休日の楽しみは何、と訊ねられたらノータイムで"二度寝"と即答する少女、それが李真朱である。 多忙にして多趣味、知己は多岐に渡りいくらでも優雅な休日を過ごせそうな背景を有しながら答えは"二度寝"。何度聞いたって"二度寝"。 揺るがない。 怠惰にして色気絶無、ささやかにしていじましく涙を誘う楽しみを公言して憚らないので、大抵の者は彼女の至福を邪魔したりはしないのだが。 「真朱! 起きろ! やれ起きろすぐ起きろいいから起きろっ!!!!!!」 世界は自分と兄一家を中心に回転している黎深は斟酌したりしないのである。 「…………朝一番に黎深さま。荒むね」 「いい度胸だ」 毛布に包まって芋虫の如く丸くなっていたところを引っ剥がされてゴロゴロ転がり寝台から落っこちて強制浮上した真朱は、打ち付けた後頭部と尻を押さえつつ寝癖の付いた頭を振った。 「そもそももう夕刻だ」 「おおぉ」 窓の向こうで鳥が鳴いている。 雀じゃない。烏がカーカー鳴いている。夕方だった。 「………黎深さま俺休暇中なの。なんもしないの。だから寝るのまだ寝るのであります」 寝惚けてる。 「そんなこと私が知るか起きろやれ起きろすぐ起きろいいから起きろ」 「やーだーねー」 ぐぅ。 「えぇぇい起きんかっ!! 兄上の一大事だぞっ!?」 「邵可さまが如何したと言うのです!?」 一気に覚醒した。 ワタワタと布団から這い出る。 「昨夜、兄上が不貞なる輩にカドワサレたのだっ!! ああぁぁぁぁ兄上ぇぇぇぇぇぇっ!!」 血の気が引いた。 「一大事じゃないですかっ!?」 「そうだと言っている!!」 「そんな………まさか………」 「真朱呆けている場合ではない。一刻も早く兄上を取り戻さねばならんっ!!」 黎深は兄一家にかけては天上突き抜けた馬鹿だが、天井突き抜けた馬鹿だけに兄一家に関してこんな性質の悪い冗談など決して言わない。 真朱は力強く頷いた。 「事は一刻を争いますね」 「そのとおりだ!」 「それなのに何故陣頭指揮を執るべき黎深さまがわざわざ俺を直々起こしに来るんですかバカヤローッ!!」 「お前が適任だからだ! いいか真朱、命に代えても兄上を奪還せよっ!!」 「………………俺が適任?」 何ゆえ。 李真朱は自他共に認める非力で虚弱。人を使うことに長けてはいるが黎深の方が一枚も二枚も上手であり、そもそも黎深が命より大切な兄上の奪還を義娘任せにするというのがおかしい。おかしすぎる。 悪夢でも見ているのかと古典的に頬をつねろうとして、つねるまでもなく後頭部と尻が痛い。ふむ現実だ。 だが、おかしい。何かが決定的におかしい。 「私は今から手勢を集め、襲撃に備える。お前は単身敵地に乗り込み兄上を奪還するのだ」 「…………………………俺が単身?」 おかしい。何かが決定的におかしいおかしすぎる。 一騎当千の猛者ならともかく一人じゃ馬にも乗れない――つまり一騎にすらなれない――真朱に特攻せよとは何たる愚策。意味がない。意味がわからない。 「…………………………寝起きドッキリ?」 「何を馬鹿なことをほざいている!? 早く行けっ!! 間に合わなくなったらどうしてくれるのだっ!?」 「行けってどこに。犯人の目星はついていらっしゃるので?」 「当然だっ!! こともあろうに藍家の若造めがこの私にたてつくとどうなるか目にモノ見せてやるわっ!!」 「は………はぁあっ!?」 藍家の若造―――同世代の三人当主は遠き藍州の地。であれば若造とは貴陽在住の楸瑛に他ならず―――ありえない。 「ナニカの間違いでしょうそれ。