イた―――痛い、痛い。イタイ痛いマジで痛いホント痛い。 一瞬、息が止まった。口の中が鉄臭い。痛い。 おっかなびっくり身を起こせば、脇腹がさらに痛んだ。 「―――っ」 脇腹が痛い、痛い。しかしそれだけだ。木っ端の如く吹き飛ばされて叩きつけられたはずの背中や尻は奇妙なほど痛くない。何故。 疑問はすぐに氷解した。地面や壁が柔らかい。それもそのはず、半身が布団に埋もれていた。 ―――寝具の山に突っ込んだのかさすが妓楼。なんて悪運。ぼたっと枕が落ちてきた。 自分の運も捨てたモンじゃないかもしれない。真朱は口の端を吊り上げた。 「ぎゃあーーーあーーあーーあーーあーーあーーあーーっ!!」 大男は右耳を抑え、泣き喚いていた。 両手で押さえつけても、噴出する血がびちびちと床に赤い水溜りを作っている。 絳攸と秀麗は―――無事だ。なんか青ざめて呆然としている。早く逃げろっつの。 影月の姿は見えない。逃げてくれたならそれでいい。慶張は反対方向で伸びている。時間があったらアイツの下半身も剥いてお婿にいけない身体にしてやろう。 「耳ィ、俺の耳がぁっっ!!」 真朱はいっそ不思議そうに泣き喚く男を見つめた。 人を平気で殴るやつはどうして、自分の血が流れるのをあんなに恐がるんだろう。自分とまるで逆だ。 流れるのが己の血であれば、真朱は別に恐くもなんとも無い。自分の血が赤いことぐらい、とうに知っている。青とか緑だったらさすがに慄くだろうが。 足音を立てずに距離を詰める。 痛む脇腹は押さえない。荒い息も隠す。 ――― びちゃり。 血が泡立った耳朶の欠片が、男の目の前に文字通り唾棄された。 「あぁーーーあーーあーーあーーっっ!! 耳ーみみーーっ!!」 男は吐き出された肉片を慌てて拾う。まるで今繋げれば千切れた耳朶が元通りになると信じているかのように、拾ったそれを耳に当てる。 真朱はその様子を冷めた目で眺めつつ、泣き濡れた顔を上げた男に向かってそれはもう天使のように微笑んで見せた。 「次は喉笛を噛み千切ってやる」 鮮血を口紅に、真っ赤な唇が笑みを刻んで告げた。 「―――ッヒ」 一歩近づく。 「ひ、ひぃっ」 恐怖に目を見開いた大男が、次の瞬間吹っ飛んだ。 「…………あ?」 真朱は我が目を疑った。 飛んだ。それはもう屑籠目指して放り投げた紙屑のように見事な放物線を描いて空を飛んでった。 「はぁ?」 「……まさか影月が自分から酒を飲むとはな」 少年は釣りあがった猫目で真朱を見やった。 「影月くん?」 「俺は陽月だ」 ふっとその姿が掻き消える。再び大男が錐揉みを描きつつ吹っ飛んだ。 それを目で追うが、追いつかない。 影月―――影月だったと思う。人相が違ってまるで別人だったが、身体は確かに影月のものだった。陽月って……。 「………双子だと思ってた。華眞の嘘つき」 影月はおっとりしてて、陽月はしっかり者で、二人とも自分には勿体ないくらい優しい子なんですよ、か。ふぅん。 呆れたように呟いたのが限界だった。真朱は崩れるように蹲り―――。 「ぅおげぇ〜〜〜〜〜〜っっ」 吐いた。 「―――無様なヤローだなお前」 「るせっ、なりふり構えるほど強くねーんだよっぅおえ。うえぇぇぇ〜〜〜」 えろえろえろえろえー。嫌なもん噛んだ噛み千切った。悪心が収まらず真朱は胃液まで吐いた。それでもまだ気持ち悪い。 「うげぇっ、げ、げぇええぇぇぇ」 「汚ねーな! お前あのボケたオッサンとどういう関係だ」 「じゃあ見んなっ!! げぇ、ぇ、ぅ、旅先で―――おげぇ」 「吐くか喋るかどっちかにしろっ!!」 じゃあ吐く。 真朱は陽月を無視して一身に吐いた。えろえろえろえろえー。 甘んじて言葉の綾を真に受けさせてもらう。もともとたいした中身の入っていなかった胃を空にして、なおも収まらない吐き気のまま胃液まで空にする。喉が焼けた。 吐くだけ吐いて、吐けるだけ吐いて、口元を拭った。 一心地つけて顔を上げれば、青筋を浮かべつつもまだ陽月はそこにいた。 「……昨日文が来た。元気だって」 「んなこと聞いてねぇ」 「元気で、頑張ってるって、約束。会うことがあったら、伝えてくれって伝言。ありがとう、元気です。二人とも愛してます。愛してます愛してます。愛してます愛してますで怒涛の五連発」 真朱は伝言を忠実に再生した。 「そんなこと聞いてねぇ! んなどうでもいいこと影月の馬鹿にでも言っとけ!」 「ははは照れない照れない。影月くんにもちゃんと伝えとくし。うぉげぇっ」 まだ吐くか。 「おいまさか、頼まれたって、それだけかよ」 「貴陽で会ったら―――伝えてくれって。助けてやれとも手を貸してやれとも頼まれちゃいねーよ。頼むわけねーよ。自慢の息子たちを信じてんだろ―――ンなこと、お前らのほうがよく知ってんだろ……っぅげ」 助けようとしたのも手を貸そうとしたのも真朱の意志だ。そう、己の事情と意志のままに。 