―――所詮、特例措置なのだ。
 公式文書に"李真朱"の名が記載されないであろうことは端から予想していたことだ。というかありえない。秀麗が官吏になるために試験を受けている最中に、官吏の仕事を特例措置とはいえ他に手段がなかったとはいえ挙げ句の果てには生贄扱いであろうとも、"女官が官吏の仕事をした"など、公式文書に記録されてははっきり言って困るのだ。
 本来、李真朱にその資格はない。ないからこそ、あってはならない。故に、予備宿舎第十三号棟の管理責任者として李真朱の名前が残ることはない。残ってはならない。
 彩雲国初の女性官吏が及第する前の壮絶なフライングにも程がある。龍蓮がかかわっていなければ真朱は勅命だって無視しただろう。まぁ龍蓮がかかわっていなければお呼びがかかるはずもなかったのだから、それはトリが先かタマゴが先かという次元に突入するが―――つまり考えるだけ無駄だ。


 が。


「皆様、本ッッ当にお疲れ様でした。今日明日はゆっくり休んで試験の疲れを取って殿試に備え英気を養ってくださいませ」
 予備宿舎第十三号棟別室の管理責任者を無事勤め上げた李真朱が深々と跪拝する。
 試験日程を終え、連れ添う形で案外居心地の良かった牢獄から脱した秀麗は、真朱の礼に"あぁ本当に試験が終わったのだ"との実感を得た。
 搾れるだけ搾りつくした空っぽの身体と頭にじんわりと達成感が広がっていく。
「――――長いようで短かったわね、会試。でも、やれることはやったと思うわ」
 少女は晴れやかに顔を上げる。
 冬空の下、根雪を掻き分けて頭を持ち上げた瑞々しい新芽のような笑顔だった。
「あとは結果と殿試だな―――僕は当然及第するに決まっているが」
「一生懸命頑張りました〜」
 龍蓮は感想の代わりに笛を吹いて道を作った。モーゼの十戒の如き光景に、真朱は乾いた笑いを漏らし―――立ち止まる。
「真朱?」
「わたくしはこれにて。お役目を勤め上げたことをご報告にあがらねばなりませんから」
 少女は眉と唇を皮肉げに跳ね上げた、時々秀麗がドギマギするオットコらしい笑みを浮かべて再び頭を下げる。


 皆まで語りはしないが報告とは建前。本音に訳せばちょっと礼部に喧嘩売ってきます、だ。


 公式文書に名が残らないのは百も承知の上。しかし、やることはやったのだ。礼部官吏が尻をまくって逃亡した役目を全うしたのである。
 負け犬を詰るのは勝者の義務だ
 そのためにも、勅命だけに命じたのは王であるにもかかわらず、わざわざ会試最高責任者である礼部の知貢挙までご挨拶に出向いてやるのであります軍曹(誰)! 王様なんか後回しでいい

 ―――紅家長姫、紅秀麗は其の実力でもって確実に及第を果たす。
 彼女はきっと、真朱の想像にも及ばないような厳しい戦いに赴く。今まで味方だった王も双花も、おおっぴらの彼女に手を貸すことは許されない。おおっぴらでなくとも、許されない。
 李真朱は手を貸せない。彼女と同じ舞台に立っていない。
 だけど、だから。
 だったらせめて、知っておきたい。官吏の世界に"女"という一石が投じられればどのような波紋が広がるのかを。
 現状と"李真朱"はわかりやすい試金石となる。あの王様はボケーっとしているようで、秀麗の為に磐石を敷いている。
 事前に、その反応を知らせておけば―――おおっぴらに手を貸せないけど本当は手を貸したくてたまらないはずの人々の役に立つこともあるだろう。
 利用されたとは思わない。むしろ褒めてやろう。よくぞ、この状況を利用して来る春、芽吹く蕾のために、この李真朱を使ってみせた、と。

「あ―――真朱! 今日までありがとう! ご飯とっても美味しかったわ!」
 肩越しに振り返り、真朱は微笑んだ。オットコらしく。
「お役に立てたのであれば本望ですわ、秀麗さま―――またお会いしましょうね、影月君、珀明さんも」
 秀麗に出遅れた少年たちにも手を振っておく。
 影月は照れたように、珀明は些かぎこちなく、手を振り返してくれた―――なんか可愛いなぁこの子達、
 そしてもう一人。
「龍蓮!」
 名を呼んで、オイデオイデとこっちは手招きをした。
 放射線状に怪音を撒き散らして悦に入っていた龍蓮は耳ざとく顔を上げ、至極素直に手招きのままトテトテ真朱に近寄った。
 笛から口を離し、無言のままわずかに首を傾げる龍蓮に―――。