藍将軍が邵可さまをカドワすなんてっ!!」 「えぇい察しの悪い奴めっ! その弟だっ!!」 「うええぇぇぇぇぇ!?」 龍蓮がっ!? 「事は一刻を争うっ!! 藍家の若造から兄上の"少し困り顔"を取り戻すのだーーーーーーーーっっっ!!!」 現実こそが悪夢だと知る。 天井突き抜けた馬鹿もとい天空突き抜けた馬鹿を宥めすかし事情を聞きだしたところ、こうだ。 昨夜、友人の黄鳳珠の下へ兄上仮面を自慢しに行った(どうしようもねぇなオイ)天空突き抜けた馬鹿は、傑作の兄上表情仮面を鼻で笑われた挙げ句(アタリマエだっ)愛する姪、秀麗と鳳珠の親密な関係(折々に文を交わす至極礼儀正しい仲だろうが)に衝撃を受け前後不覚に陥り(馬鹿だ馬鹿だほんっとうに馬鹿だ)こともあろうに兄上の"少し困り顔"を落としてしまった。風呂敷が軽くなったことに気づいて振り返ったところ、その少し困り顔を何者かが拾い上げ懐に納めた(そいつも馬鹿だ)。不覚は重なり気づくのに遅れたが為逃げる不貞の輩に追いつくこと叶わず、哀れ兄上は不逞の輩にカドワサレてしまったのである(あーそーかいっ)。 「あぁぁぁぁぁぁ兄上御労しいーーーーっっ!!」 「俺はアンタの頭の中が御労しいわっ!!」 お代とばかりに二束三文の金子(いや大金だそれ)を黎深に叩きつけて兄上をカドワした不逞の輩は夜目にも目立つ、頭に羽を差してビラビラど派手な孔雀の如きヘンな格好の正に不逞の輩としか言いようのない風体で(あぁ龍蓮、フォロー出来ねぇよ……!)紅家の情報網を駆使せずともすぐに身元は割れた。 「許すまじ藍龍蓮っっ!! 兄上の少し困り顔が金に換えられるとでも思っているのかっ!!??」 「ソッチかよっ!?」 黎深のなけなしの理性が(ほんっとうになけなしだなっ)敵の本拠地、藍家別邸の襲撃を一瞬躊躇わせた。兄上は悪戯な騒ぎを好まない。たとえ少し困り顔を奪還するためとはいえ、本物の兄上に重きを置くのは黎深にとって太陽が東から昇ることより当然の選択だ。 「思い起こせば真朱。貴様は藍家の末弟と風呂にまで入る仲!!」 「なんで知ってんのっ!?」 「色仕掛けでもなんでもいいっ!! 真朱よ藍家の若造を篭絡し兄上を取り戻してくるのだっ!!」 「風呂にまで入って何にも起こってねぇんだから色仕掛けなんぞ通用しねぇわ!!」 清く正しい温泉仲間を何と心得るっ!? 「ええぇぇいなんと不甲斐ないっ!!」 「つくづくチチオヤの台詞じゃねーなっ!!」 ジタバタジタバタ父娘は地団太を踏みあう。床が悲鳴を上げていた。 「こうしている合間にも兄上の少し困り顔が悪用されたらどうしてくれるっ!?」 「どんな悪用の仕方があるんだっつーの心の底からそこが知りたい!!」 ジタバタジタバタ。 「―――くっ。私の口からそのようなことが言えるはずがないっ」 「え、ちょっと待って、マジでどんな想像したの今っ!? あああぁ知りたいような知りたくないようなっ!?」 ジタバタジタバタ。 ぜーはーぜーはー。 「………真朱」 「………あんだよ」 「今夜、闇に乗じて私は藍家別邸を襲撃する」 「マジですかい」 「事は一刻を争うのだ」 「脳内で?」 「紅藍両家の総力戦となるだろう」 「どんな大事にする気だアンタ」 「貴陽は灰燼と化すかも知れぬ」 「洒落になんねーよ」 「しかし私は一歩引かぬ。引いてなるものか」 「少しは引け。俺はドン引きだ」 「懸かっているのは他ならぬ兄上の少し困り顔。無理な相談だ」 「誰がいつ相談なんかした」 「彩雲国は再び戦乱の世に逆戻りするかも知れん」 「どんな大事にする気だアンタっ!?」 