーぉく馬鹿らしくなった。
 柄じゃない柄じゃない柄じゃない柄じゃない。正義の味方なんて徹頭徹尾キャラじゃない。
 しゃがみ込んで鬱々と膝を抱えてしまいたいと割と不屈の李真朱が途方に暮れて茜空を仰いだ。上を向かねば沈み込むばかりだ上を向け。
 やりたくなくてもやらねばならないことならば、さっさと済ませてあったかい布団の元へ帰還するに限る。あったかい家族の元へ、とは今だけは言いたくないこのやるせなさ、だれかわかってくれまいか。ねぇわかってくれません? と紅家別邸の壮麗な門に語りかける。言うまでもないが門は口を利かず、これではただのヤバイ人。更にへこむ。
 ―――黎深の目的は"少し困り顔"を取り戻すことであり、その手段が何故か紅藍両家の怪獣大決戦なのであって、なんでそこでケモノ道で遠回りすんの?! と?げるほど首を傾げる真朱の目的は怪獣大決戦の未然阻止であり、仮面の奪取は手段に他ならない。目的と手段が逆転すると碌な事が起こらないのが世の常なのだが、だからと言って"少し困り顔"を取り戻すため紅藍両家の馬鹿戦争の陣頭指揮を取るなんて正気の沙汰じゃあない。同調するなど端から論外なのだから、このまま突っ走ってヤルしかない。

 …………さーて、どぉしてくれよぉか。

 白けた両眼に苛烈な火が灯る。額に青筋。
 柄でもキャラでもない役柄を、演じるのには慣れている。心外な肩書きを今ひとつ増やしたところで痛む様な繊細な心は手許不如意。
「ヤッたろーじゃん正義の味方!! 貴陽の平和を守るためっ!!」
 悴む指を握りこんで作った小さな拳を振り上げる。
「天つ才なんてクソ喰らえっ! 凡人を舐めんな目にモノみせてくれるわっ!!」
 可憐な口元に薄ら暗く刻まれた笑みはちょっと言語を絶する出来栄えだった。

 世界中に凡人が溢れている理由を知っているか?
 凡人のしぶとさは、天才なんぞの比じゃないからだ!!

 駆けて行く少女の細く薄い双肩に、貴陽の平和がかかっている。








 ―――少女の冷たい指先に熱を溶かすように、楸瑛は恭しく唇を落とす。


「真朱殿………」
「ァにしやがるっ!?」
駆け落ちしよう
落ち着け


 藍楸瑛は、いつもの底の見えない笑顔を浮かべていたが、目だけが異様に―――死んでいた。
「逃げよう。今すぐ逃げよう。逃げることが情けないとは思わない。この私がだ! もうコレは行くしかないよ真朱殿さぁ共に行こう。いざ行かん奴らの手の届かぬ桃源郷へっ!」
「奴らって紅藍両家? そんなトコこの国に存在すんの?」
「…………せめてウチの愚弟が湧いてでない山奥っ!!」
「山奥とかむしろ龍蓮の行動範囲内ど真ん中。湧くに決まってる」
「〜〜〜〜安息の地が地上にないのなら昊へっ! 星になろう!」
「それじゃ心中だっつーの」
「なんで落ち着いているんだ真朱殿!!」
「目の前で自分以上に混乱してもらったら自然と明鏡止水に陥るわっ! 吊橋効果で恋に落ちてる場合じゃねーだろよっ―――らしくなく泡食ってないでさっさと龍蓮出してくれよ! 今なら裏からちょこっと黎深さまに仮面返すだけで丸く―――否、否!! 何事もなかったかのように収まるんだから!」

 藍区藍邸。
 策も何もなく、直球で龍蓮に直談判にやってきた真朱を出迎えたのは、その兄の楸瑛だった。
 門前で少々のすったもんだがあったらしいが、不審人物以外の何ものでもない着の身着のままスッピン寝癖というナリで忠実な門番家人を掻い潜り主人である楸瑛を引っ張り出したその手腕、実は凄い
 凄いんだけど、少女のもたらした凶報は凶報と楸瑛の常識と予想の範疇を軽く飛び超えた混沌だった。
 ―――いつか見た夢(悪夢)が足音もなくすぐそこまで迫っていたことに、優雅な休日を過ごしていた楸瑛は全く持って気づかなかったし予想しなかったし想像すらしなかった己の不明を恥じる。