「またね」


 初めての約束を残した。
 龍蓮の両眼が驚きに見開かれたのを確認して、真朱はしてやったりと悪戯に成功した子どものように破願する。
 やっぱり今まで、龍蓮も真朱も共に怠けていて―――間違えていて―――今度こそちゃんと選べたのだと安堵する。
「今度は、また一緒に賭場行こうぜ」
 秀麗には聴こえないように小声で、とんでもないようでいつもの提案を"約束"に付け加えた。今回は旅路で会ったわけではなかったからそれどころじゃなかった上に隔離されていたからおアズケだったが。 
「―――マタタビの君」
「なに?」
「"約束"の証にこの笛を」
「いらん」
 つーか、持てん。イヤミか。
「………この服を」
着ろと? つか脱ぐな」
 そんなビラビラ絶対着ないし、龍蓮といえども上着を脱いだら寒いだろう。
「この羽」
「いらんて」
 むぅと龍蓮が口を尖らせた。
「…………マタタビの君はワガママだ」
「お前もなっ」
 本人たちだけが大真面目な攻防が繰り広げられた。しかし本気でどれもこれもいらん。
「証なんていらねーよ。どーせまた遭遇するんだし、俺たちはそれっくらいで丁度いいんじゃねーの?」

 それでも言葉すら不要だと思っていたのは、傲慢だったから―――、やくそく。

 今ならお前もそう思うだろう? そう小首を傾げて見上げてくる少女に―――義務も、計算も、損得も、柵もない、龍蓮に優しいだけの"約束"をしてくれた少女に、何かを返したいと想う心まで不要なのかと龍蓮は考える。いらないと言う。だけど同じだけのモノを返したい。 
 親愛の情には親愛の情を返したい。そういうやり取りが、人と人との間では大切なのだと友から学んだ。
「―――そうか。では」
 親愛には親愛を――――龍蓮は腰を屈めて、






 ちぅ。






 心赴くまま親愛の情を示してみた








 ―――時が止まった。








「……………………………………………………今度はデコちゅーかそうかこのやろう藍家直系っ

 壮絶な頭痛を覚えたかのように額を押さえた真朱がふるりと身を振るわせた。あ。なんかデジャブ

「ああああああああああああああああああああああああアンタ何やってんのおぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!?????」
「龍蓮さんっ!! そういうこと真朱さんにしちゃ駄目です駄目なんですーーーーっっっ!!!!」
「き、さ、まぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! 頭に咲かすのは羽だけにしておけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」

 誰もが目を逸らす藍龍蓮から目を逸らしていなかったため決定的瞬間を目撃してしまった龍蓮抗体保持者三名が瞬間移動みたいなすばやさでやらかした龍蓮に一斉に飛びかかってくれた篤き友情に感謝感激。
 秀麗がガミガミ叱り影月がポカポカ背中を叩いて珀明が背伸びして龍蓮の胸元を締め上げる。それぞれが目にも留まらぬ電光石火の流れるような早業だった。
 おかげで真朱は爆発し損ねた。
 いや、助かった―――助かったのだろう。三・三七事件の二の轍は踏むまい。踏むまい。踏むまいったら踏むまいっ!!
「だが足は踏むーーーーーーーーーーーーーッッ!!!!
 足踏んどいた。えぐりこむように
 ほーら、ほーらねっ。感傷なんて宇宙の果てに吹っ飛ぶんだ
「何故怒るのだ皆の衆」
 ガミガミポカポカギュウギュウグリグリの四連コンボに龍蓮は心から不思議そうに首を傾げる。


