李真朱は有毒である。食べるな危険、食べたら危険。 名付け親はどこまで理解してこの名を少女に与えたのか、考えるほどに愉快になる。面白い。まるで少女のその後を全てを見透かしていたかのような命名だった。あぁ侮れない――。 真の朱。深い赤。 毒色は高貴に赤い。 食べるな危険、食べたら危険、触れることさえやめたほうがいい。常識だ。 真朱―――水銀の赤だ。 「うなぎひめーうなぎひめだーお菓子くれー」 「殺されてーのかこのクソガキどもが」 夕暮れの下街を歩く真朱は、無邪気で残酷な子供たちに大人気なく底冷えした声で応じる。あくまで笑顔を崩していないところが少女をよく知るものから見れば恐怖なのだが、知らないとは幸せなこと、着たきりの粗末な衣装に身を包んだ子供たちは真朱の背後に立ち込める暗雲に気づかない。 不愉快千万な渾名に激昂しかけたが、そこは大人。自称大人。通算精神年齢三十路突破。いい大人。この子らぐらいの子供がいたっておかしくない年齢。落ち着け。 「―――、俺は急いでんだ。時間もないしぶっちゃけ寒いし物騒だから早く帰りたい。お前らに構ってる暇はねぇ」 「お菓子ー」 「持ってない!!」 「嘘だー、その重箱お菓子だろー」 わらわらわらと、誘蛾灯の如く幼い浮浪児たちに群がられ、実力行使で蹴散らすわけにもいかない真朱は往生する。ああぁ道を間違えた。大人のたむろする酒楼の並ぶ道よりは、子供の縄張りである細い道を通ったほうが安全かとヘタレた判断を下した自分を呪いたい。危険じゃなかったがこの道はウザかった。別に邵可邸に訪ねるわけではなかったから軒を使えばよかったと今更後悔するが先にたたず。歩いて自分の目で街の様子を確認したかっただけなのだが。 「これはお菓子じゃない! 俺は仕事中なんだ! マジ急いでんの!!」 「なんだー」 「ちぇー」 「つまんなーい」 「じゃあなにしにきたんだよー」 「お菓子ー」 「やかましぃ!!」 ついに大人気なく切れて足が出る。 軽く蹴られても遊んでもらってるくらいの意識しかないのか、真朱を取り囲んだ五人の男の子はきゃらきゃら笑う。邪険な対応にもめげない子供たちはしたたかだ。この寒いさなかに薄着なのは、子供は風の子なのではなく、着る上着がないから、ただそれだけだ。鼻の頭と頬を赤くした十にも満たない子供たちはこのあたりで夜露を凌いで日々を生きる浮浪児たちで、多少顔見知りでもある。 「お菓子が欲しけりゃちゃんと勉強して賢くなって、俺の会社に就職して自分の力で買え」 子供は欲しいものに躊躇を持たず要求する。キリがないし、真朱は慈善家でもない。理由もなく菓子を振舞うのは施しになるため避けているが、慶事に便乗して時折ちいさなお菓子を配ることはあった。大抵は人任せなのだが。 「べんきょーなんてつまんねー」 リーダー格のやんちゃ坊主の口答えに、真朱は肩をすくめる。豊穣祭の賭博の寄進は、この辺の子供たちに私塾を作ることに使われたはずだ。親分衆は約束を破ることは無いし、一応確認だけはした。勉強なんてつまらないという言葉も、勉強をしてみたからこそ返ってくる言葉だ。 「好き嫌いはあるだろうが、文字も読めんといらん苦労をするぞ。計算が出来て損することはないはずだ―――例えば俺が百個の飴を持ってきた。五人で平等に分けろといわれてお前が受け取ったのは十五個。さぁどうする?」 ガキ大将を指名する。 「食べる!」 「ハッ、ばぁーか!!」 真朱は鼻で笑ってやった。大人気ないったらない。 「ほんとばかだぞ。百を五で割ったらひとり二十個じゃんよ」 「だれかが五個ちょろまかしたってことだぜー」 「そーそー、そゆこと。お前らは賢い。そのまま勉強してうちの会社に来い」 真朱、青田買い。褒められた子供たちもまんざらではないらしい。この一風変わったお姫さまは優しいんだか優しくないんだか子供目にはわからないのだが、たまーに褒めて白い綺麗な手で頭をなでてくれる。