「したくないしたくないしたくないそんな予想想像ぶっちゃけ妄想ォっ!!」
 歯に衣着せない少女の暴言に癒された。もっと言って欲しい。
 楸瑛は乾いた笑みを唇に刻む。人目がなければ頭を抱えてのた打ち回っていたに違いない事態だ。
「〜〜〜少し目を離した隙にこれだっ!! 何をやらかしているんだあの愚弟っ!!」
 なにやらかしたかって。
黎深さまから兄上仮面をチョッパッた
「言葉にしないでくれ……」
 どうしろと。
 楸瑛と真朱は無言のまま生温い視線を交わし、計ったように視線を外す。
「で、龍蓮は? 身内だからといってぇ隠し立ては為になりませんゼ旦那」
「隠すどころか市中引き回しの獄門晒し首にしても私の心は毛ほども痛まないよ――――が、真朱殿と殆ど入れ違いに離れを飛び出したという聞きたくもない家人の報告を今さっき受けたばかりだったりする」
 つまり不在。



 沈黙。



「アッハッハッーーーーーーーーーー!! 貴陽が灰と化した暁には楸瑛さま、共にお星サマになりましょう! 後世の文人が美しい物語にしてこの馬鹿げた真相を美化してくださることでしょうしねっ!!」
 そうだこの下らないにも程がある真相を隠すためならこの命惜しくないかもしれない。
「ハ、ハハハハそうだねこの先生きて名を馳せ栄華を極め老衰で死んだとしても伝記の最後に"でもあの藍龍蓮の兄なんだよね"って付け加えられるくらいなら、彩雲国に名を残す悲劇の男女として果てようか真朱殿アハハッ」


 ―――当主同士が壮絶に仲の悪い名門両家の若様とお姫様が王都を塵とした戦争の果て二人儚く朝露になる。ベタだ。


「…………ロミジュリはイやだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!


 今度は真朱が錯乱した。
 柄じゃない柄じゃない柄じゃない柄じゃないキャーラーじゃーなーいーっ! 正義の味方はギリちょんセーフであろうとも、李真朱の過去現在未来の果てまで悲劇のヒロインになる予定は妄想以下の欠片もミジンコもインフルエンザウィルスほどもない。ないったらない。あってたまるか
「………なるほど。目の前で自分以上に混乱してもらうと自ずと明鏡止水に至るモノだね」
「せめてロミオで!!」
「落ち着こう真朱殿。これではヤツラの思う壺だ」
 そこまで考えちゃいねぇことなど百も承知だが。
「………くっ」

 楸瑛と真朱は手付かずだった冷めた茶を一気に煽った。

「―――結論としては心中なんざ論外枠外対象外っ! そもそもさぁ、俺らが奴らのケツの始末をしてやる必要性は皆無じゃね? 死んで花実が咲くものか!! なァッ!?」
「同感だ」
 確固たる己を取り戻した二人は茶碗を卓に叩きつけ、同時に席を立った。



