会試の試験会場である礼部貢院、挙人の詰める予備宿舎棟に布沓の軽い足音が響く。
 その足音が、革沓の硬質なそれとは一線を隔する、女人ならではのものであることを十三号棟の者は知っていた。そこには掃き溜めに鶴がいたからだ。いい加減気づく。
 …………聴こえていれば。

 あぁ〜、うぅ〜、た〜す〜け〜て〜、もう、もうゆるして〜、あぁあ〜。

 ―――えぇっと。
 この扉の向こうは地獄か何か?
 試験中でテンパッてるとはいえ、いくらなんでも……と思わなくもない絶望の声に、李真朱は足を止めた。奇しくもそこが目的地だった。
 ………帰りてー。

 ひぃ〜、やめて〜、もう許して〜、笛の音が聞こえる〜、あぁ〜、聞こえるんだ〜、ぅあ〜、たすけて〜、おかあさ〜ん………ここから出してくれェェええええ。

「………この向こうで一体何が………」
 いや、予想はついてんだけどね?
 思わず立ちすくんでしまったが、いつまでも扉の前で突っ立ってても仕方ない。息を吸って、吐いて、意を決して顔を上げた。
 しかし溜息ついでに再び俯いてしまう。やんぬるかな。



 …………俺はいやだと言ったんだ。それはもう本気で抵抗したのだ。試験を司る礼部官吏でもないのに宿舎の管理責任者なんて絶対おかしい。例外処置にも程がある。だいたい李真朱は女官であって官吏ではないと口をすっぱくしてPH1くらいの濃酸性で力説したのに"適材適所なのだ"の一言で一刀両断って何。宿舎の管理人であって、試験官ではないからもう固い事いわないことにした、じゃねぇだろ。挙人の世話なら何かと心配りのきく女人の方が向いてるのではないかと思うのだ、じゃねーよ。あぁん? 第十三号棟には一人女人もいる。男では何かと不便もあると思うしですかそうですかへーほーへー。方便も此処に極まれリだ。
 李真朱とトアル青年とのある種の相性の悪さを力説しても、これがなかなか言葉では伝わらない。事件遭遇率および発生率の話である
 仲は悪くないんだけどね、仲は悪くないんだけどさぁっ!!



 ―――かくまってやった恩を仇で返しよってからに、覚えてろ王様ついでに兄と問題児のその兄めが。覚えてろ。何が起こっても知らねーからなっ!!
 閉ざされた世界で藍龍蓮と遭遇してみろ絶対何かが起こるに決まっている。ビバ、クローズドサークルってゆーか秀麗さまと影月君もいるってのが物凄く心配だ。巻き込んだら切腹ものだ。介錯人は付きますか?
 ………だから、嫌だ、それは不味いと絶叫したのにドチクショウ。



 以下延々と続く罵詈雑言を、すべて胸のうちに収める自分は大人だと思う。汚れちまった悲しみがじんわりと全身に伝播する。
 王様がごり押ししたって他の常識人が納得するはずがないだろうと言えば、反対しそうな面々は皆揃って「自分がやるよりマシだし」って官吏の責任感を問いたい。心の底から問い質したい。
 昨夜受け取った書面に鬱々と視線を落とす。
 そこには主上の勅印がばばんと押されており、そのうえに真朱の沓跡がばばばんと押されている。不敬罪一歩手前の所業である。
 思い出したら頭が痛くなった。ついでに胃も痛くなった。何よりむかっ腹が立って立って立って仕方なかったので回想を中断。
 いつまでも扉の前で、転入生のようにドキドキしてたって仕方ない。てゆーか馬鹿らしい。
 どうせ誰も聞いてやいないだろうが、礼儀として戸を叩く。
 反応はない。だろうと思ったが。
 猫を選ぶ。李真朱は様々な猫を飼っている。餌のいらない猫である。ガラスの仮面に喩えてもいいかわいいニャンコたちだ。
 有能な女官っぽい猫ちゃんがよろしかろう。君に決めた
 ニャンコをかぶって、真朱はその扉を開け放った。







「わたくしは新たに予備宿舎第十三号棟の管理責任者を勅命により拝命した李真朱である。此度の人事に不満のある者は主上に上奏するがよろしい!」
 ピシャリと放った第一声、超訳、文句があるならベルサイユにいらっしゃい