肩の荷が下りた気分だ。絶対二人とも一緒にいるから大丈夫仲いいんですよーあの子たちっ―――て、こういうカラクリとは知らなかったが。ゴルァ華眞あのやろー。言っとけっつの。 話している間にも、陽月は群がる破格戸を片手間にふっ飛ばしている。真朱も心してブツも愚痴も吐けるというものだ。 うげー。 「……馬ッ鹿じゃねぇの」 「褒め、言葉だなっ」 呆れたような罵詈雑言も、今も昔も小賢しいといわれることのほうが圧倒的に多い李真朱にはいっそ清々しい。 「お前、無様な男だな」 「俺が男に見えんだったらそれこそ最高の褒め言葉だ」 例えそれがそれがどんなに無様でも。 陽月は朝廷に巣食う化け狸並みに目がイイのかもしれない。あのジジィはこっちの魂魄の性別を知っておきながら小娘扱いするヤな奴なのだ。あれは敵だ。 ―――男の時分でさえ、大男相手に大立ち回りなどかっちょよく出来たとは思えない。であれば、この身体は頑張った。踏ん張った。やれば出来るのかもしれない。 「男にしか見えねーから無様なんだよ」 「はっ。じゃあ俺が女だったら?」 気まぐれで戯れの問いに、陽月は猫目を細めて―――笑ったように、見えた。 「まぁまぁイイ女なんじゃねーの?」 虚をつかれてぽかんと口をあける。 一拍のち、吐き気も脇腹の激痛も忘れて、真朱は爆笑した。 「は―――ハハッ、あはは、あはははははははははははっっ!!! マジで!? あは、あはははははははははっっ!!」 笑い転げながら、いつの間にか涙がこぼれていた。 何が変わったわけでもないし、出来ないことが出来るようになったわけでもないし、強くなったわけでも、今以上弱くなったわけでも、何も変わらないのに、涙が出た。 嬉しくない―――嬉しくなんかない。だけど知らなかった。 悔しくもない、なんて。 「おま、お前ら親子、そっくりすぎっ」 華眞と同じ事を言う。笑わずにいられなくて、真朱は忙しない呼吸を繰り返しては笑い転げた。 そうだあの時も、嬉しくなくて、悔しくもなかった。 そう、誇らしかった。 「あぁおいふざけんな誰があのボケとっ―――ち、酒が切れる」 ふらりと身体を崩した陽月を真朱は笑いながら抱きとめた。いやこのままじゃゲロに突っ込むし。 「影月に伝えろよ」 真朱はわずかに目を眇め、無言のまま頷いた。 影月と陽月―――どっちが上位人格かなんて、考えなくてもいいことだろう。影月に記憶が無く、陽月がどちらの記憶も有して―――やめろ。華眞は二人の息子と言った。余計な分析をしてしまう己の性に舌打ちし、もう一度、ただ頷く。 「約束だし、約束する」 返事はない。 試しにぽよぽよしてみた。丁度イイ位置(Dカップ上)に顔があるし。ぽよぽよぽよん。 反応がない―――つまらん。 「って、寝てるし!?」 大物。 毒気を抜かれたような気分を味わって顔を上げると、痛みをこらえたような顔をした兄が駆け寄ってくるのが見えた。 久しぶりに見る―――今にも泣きそうな顔をしている。柄にもなく切なくなるから、そんな顔しないで欲しい。 「―――泣かないでくれよな」 怪我するたびに、年が年だけに痛みじゃ泣けない自分の代わりに泣いた少年がいたのを思い出した。意地っ張りの癖に、そのときだけは、目を潤ませて自分が怪我をしたかのように痛々しい顔をして、真朱の不注意を説教しながら手当てをした。それがまた下手くそで笑えたのだが、笑ったら―――。 笑ったら―――……、怒るんだ。 泣かなくなったのは、いつからだっけ。そう、そうだ、その背中に庇われるようになってからか。 「無茶をするっ………っ!!」 「したくてしたワケじゃねー……」 いつもの憎まれ口に答えたのは、言葉じゃなくて震えた指先で―――確かめるように、目元から涙の跡ををなぞり、鼻筋を通して頬に散った血飛沫を擦る。 ただでさえ化粧の崩れた無様な顔を、さらに掻き回してくれてるわけだが、まぁ構うまい。鬘もひっぺがして髪もぼさぼさ。今更だ。 「なきむし」 「誰がっ……」 追い抜かされて、置いていかれたようで、弱さを庇われたようで、悔しかったけれど。 「なんだ―――お前もただ、俺が怪我するの、嫌だっただけ、だったんだなぁ……」 「何を―――当たり前のことをっ」 「うん。当たり前のことだった―――はは、悔しがって、損したぁ」 気が抜けた。 簡単な、当たり前の、目の前にある、それが答えだったのに。 「無事でよかっ……っ」 眠る影月ごと抱きしめられて、逝ったっぽい肋骨が絶叫を上げたが、心配かけたから許す。すげーイタイが許す。許す。 ―――許せるうちに離せよ? 痛みで気絶するぞ。 やっぱり貴族の嬢ちゃんやらしとくには惜しいと親分衆に勧誘されたりしたのは蛇足。 (………耳朶って裂けやすいんですよね。結構簡単にビリッとあはは。にしてもこの話で戦闘っぽいシーンが書けるとはねー楽しかった。二度とないだろうが) |