「龍蓮の足取りを押さえろ!! 今すぐにだっ!! どうせどこにいようと何かやらかしているっ!!」
「ちょっと早馬を走らせてくれませんっ!? 文を届けてくださいっ」



 ちょっくら現実逃避しただけで迅速に対処を講じてしまう自分たちが、今、心の底から嫌。
 






 ―――目の醒める澄んだ青地に大きく咲き誇る印金の芙蓉。深い襟刳りには銀糸の刺繍。裳は足元へ近づくにつれて色を淡くする。ちりばめられた風合いの異なる真珠の朝露のような柔らかい光沢は控えめに艶を添える。こいつぁ藍州産の淡水真珠だと真朱はあたりをつけた。
 緑の輝きを放つ最高級の紅を刷き、目元と頬に淡い薔薇色の散らす。
 椿油と付け毛で整えられた髪に挿すのは長春花の褪せた赤。複雑に編みこまれた髪の細い束にはやはり真珠がキラキラと揺れる。
「完全武装だなオイ」
「よく似合ってるよ。水面を歩く天女のようだね」
 着の身着のままスッピン寝癖姿が幻のようだと李真朱は溜息をついて美辞麗句は聞き流した。
 藍家の侍女と楸瑛の手を借りて着飾った鏡の向こうの少女は、豪華絢爛にして綺羅綺羅しく、初々しくも艶めかしい―――と、自分以外の女人だったら褒めてやるのもやぶさかではない。
「………なんで俺にぴったしの衣があって、化粧道具まで一から十まで揃っているのかは聞かんぞ」
「買った」
「聞かんと言ってるーっ!」
 いーやーだーああぁぁぁ。
「衣と裳は藍家御用達の商人に、化粧道具は朱李花で」
「お買い上げどうもーっ!」
 商魂逞しくお礼申し上げてしまった。
「一度君を着飾らせてみたかったんだよね、私の趣味で
「遊びなれたヤローならではの道楽だよな」
 上から下まで男の好みに仕立てられた嬉し恥ずかしなウキウキなんぞ欠片もを味わうはずもなく、真朱の返答は身も蓋もない。むしろ腐っていた。
 普段は家の名に従い、淡い紅色の衣ばかりを纏っている少女に、一度着せてみたかった青。
 淡く、優しい色合いも良く似合うし見慣れているが、外見以外はとことん苛烈な少女に着せるなら―――準禁色級の深く濃い、藍にも届く青を。
 そう常々コッソリ思っていたのだ。
 兄の理性なんぞよりよっぽど鉄壁を誇る少女の完全武装である。そんな真朱が着の身着のままスッピン寝癖という切羽詰った姿を家族以外に見せる程に切羽詰らせた愚弟をちょっと褒めてもいい。こんな機会でもなければ彼女の完全武装は崩れなかっただろう。しかし、ちょっとだけだ
「マイフェアレディーごっこかよ。俺もつくづく付き合いがいいというか………せめて俺がヒギンズ教授でっ」
 一方、着せ替え人形の役を甘んじてこなした真朱はヘンなところを嘆いている。
 つくづく―――やるせない、が。
「まぁいい。着の身着のままスッピン寝癖で役者は張れんし」
 豪華絢爛な美姫に化けて見せた真朱は楸瑛の前でくるりと回って見せた。
「遺憾ながら、よく似合うだろー」
「とても」
「ふン」
 四方八方手を尽くし、龍蓮の足取りは押さえた。
 ビラビラど派手な服装に着替える間も惜しみ、突如として藍邸を飛び出した龍蓮は、なにやら昨晩悶着を起こした親分衆のもとへ単身乗り込んだらしい。
 その報告が届くまでのわずかな時間ですらマイフェアレディーごっこで遊んでみせる余裕をかましていざ敵陣へ。
「秀麗さまと影月君もいるらしいね」
「運が向いてきましたねー。秀麗さまがいらっしゃれば、黎深さまは近づけない。クケ、ざまぁみさらせ」
「私としてはもうこのまま秀麗殿経由で邵可殿に原因のブツを届けてもらって紅尚書にコッテリお説教してもらって一件落着と言いたいところなんだけど」
「藍将軍としてはそれで問題ないのでしょーが、俺は原因のブツを回収せねばならんのですよ」
 やれやれと肩をすくめる少女は、意外に律儀だ。
 何としてでも防ぐと誓った怪獣大決戦は運良く恐らくは未然沈静の方向に事態は推移しているのに、溢れて垂流れるばかりの罵詈雑言で罵り放題の義父のため、仮面の回収に勤しむという。
 溢れて垂流れるばかりの罵詈雑言で罵り放題の義父に、真朱は甘いと楸瑛はつくづく思う。
 そんな思いが、無言のうちに目に表れたのだろう。真朱は楸瑛の微笑ましいモノでも見ているような視線に居心地悪く身じろぎした。
「…………天つ才なんてクソ喰らえ。天才がなんぼのモンじゃい。凡人のしぶとさは、世界中に溢れている凡人が証明している。身内だからってヤツらの尻拭いに奔走するのは業腹でしかない。だけどなぁ―――」
 言い訳のように、ぼそぼそと零す。
「黎深さまは基本的に、俺に命令はしないから」
 共に過ごした時間を振り返る。
 共に過ごしたと言うほどに、いつだって近くにいたわけじゃなかった。双方自分勝手に生きている。
「命令はいつもたった一つ。十年通じてたった一つだ。残る言葉は全てが全て、ヤレ、と言い捨てるだけでその実欠片の期待もかけられちゃいねーの。俺が必死こいて実行せんでも誰かがやるさ。それが絳攸だったり、奥方だったり、家人だったり部下だったり、まぁ色々だが」