 返答はなく、奇怪な笛の音が木霊した。



 場違いな管理人の姿に、幾人かが口を丸くあけた。
 ぶっちゃけ、顔見知りの秀麗と影月の二人である。
 少女は彼らをさして注視せず、ざっとあたりを見渡して、怪音の主に視線を突き刺した。
 怪音の主―――これもぶっちゃければ藍龍蓮は、笛から口を離して顔を上げると、その眼光に真っ向から対峙した。
「…………」
「…………」
 バチッと、殺気が弾けた。
 笛の音に疲弊していた誰もが驚愕した。
 まず、ここ数日一蓮托生の運命を背負わされた藍龍蓮が珍しく感情をあらわにしている。それも恐らく負の感情だ。怒鳴られても邪険にされても勘弁してくれと哀願されてもぽぺらポぴ〜と笛を吹いては聞き流す、何考えてんだかサッパリわからない藍龍蓮が―――怒っている? というより、殺気立つまでに警戒をあらわにしているこれは如何に。
 対するはたった今高飛車に自己紹介してくれた女官、李真朱。どっからどうみてもほっそりした小柄なお姫さまだ。藍龍蓮が何をそんなに警戒することがあるのかサッパリわからない。それがやはり針鼠の如く毛羽立って、刺すような警戒心を隠しもせず藍龍蓮を射抜く。

 此処であったが百年目!! みたいな邂逅だった。

 双方は無言のままにメンチを切り、全く同時に視線を外した。
 李真朱は何事もなかったかのように、後方の椅子に着席する。
「自習を続けなさい。何かあればわたくしまで申し出よ。理があらば善処しよう」
 それだけ言うと、少女は瞑想するかのように両目を閉ざした。
 ―――ようやく、衝撃から息を吹き返した挙人たちがざわめく。
 え、女? 何で女? てゆーか勅命? それにしたってありえないだろう。何で女が―――また女かよ。
 秀麗と影月、碧珀明少年が眉をしかめたそんな声を。


 びひゃらぽふびゃひーーーーーーーー!!!!


 筆舌に尽くしがたい笛の音が切り裂き、幾人かの意識が根こそぎ刈り取られた。
「〜〜〜藍、龍、蓮っ!!」
 わずかに―――わずかに眉をしかめた新管理人が起立する。
「俗に適するを韻無く、性本と邱山を愛すといえど! 此処に在ると自ずと決めたのであらば人の生くること幻下の如しと聊か化に乗せて以て尽くせ!! それも復た自ずから然りと言えぬか!?」
 ししし 叱 り 飛 ば し た ーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!??
 それも、真正面から豪速直球!?
「世の塵雑を煩うも、過ぎれば友の真意を嘲笑うことになろう。いたずらに嘆く姿も過ぎれば復た見苦しく、どちらも其方の望む形ではあるまい」
 どこか呆れたように諭し、少女は吐息を零す。
 わずかに目を見開いた藍龍蓮は、じっと少女を見据えている。
「―――笛は控えよ」
「………承知」
 そして、彼は笛を置いた。
 せせせせせせせせせせ 説 得 し た ァ ぁ ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!
 当人たちを除いた、予備宿舎第十三号棟の人々の心が一丸となった記念すべき瞬間だった。
 にわかには信じられず、笛の音のやんだ、待ち望んだ静寂が怖い。恐い。わぁコワスギル。
 真朱は再び着席し、笛を置いた龍蓮は、だからといって勉強をするわけでもなく、しかし居眠りするわけでもなく、大人しくしている。

 ―――周囲の反応に、真朱は何を大げさな、と思う。

 藍龍蓮は自由奔放勝手気ままで何考えてんだかサッパリわからない風来坊で天衣無縫だが、ちゃんと人の話を聞く。その返事が中略されまくってかっ飛びすっぱ抜けているので聞き流されているように思えるのだが、彼の中ではきちんと会話が成立しているのだこれが。
 その内心を一から十まで理解できるわけは無いが、少なくとも、真朱が本気で叱り飛ばせば、いつだって龍蓮は本気で考えて自分なりの答えを出して、応えてくれた。龍蓮の結論の八割方は何でそーなんのっ!? と叫びたくなる代物だったりするが、今回は残り二割の当たりを引いたらしい。ラッキー
 真朱的には龍蓮はちょっと扱いが難しいものの、まぁまぁ素直な良い子だ。