 シャキンと涼しげな鍔鳴りが寒空に響いた。


「――――すまなかったね真朱殿。この馬鹿は私が全力で責任を持って回収しておくから」
 抜き身の剣を実の弟の首筋に当てた私服姿の藍楸瑛が、厳かに誓った。
「ら、藍将軍っ!? いつの間にっ」
 ガミガミしていた秀麗が飛び上がった。
 嫌々ながらも弟を迎えに来たおにいちゃんは門前からやはりアレを目撃してやはり瞬間移動して来たワケで背に流した黒髪がわずかに乱れている。距離は短いながらも全力疾走したのだろう、あの藍楸瑛がだ。息を乱していないのはおさすがだが。
「出会い頭に何をする愚兄其の四。全く無礼な」
 抜き身の剣にも動じない龍蓮が不快げに眉をしかめる。
「そう。その礼儀とやらを私が叩き込んでやろう平和の為に―――私が言うのもなんだが」
 真朱は胡乱な視線を楸瑛に送った。楸瑛は二重三重の意味で申し訳なさそうな視線を返す。
 だって、ねぇ? ほら、アレがあるから。本当にお前が言うのもナンだこのやろう藍家直系似てないようでそっくりじゃねーか
「―――っ期待しないでおきますわ!!! ごめんあそばせっ!!」
 やり場の無い怒りをぷんすかと吐き捨てて、真朱は颯爽と踵を返した。






 ―――以後繰り広げられるだろう混沌からケツまくって逃げたとも言う。
 なんでもかんでも真正面から立ち向かってばかりいられない。
 体力がもたねぇよ!






 すったもんだの末に―――すったもんだはすったもんだですったもんだとしか言いようのないすったもんだだった。そのすったもんだのコンチキチキの果てに、楸瑛は宣言どおり実弟を藍家に隔離することに成功した。すごい疲れた。もう自画自賛。遠き藍州の三兄、褒めろ。私はやり遂げた。そんな気分。
 秀麗と影月に頭の羽を手渡し、珀明少年はアノ直後、顔を真っ赤にして叱り飛ばした挙げ句真朱同様付き合ってられないとズッカズカ踵を返してしまったので羽を渡し損ねてしまった。龍蓮は些かならず残念そうだったが、自業自得とも言う。多分わかってないがまぎれもなく自業自得だ。そこんとこ懇々と説教したい。無駄だろうが
 帰宅早々離れに引きこもった、湯上りほかほかの弟の濡れた髪に乾いた布を放り、楸瑛は少女の言葉を思い出す。

 見れば解かる、一目瞭然だから―――なるほど。

 なるほど、少しだけ、寂しそうに見える。
 ―――だが、しかし! 駄菓子菓子。これもまた宣言どおり為さねばならない。説教
「龍蓮。アレはいけない。真朱殿は嫁入り前のお嬢さんなんだから、うかつなことをしては彼女の迷惑となるんだ」
 龍蓮はチラリと顔を上げ、眉をしかめた。

「………愚兄其の四。何故か"四兄にだけは言われたくない"と私の中のナニカが告げるのだが」

 どっかから電波でも受信してんのかこの弟っ。
 脛に傷を持つ楸瑛はコッソリうぐぅと言葉に詰まる。この件に関して楸瑛は弟を叱れない。人のフリ見て我がフリ直せとはよく言ったものだ。後悔先に立たずでもいいっ。
「つ………つまり! 本気なら構わないんだ、本気なら! いや真朱殿は物凄く構うのだろうがこればっかりは男女一対当人同士の問題だから外野がどうこう言うのは無粋だからね。だけど戯れにしていいことじゃない!」

 あぁあぁ自分で言ってて耳が痛いっ。壮絶に痛い。

「………愚兄其の四―――ヒトノフリミテワガフリナオセ」
 やっぱりなんか受信しているとしか思えないぃっ
 楸瑛は息も絶え絶えだったが、見栄と義務感で表情を殺した。顔に出すのだけは耐えられない。
 全くもって遺憾ながら業腹でもあるし癪ですらあるが、ごもっとも。アノ件に関して楸瑛が龍蓮を説教する権利なんてない。つくづく無い。
 だがこれだけは確認しておかねばならない―――兄として。


「藍"龍蓮"。君にとって、李真朱とはどのような女人なんだ。答えによっては兄が動く―――」


 答えによっては紅藍両家で怪獣大決戦が勃発するだろう。藍家としては負ける気はないが想像したくない。国滅びない? 心の底からオッソロシイが、聞かねばならない。
 龍蓮はすべての表情を一瞬で消し去った。
「外野がどうこう言うのは無粋ではなかったのか愚兄其の四」
「―――龍蓮」
「……………………」
 あらがう様な無言。
「今はまだ、わからないというならそれも一つの答えだろうが……」
 吐息と共に追求を諦めようとした楸瑛の耳に。