そんなことを彼らにしてくれる大人は今までいなかったから、面映く、ふんわり香る花の匂いが有頂天にしてくれる。真っ赤な頬にさらに赤みが増した。 子供とはいえ男をたらしていることに真朱は気づいていない。 気づいていたら盛大に顔をしかめたはずだ。 「な、なんだよっ、俺だってそれっくらい」 わかっていたら即食べるなんて面白い答えは返らない。 「じゃ、五十割る四は」 「………………………………………………十二、と、二個あまる」 「やりゃー出来るじゃねーか」 ヘッドロックついでに褒めてやった。褒め方もいちいち男らしいかもしれない。 私塾の講師はちゃんと仕事をしているらしい。子供たちも、文句を言ったりしても、きちんと勉強しているのであれば自分の力でお菓子を買える様になるだろう。真朱は少し、安堵の吐息を白く零した。 「あ! お前ら青巾党って奴らについてなんか知ってるか?」 下街に根を張る子供達は情報通である。足止めついでに気になっていたチンピラどもについて尋ねてみると、子供達はいっせいに眉をしかめた。 「あいつらキライ」 「よっぱらった奴らになぐられた」 「城門でカモをみつくろって金と変な札をまきあげてる」 「あいつら親分衆をしらないんだ」 「カモにされたやつら、札をとりもどすのに大金つんでる」 告げ口のように次々に言い募る子供たちの言葉に真朱は青ざめた。 「マジか」 「ほんとだよ! おれたち見たんだ!」 それはマズイ。マズすぎるよ。 子供たちが知っているということは、遅かれ速かれ親分衆の耳に入る。入ってしまえば彼らのことだ、けじめをつけるために一斉狩りをするだろう。やばくない? やばい。 「やべーネタ掴んじまった! さっさと然るべきトコに伝えてズラからにゃー狩りに巻き込まれちまうじゃねーか!」 一番に心配するのが保身である。真朱は荒事に向いていない自分をよくよく自覚している。情けないが。本当に―――本当は、ほうんとうになさけないのだが。 だって腕立て伏せも出来ないんだぞこの身体!! 「ちょっと俺急ぐわ。いい話聞かせてくれた! 後で礼にお菓子届けてやるよ、何食いたい!?」 「飴!」 「焼き菓子!」 「果物!」 「揚げ菓子!」 「饅頭!」 返答は五人ばらばらだったが、走り出した真朱は後ろ手で了解の合図を送った。子供たちの歓声が上がる。 「今日明日あたりやばいかもしれないから、ヤバイと思ったら隠れてろよお前らー!!」 わりかし素直に返ってきた子供たちのいい返事を背に、真朱は夕暮れの下街を風呂敷抱えて大爆走。 目指すは姮娥楼。 「旦那、旦那ーーーー!! 朱李花の真朱だ! 胡蝶姐さんと仕事前に約束してんだけどっ!!」 花街一の老舗妓楼、姮娥楼に息をせききって駆け込んできた少女に、店開き直前の時刻、集まった気の早い客は目をひん剥いた。 仕立てのいい高価な衣に趣味のいい櫛をさした一見して場違いな深窓の姫君である。それが裾も気にせず盛大に翻して疾走、門番を目線一つで通過して慣れた調子で妓楼の旦那を開口一番に呼びつけたのだ。横柄とも取られかねない態度だが、店先に控えていた若い衆は、一人が奥に下がり旦那を呼びにいき、もう一人は荒い息の少女に慌てて水を差し出した。狼藉者どころか賓客待遇だ。 「あぁあありがとっ……」 差し出された水を一気に飲み干して、軽く一息をつく。無口な青年は一つ頷いたのみだが、少女の礼に少しだけ、目元を染めた。真朱は気づかない。 「いらっしゃいませ真朱さま! お久しぶりですねぇ」 旦那が現れ、此処一年ほど後宮に巣食っていたため直接訪れることが少なかった真朱は挨拶もソコソコに用件を切り出した。 「お久ー。胡蝶姐さんにお届けものにあがったんだけどさぁ、ちょっと道々物騒な話を聞いて」 「―――あぁ。それで胡蝶に?」 「んにゃ、品物のお届けものが本命だったんだけど……」 重箱を包んだような風呂敷を眼前に掲げる。もともとの約束はこれの宅配だった。社長のする仕事ではないが、胡蝶は真朱の会社の大株主である。それぐらいの融通を利かせてもいい。