 ―――現実を信じきれず、しかし待ち望んだ静寂にちらほらと自習を再開する者が現れ、いつしか誰もが自分の勉強で手一杯になる。
 その期を計って、真朱は椅子から立ち上がり巡回を始めた。どんだけ不本意な役目だろうと、やるしかないなら全力を尽くす。龍蓮に偉そうなこと言って叱り飛ばした手前、それだけのものはコチラも見せねばなるまいて。
 カンニング用紙みたいなちっこい紙を用意したりする駄目な子をそれとなく牽制したり、勉強そっちのけで有力子弟との縁故を結ぼうとする本末転倒の駄目な子を眼力一つで黙らせる。ちなみに今期の目玉である有力子弟たちはどいつもこいつも珍獣なので、そのようなことに精を出す輩は真朱の予想よりはるかに少なかった。礼部高官でもない真朱に挨拶に来る者もいない。わずらわしいことが無くて楽なくらいだ。
 秀麗と影月に頑張れと一言ぐらい言いたいものだが、それも公私混同となる。一受験者として扱うしかないのは結構ストレスだ。思いっきり贔屓したい内心を懸命に殺す。
 ほと、ほと―――そんな布沓の足音だけが響く。
 この調子でいけば、心の底から懸念していた殺人事件の発生も未然に防げるかもしれない。いつもであれば何が起こっても状況に任せる龍蓮さえ、最初の反応を見るに事件発生を警戒している。大切にしたい友達が、できたのかもしれないと思った。
 李真朱と藍龍蓮が全力で警戒している厳戒態勢の中でコトを起こせるツワモノはそうそう棲息するまい。
 ―――そう楽観した矢先だ。




 真朱は見つけてはいけない類のものを見つけてしまった。




「……………」
 壁だ。
 漆喰の白壁である。
「………………っ」
 ―――漆喰の白壁なのだが。
 よく見ると、よくよく目を凝らすと、真朱が足を止めた正面の二メートル四方だけ、かすかに色合いが違う。あ、嫌な予感
「………………………」
 嫌な予感の導くまま、壁を軽く叩いてみる。
 こん、と音が鳴った。
 こんこんこんコンこんこんこんコンコンンこんこん。
 連続して叩いてみると、その色の違う壁から返る音だけが、明らかに違う。
「……………………………っ」
 空洞音じゃん?
 こんこんこんこんコンコンコンこんこんコンコンコンコンコンコン。
「あ、あのー………」
 突如壁に張り付いてノックしまくる管理人の奇行に、一番近くにいた青年が思わずといった風情で声をかける。
「あぁ。やかましかったか、失礼。しかし――――これは不味いな……」
 どうしたものかと頭を悩ませる。
 此処、絶対何かある。うっかり発見してしまったが、このまま知らぬふりをするべきか、然るべきところに通達して指示を仰ぐべきか、悩む。
 壁に耳を貼り付けてみるが、特に妙な音は聴こえない。秘密の通路だとか、この壁の裏に誰かが潜んでいるなんてオチはあるまいと踏む。であれば放置していてもさほど問題はない、か?
「さて、どうしたものか―――」
「壊してみれば一目瞭然であろう」
「龍れっ!?」
 いつの間にか、背後に龍蓮がいた。
 龍蓮は真朱がそうしたように、鉄笛で色の違う壁を叩き比べる。ごん、ゴン。重さは違えどやはり明らかに返る音が違う。
百聞は一見にしかず
「こ、コラ寝た子を起こすなっ!! ちょっと待てぇぇぇぇぇぇぇぇェェッッ!!??」


 真朱の絶叫は遅く、龍蓮は鉄笛を壁に向かって振り下ろした。
 バキィッ―――そんな切ない破壊音が響く。ぱらぱらと漆喰の壁が木っ端と化した。


 か、壁壊したーーーっ!!
 壁壊したよ藍龍蓮。壁壊しやがったよ藍龍蓮っ!! いつしか彼らの一挙一動を見守っていた挙人たちの心の声。
「なんてことをこのお馬鹿っ………」
「ふむ。マタタビの君、大当たりだ」
「マタタビ言うなっ!!」
 もうもうと立ち込める粉塵に手を突っ込み、龍蓮はトアル物体を引っこ抜いた。
壁の中からコンニチワ。骨だ、マタタビの君」
 








「は、ははは。獣骨か………?」
 しかしの知識が無情にも告げた。



 あ〜大腿骨、つまりは紛う方なくあぁ人骨だねと。
 ―――ある意味、死角だった。これから起きるかも知れない事件を警戒するあまり、すでに起こっていた事件を発掘してしまうとは、死角つーより不覚だウガァ
 名探偵役とワトソン役が出会うと事件が起こる確率は順調に統計を集めている。百パーセントとか気づきたくないと真朱は立ち込める粉塵以外の理由で瞳を濡らした。








 予備宿舎第十三号棟の壁より白骨死体発見の第一報が届いた執務室では、それぞれの兄が盛大に頭を抱え、王は苦渋の決断を下したという。











(不吉なジンクスは未だ健在。しかしまだマシな方だと涙ながらに安堵したとかしなかったとか)



モドル ▽   △ ツギ




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