「天末の花」



 ぽつりと、呟かれた言葉が夜風に吹かれた。
「なに?」
「遙か彼方、この世の果てに咲く花だ、愚兄其の四」
 千里を見渡す彼が言う。
「………それは、地の果てと言うことかい?」
「否、天の果てだ。徒歩も馬も軒も船も辿り着けぬ。身体は此処に、心は天末―――分かち難き二つが遠く離れて"彼女"は在る。故に、この世の凡夫は彼女の器に触れることは可能であろうと彼女の心に触れること叶わぬ。無何有の郷、広莫の野に独り花開く姿は誰に媚びることもない。愛でられるために咲いた花ではない――――生きることを選んで咲いた花だ」
 聞きたかったどれとも違う答えに、楸瑛はじわじわと目を見開いた。

 あの少女は。
 いつも不機嫌な顔ばかりしていて、だから時々魅せる違う顔が鮮やかだ。龍蓮の言を信ずるなら―――この世の果てに置き去りにした心の、手元にある一握りの感情で、泣いて笑って魅せるのだから―――きっと本当は、本来は、もっとずっと、眩しいくらいに表情の豊かな人なのかも知れない。

「遠き処から来た、遠き処に在る人だ。似ていると思った。しかし違った」
 今、帰る場所はあっても―――昔帰った場所―――生家を失くした人に彼女はよく似ている。
 事実、そうなのだろうと思う。
「マタタビの君の方が、ずっと寂しい」
 ―――いつも独りだった弟が言うのだから、そうなのだろうと楸瑛は思った。
 たとえ二人で歩いていても、根本的なところで独りずつで歩いていたから、彼女との道中はこの弟にとって居心地が良かったに違いない。同じようで違う孤独でも、違うようで同じ孤独。ひとりということ。心が触れ合えなくても心地いい温もりが身体にはある。
「ちがう」
「何?」
「寂しくても良いと彼女は言う。ナニカを忘れるくらいなら、寂しくていいと、彼女はもはや思い煩うことも無い」
「――――あぁ………なるほど。そういうことか」
 楸瑛には、龍蓮がもどかしそうに紡ぐ言葉の真意がわかった。
 彼女自身は、寂しいなんて、欠片も思っちゃいないのだ。
 ただ、彼女の傍にいる者が(/、、、、、、、、、)―――たまらなく"サミシイ"。


 こんなに近くに、傍にいるのに、何故ひとりで、いつも一人でいるような顔をして、独りでいるのかと。


 彼女に触れると、誰もが抱く疑問がある。
 誰もが抱きつつ、それを口にすると彼女は別段気を悪くした風もなく、しかし如才なく話題を変えて答えない。
 そんなことを繰り返して、いつしか禁句となって、誰も触れなくなった彼女だけの聖域がある。









 ―――きみは、どこから来たの(/、、、、、、、)、と問えず。









「絳攸がヤキモキするわけだ………」
 初めて会ったときのことを思い出す。
 何故声をかけたのかといえば、やはり、どうしようもなく、彼女が淋しそうに見えたからだ。独りぽつんと月を仰ぎ、玉兎の迎えを待つようで。
 そんな彼女を見て、自身の心にぽっかりと穴が開いたような気がしたからだ。
 その直後すべての幻想は瓦解したものだが。それはそれ。
 弟の思いは、友人の抱くものと同じだろう。




 傍にいるのだから、その時ばかりは、たったひとりでいるような顔をしないで、笑っていて欲しい。




 ―――とてもじゃないが、説教なんて出来ないと楸瑛は夜空を仰いだ。
 似たようなことをしでかしといて、弟のほうがずっと真摯だ。まったく己が情けない。
 情けないついでに龍蓮に礼儀と常識を教え込むのを諦めた。わかっていたが、そもそも無理だし












 こンのクソ役立たず! と罵る少女の声の幻聴がした。








(生まれた場所を失くした人って周りからはなんだか寂しそうに見えるって話です。本人はどうしようもないと思っていて時々泣くけど普段はそうでもないってヤツ)




モドル ▽   △ ツギ





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