個人的にも友人だ。 「お急ぎでしたら歓迎の酒肴はまた後ほどにいたしましょう。胡蝶は室にいます」 「わかった。ありがと」 無口な若衆が無言のまま真朱を先導する。兄ではあるまいに、広いとはいえ馴染みのあるところで迷ったりはしないので断ろうとしたのだが、このような場所は少女が一人でうろうろするべきではないと何故か旦那に食い下がられ、しかも青年も一歩も引かなかったので、真朱は無駄を惜しんで胡蝶の室に案内されるに任せた。旦那の采配にも、引かなかった青年の機微にも真朱はまるで気づかない。それどころではないのを差し引いても、鈍い―――というよりそのあたりの回線が断絶して久しいのだ。 「胡蝶!!」 「―――あぁよく来てくれたねぇ、真朱。こっちにお入り」 花街随一の妓女、胡蝶が店だしの準備を終えて輝かんばかりの装いで迎えてくれた。正直この艶姿を拝めただけで全力疾走した甲斐はあったと真朱はだらしなく見惚れるところだった。 伸びかけた鼻の下を右手で隠す。 「久しぶりだねぇ。此処のところご無沙汰じゃないか。秋にこの胡蝶に紹介状だけ頼みにやってきて酒も飲まなかったしつれないこと―――文は届いたのかい?」 「昨日読んだよ。今日は返事のついでに注文の品を届けに来たわけだけど」 そう言って風呂敷包みを差し出す。 厳重に梱包したから全力疾走にも耐えられたはずだが、もともと割れ物注意、慌てていたとはいえぞんざいな扱いをしてしまった。 「ちょっと走ったから……大丈夫だとは思うけど、中身一応確認して……」 「走った? またぞろ変な男にでも口説かれたんじゃないだろうね? だから一人でうろうろするなと口を酸っぱくして言ってるだろうに」 「あっりえねー。そんなんじゃなくて、気になることを耳にしてさぁ、慌てて」 変な男に口説かれたなら容赦なくタマ蹴りする。李真朱、元男としてあの筆舌に尽くしがたい痛みを知りつつ情けはかけない鬼畜である。 女の中の女である胡蝶にいたっては、小柄で非力な少女の護身に積極的に勧めている始末。無礼な男はタマ蹴って門前払い、女の常識だとか。 「そっちもかい。あぁちょっと、一つ頼まれておくれよ。秀麗ちゃんと男の子、危ないかもしれないから保護しに行ってくれないかい? ほとぼりが冷めるまでウチで預かったほうが危険が少ない」 真朱を案内して下がろうとしていた青年を胡蝶は呼び止め、お願いという名の命令をする。青年は一つ頷いて、最後にちらりと真朱を目に収めてから退出した。 「………隅に置けないねぇ真朱も」 「あにが?」 わかってないから。 「気になることって? なんで秀麗様の名前が出てくるんだ?」 秀麗が此処で帳簿付けの賃仕事をしているのは知っていた。故に真朱は面識の無い頃は、夕暮れに帰宅する秀麗と顔をあわせないように入れ違いに訪れていた。 「秀麗ちゃんというかね、昨夜藍さまに預けられた小さな男の子がいたのさ。御代はいただいてるから此処にいていいって言ったんだが遠慮してねぇ、宿の無しのところを秀麗ちゃんが連れて帰ったんだよ。その子がなにやら青巾党の馬鹿どもと悶着あったらしくて狙われているみたいなのさ」 「は!? 藍将軍!? 小さな男の子!? またなんかに巻き込まれてんの秀麗さま!?」 この会試直前の大事な時期に。真朱は軽く眩暈を覚えた。 ―――秀麗であれば、あの"木簡"を持ち歩かず家に保管しているだろうが、拳人であることに代わりは無い。大事な身だ。 そう考え、胡蝶の美貌に危く和みかけた真朱はもう一つの用件を思い出した。 「そう、そうだよその青巾党がさぁ! 変な木簡集めてるって子供たちが言ってたんだよ! 関所の通行札の可能性もあるけど、もし"アレ"だったらどーすんの!?」 胡蝶はガラリと顔色を変えた。 「それ、確かかい?」 「ガキの目撃情報。別にあいつらが嘘をついて得することはねーと思う。青巾党の奴らってよそ者だろ? 貴陽の不問律なんて絶対知らねーぞ」 暗黙の了解などよそ者にはわからない。