「藍家も一歩も引かぬだろう事は予想に難くない」 「ンな戯けた宣戦布告じゃ藍家も引くに引けねぇだろーよっ」 「しかし紅家の威信にかけても藍家の魔の手より兄上を我ーがー手ーにーっ」 「アンタの手こそが魔の手に決まってるっ!!」 あぁ頭が割れそうに痛いっ。 「何をグズグズしているのだ! 早く行かんかっ!!」 「…………へーへー」 真朱は物凄くいやそうに返事をした。実際、物凄く気が進まない。正確には、馬鹿らしくて関わりたくない。 事の重大性をまるで理解していない義娘の気のない相槌に、黎深は扇の下で眦を吊り上げる。 「いつまでもグズグズしているようなら嫁に出すぞ」 ちんたら(義父の目の前で)着替え始めていた真朱はぴたりと動きを止めた。 「………どんだけ大人気ねぇんだアンタ」 怒るより先にあきれ果てたと言わんばかりの苦笑が、化粧前の素顔に浮かぶ。 「本ッッ当に焦ってんだな黎深さま―――らしくないなぁ」 否、兄の大事だ。天空突き抜けた馬鹿らしいといえばこの上なく"らしい"のかもしれないが―――。 「脅さなくても俺は行くし、脅されなくても俺は嫁ぐ――― 黎深が扇の下でこの上もなく厭そうな顔をした。 そんな義父の表情を見て、真朱はいっそ無邪気に破顔する。 「意外だ―――そんなことが、脅迫になると思ってたなんて、ホント意外」 その程度のことが、脅しになると思っていたなんて、可愛いところがあるじゃないかとすら思う。 知らず、色のない唇が綻んだ。 「…………何がおかしい」 「いやいやいや。想像以上に愛されていたと知って照れてんの今」 その程度のことを、嫌がると思われていたなんて、大切にされてるんじゃないかと笑いたくなる。 「戯言だ」 「やー、照れるね………いや、もうホントたまんない。嬉しくて恥ずかしくて他愛なく泣きそー」 昨日の今日だ―――涙を、墓まで持っていくと決めていなければ、本当に泣いてたかもしれない。 「馬鹿が」 父が吐き捨てた。 「失礼な」 娘が肩をすくめた。アンタにだきゃあ言われたくねぇよ特に今。 「そんなこと、とうに知っている」 「―――だろうな」 だから今まで一度だって言わなかったのだろうし、だから今まで、こっちも一度も言わなかった。 「そんなことにすら、気づいていないのは絳攸ぐらいだ。アイツも馬鹿だ」 「それは否定しない」 薄情な妹は深く頷いた。 紅黎深は知っている。 黎深が一言命ずれば、李真朱はどこへでも行く。 どこまでも行く。 今手にあるものの総てを捨てても行く。兄すらかなぐり捨てて省みず何処へでも行く。 政略結婚だろうと厄介払いだろうとまるで構わない。 そうして 壮絶に意地を張りながら少しずつ諦めることで歩いているこの少女が、現状において、最後の最期まで拒絶するのは恐らくこの世にただ一人。 ―――黎深が何度命じようと断固拒否。そいつを殺せというなら黎深に牙を向き、そいつを愛せというなら骨の髄まで憎悪する。抱かれようものなら自刎して「首から下だけでよろしければ後はご自由にドウゾ」ぐらい絶対に言う。 そんな相手が一人いて、それが誰かなどと、言うまでもない。 「ふん。言葉が足りなかったな」 「あん?」 調子を戻した黎深の冷笑に、真朱は片眉を跳ね上げた。 「いつまでもグズグズしているようなら、絳攸に嫁がせるぞ」 「行ッテキマスッ!!!」 身支度もソコソコに真朱は黄昏の貴陽目指して一目散に爆走した。 (なんでかっつったら、それは極アタリマエの極普通の理由です。フザケンナってくらい、ほんとフツー) |