 俺である必要はない。

 少女はそう、断じた。
「例えば去年の春な。俺は問答無用で後宮に放り込まれたようで、いつだって辞すことが可能だった。主上は秀麗さまに夢中で他の女官は眼中になかったし、その秀麗さまの為にだって俺に出来ることだって微々たるものだったし。実際、俺がとっととトンズラかましていたならば、俺に出来た微々たることも、絳攸がうまくやっていただろ。俺はいてもいなくても良かった」
「………そんなことは」
「あるさ。別に気を使う必要はねぇよ」
 否定しようとして否定できなかった楸瑛に、真朱は口の端を吊り上げた。自嘲ではなく皮肉げないつもの笑み。
「世の中、唯一絶対ただ一人にしか為せないコトなんてそうそうありゃしねぇよ。それだけのことだ」
 ない、とは言わない。
 唯一絶対ただ一人にしか為せないただ一人に、李真朱は成れた例がなく―――そんな重いものを背負うのはごめんだから、成りたいとも思わない。思えない。そんなヘタレに期待をかけないことで、黎深はいつだって退路を用意していた。
 だが、それでも。
「故に、せめて。李真朱は紅黎深の唯一の"命令"には、絶対の忠誠をもって報いる。可能不可能は二の次だ。為すといったら為すと言葉にし、其の言葉を全身全霊で実行する。俺は今までそーしてきたし、これからもそーする。これは李真朱が生まれた日より今現在をもって息絶えるその日まですでに決定しており天地がひっくり返っても覆りはしない。俺にも意地くらいある」
 最早それは決意ですらなく、自明の理であると気負いなく語った少女を、眩しいものを見るように楸瑛は目を細めた。
「故に、それがどれだけ馬鹿らしく阿呆にも程があり下らない戯言の方がまだ論理的なぶっ飛びフザケタ言葉であり、俺以外の誰かでも実行可能な命令未満の言葉であろうと
 直前の台詞に反しまくった、よっぽど嫌なんだろうなぁということがよくわかる長広舌だ。顔にも出ているから正直だった。





「―――ただのワガママだ。叶えてやるのが甲斐性ってモンだろ?」





 楸瑛は壮絶な眩暈を覚えた。視界が歪む。
アレを………ただのワガママだと言ってのける君を私は尊敬するよ」
 ゆるゆると息を吐き、楸瑛は首を振る。
「藍将軍は龍蓮に関して俺のことをどーこー言える資格はないですよ。アンタも相当龍蓮のワガママに付き合ってる」
 甘えてくれない子どもを甘やかすのは親の腕の見せ所だといったのは―――現在の母だったと記憶している。

 きっと、つまり、この想いはそーゆーことだ。
 それだけのことだ。

「ゆ・え・にィッ!! ソレがどれだけ馬鹿らしく阿呆にも程があり下らない戯言の方がまだ論理的なぶっ飛びふざけた言葉であり大体実行可能なワガママであろうとも叶えて見せらぁ此処が腕の見せドコロっ。あンのクソオヤジと来たらもうもうもう憎さ余って可愛さ百倍っ!!
可愛いっ!?」 


 間違ってるのに間違ってない新語爆誕。


「ちょーカワイイじゃん黎深さま。身悶える」
「さてと。そろそろ行こうか」
 楸瑛は相槌を避けた。全力で避けた。
「君の為すべきことを為すがままに、貴女の舞台へ私が連れて行こう」
 諸々を華麗に無視して、楸瑛は芝居がかった仕草で恭しく真朱の細い手を取った。
 急がねばならないが、彼女は馬に乗れない。
 無視されてちょっと唇を尖らしたが、心得た少女はやはり芝居がかった仕草で、楸瑛の腕に寄りかかり―――どこまでも高慢に、姫君の如く微笑んで見せた。
「苦しゅうない。よきにはからえ」


 なんちてな。










(主人公、大真面目にヤケクソ。寒さも相まって一本切れてます←ナニカの予防線)




モドル ▽   △ ツギ





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