そのことも、地元のものにはわからない。真朱が気づいたのは、彼女が未だに異邦人の感性のまま生きているからだ。 「………もう数日泳がせるつもりだったんだけどねぇ。そうと聞いちゃグズグズしてらんないね」 「いや、一応確認を先にして欲しいんだけど……一人でもいいから、実際に被害にあったって奴の話があれば確定でいいだろ」 情報源は子供たちなので、信憑性がないとは言わないが、真偽を確認してからでないと動くのにはやや不足である。 損にも得にもならないからといって、それが信用になるわけがない。世には愉快犯や虚言癖という理のない嘘をつく輩がいる。嘘であればもっとマシな嘘をつくだろうといったところで、翻してへたくそな嘘が真実になるわけがないのだ。少なくとも、真朱はまず、信じない。まともな嘘すらつけんのかと嘲笑って終わりだ。 ―――騙したところで一文の得にもならないだとか、嘘ならもっとマシなものをつく―――そんな拙い言葉で、簡単に信用する人物など生憎コッチは全く信用できやしない。真朱なら"客観的判断を下せないおバカ"という烙印を押す。どんな取引にも相手にしたくない。論外だ。 嘘を言っているような目ではなかった―――これも論外。問題外。本人がそうと信じて勘違いしてたら無条件で信じるというのか。というか目を見てなにがわかるんだと思う。文学的表現を現実に持ってくんな。主観的事実は客観的事実とイコールではない。 ―――傍から見れば荒唐無稽な己の来歴を、真朱が語らない理由の一端でもある。 それは―――百万言を費やしたところできっと無駄に終わる。伝わらない。遠すぎて。 だから少女は故郷を決して語らない。 伝わらず道端に打ち捨てられるだけの言葉など、悲しくて紡げない。それが懐かしい―――遠い場所を象る言葉であればこそ、捨てられてはたまらない。 「その線を踏まえて、動いたほうが良いって事だねぇ。さすがは鰻姫、耳が早くて助かるよ」 ………ここにもその名が流布していた。褒められてない、褒められてないっ。 「頼むからその呼び名は忘れてくれ胡蝶……………お偉いさんに出張ってきて欲しくないんだろ?」 「そりゃそうさ」 親分衆の一人として頷く胡蝶は目にも綾な花街一の妓女にして女傑だ。迫力の美貌に大の男に勝る胆力。本当にいい女だ。 「…………それにしても、藍将軍が小さな男の子を預けに来たって……なんでだ? その子なんなんだ?」 「さぁねぇ。深くは聞かなかったけど、名前は影月君っていう、おっとりしたいい子だったよ」 「え? 影月………?」 記憶の琴線に触れる名前だった。真朱は瞬く。 その仕草に胡蝶も目を丸くする。 「まさか、知り合いかい? あんたの顔の広さは大概だけど、でも昨日やっとこ貴陽にやってきたばかりだって言ってたけどね」 「えー……え? いや、直接の知り合いじゃないんだけど、知人の知人かもしれんというか、家名!」 「杜。杜影月って名乗ってたよ」 胡蝶の返事は簡潔、真朱は絶句。 どういう偶然だと思いつつ、だがこの時期に貴陽に訪れたというなら―――。 果たすべき、約束が真朱にはあった。 「…………此処にいたら、会えるわけ?」 そろりと伺う。 「秀麗ちゃんともども呼んだからねぇ」 「……待っててもいい?」 「断るわけがないだろう―――あんたは私ら妓女の恩人なんだから」 胡蝶に優しく頬をなでられ、真朱は危く鼻血を噴くところだった。 ―――月の名の子供に思い出した知人は、まるでこのことを予知したかのように先日手紙を受け取ったばかりだ。 彼は照れも無く、"大好きです"と少女に笑いかける人だった。旅の道が偶然重なり、少しだけ共に歩いて、今生の別れを告げた。 大好きです、その言葉は李真朱にして反発の余地も無く―――今も尚、ただ誇らしい。 彼の愛した息子の一人。会えるなら、会わねばならない。 果たすべき、約束がある。 (つまり、知り合いは○○。伏せる意味も無いが主人公顔広すぎ。うん、広すぎ。でもさすがにこれで全員かな) |