一人では無理だとの結論に達したとき、李真朱はただ一人の例外を除いては、人に頼ることにしている。 人には向き不向きが合って、そして無限ともいえる可能性があるのだ。使わない手は無い。ただ、真正面から頼ると言うよりは、報酬を約束する仕事相手として向き合うことが多いため、頼る甘えるといった評価を受け付けない硬質さが、高貴な身分のお姫様のワガママとは一線を隔することになっている。例えば味噌醤油紅茶乳製品、すべて彼女が独力で作ったものではない。それぞれ似た仕事に携わっている専門家に、うろ覚えの知識を提供しつつ相応の報酬を支払って作ってもらったものだ。 紅家当主に養子として迎えられたとき驚いたのは、他愛ないワガママが"命令"となると知ったことだ。驚いたなんてものじゃない。そんなつもりで言ったんじゃないと、慌てたって後の祭り。君君ちょっとあのお月様を取って来いやぁとあからさまに無理難題を吹っかけようと、出来るわけねーだろ馬鹿野郎! と言い返すことすら許されない"身分差"という隔たりを、早々に思い知ったのだ。うかつに口も利けないと慄いたものだ。 だけど、それが当たり前な世界だ。 たまたま、拾われた先の先が超大物だったために奇しくも"命令する側"に回ってしまった真朱は、故にこの世界の常識以上に"命令される側"に配慮をする。それでも彼女の常識では足りないくらいなのだが、要するに相応の報酬を約束することで、己の要望が"世にも恐ろしいワガママ"と化すことを徹底して避けている。あくまでギブアンドテイクにこだわり、ビジネスパートナーという身分に相手を位置して対応するという手段を用いているわけだ。元の世界にも序列はあった。しかしそれは身分差というほどあからさまな断裂ではなかった。彼女は未だに命令することにもされることにも意識して慣れていない。もともと中身は庶民で身体はどこぞの馬の骨、他人に指先一つで命令を下す真似など出来るはずも無い。この世界に生まれついていれば自分は確実に"使われる側"だったろーなーとの認識が彼女にはある。 結果、仁義に厚いなんて評価を賜ったあかつきにはちゃんちゃらおかしくて笑えて泣けた。 とても遠い世界にやってきたのだと、思い知った。 李真朱は人を使うことに躊躇いは持たない。出来ないことは出来る人にやってもらう。そのほうが早いからだ。ただし決して命令はしない。 電気も無い。使い慣れた便利な道具も無い。機械もない。そういう世界では"人"が最大の動力であり道具なのだ。使わずにはやっていけないが、だからといって、たまたま収まった立場でそれらを使役するのは釈然としない。無報酬で酷使だなんて論外だ。とんでもない。何様だと言うのだ。 ―――しかし、常識の違いと言うものは難物で。 家人にさえ命令をしない真朱はどこか他人行儀だと受け取られるらしく、もっと気軽に頼ってくれてもいいと言われてしまう。それはむしろ好意から発するありがたい申し出だが、いまだうまく応えられない。 だから、いつの間にかすっかり忘れてしまったらしい。 "甘え方"と"頼り方"。あくまで無償のやり方を。 の頃は、どうやっていたんだっけと首を傾げる。あの頃は、意識もせずに、むしろ甘えてばっかりで、簡単に出来ていたはずなのに。 「君の立場なら己を戒めて当然だとも思うけど、一歩間違えれば金で全てを解決しようとしているとも取られてしまうよ、真朱殿」 「ぐぁ」 真朱は頭を抱えて卓に突っ伏した。そんな外道にだけはなりたくなかったから常用してきた方法だったのに、その可能性を考えなかったわけでもなかったが、それ以外にどう頼めばいいのかわからなかった。 「あぁ、責めているわけじゃないよ? いや、責めているのかな。つまり水臭いなぁと思うんだよ、私としてはね」 穏やかにたしなめる楸瑛に、真朱はつい情けない顔を晒してしまった。 「いやでもやっぱり"ただ"はいかんですよただより高いものはないんですよ!? 藍将軍に金で払うつもりはもとよりありませんけど、でもなんか相応のものをお返ししないとっ」 「だから、いらないんだって。君はただお願いするだけでいいんだ。小首をかしげて上目遣いに"お願い"と可愛くおねだりすればもう完璧」 耳に痛い楸瑛の指摘にテンパッた真朱は深く考えず実行した。 手を組んで、小首をかしげて角度よーし、目を潤ませて目線よーし。 「お・ね・が・い」 「そうそうそれそれ」 兄がいれば"何やってんだお前ら馬鹿か"と突っ込まれたに違いない。 「そっかなーんだそれでいいんだ―――って、違う!!」 我に返った真朱はすぐさま何やらせんだとばかりに楸瑛を睨んだ。 「………いや、今のはちょっとグッと来たね」 「くそぅ……こないだ迷惑かけたばっかりだから飛び蹴りも出来ねぇっ」 代わりとばかりに茶器の縁をガジガジ噛んだ。遊ばれている、この俺がっ!! 「俺は真面目な話をしてんのにっ! 茶化さねーでちゃんと意見を言ってくれよぉっ」 「茶化すだなんてはとんでもない。私はいたって真面目だ―――私は、花を受け取っているんだよ?」 「あ」 その根本的な事実を恐れ多くも忘れていた。普通忘れない。 真朱はぽんっと手を打った。 「あーあーあーそっかそっか! 最終的に王様のためになるのなら、俺なんかに頼まれるまでもないのか!」 「そういうことだね」 「………とゆーことは、同じ理屈で絳攸も巻き込めますね?」 「…………………………巻き込むのかい?」 楸瑛は酢を飲んだような顔をした。 「巻き込みましょう」 全く躊躇無く頷かれ、楸瑛は天井を仰いだ。 「なんというか………巻き込まれた絳攸の胸のうちを想像すると涙が出てくると言うか想像したくも無いというか……鬼だね、真朱殿」 「なんで?」 複雑な兄心に頓着しない妹は、さも不思議そうに首を傾げてくれた。多分、本当にわかっていないのだろう。その点に関しての思考を彼女は兄同様放棄している。 「目指せ一石五鳥二兎追うものは十兎得る!! 地引網のごとく根こそぎ獲物を狩りとって、発つ鳥跡を濁さずどころかぴかっぴかにして旅立ってやらぁ!!」 小さな拳を握り締め、真朱が宣誓する。 そのあまりの男らしさに、楸瑛はおぉーっと観客気分で拍手を送るが実のところ主演女(?)優じきじきにご指名された相手役だ。 えげつないまでに手段を選ばない提案に一部楸瑛でさえ口元を引き攣らせることもあったが、暢気に茶をしばきつつ少女の朱い唇から紡がれたのは総合的には見事としか言いようのない策略だ。このような手段は嫌いそうであったのにと思う反面、そのような手段を用いてでも残したいものが彼女にあるのだろうと察する。察してしまえば、無碍に断ることも出来ず、もとより無碍に断るには見事すぎる布陣で、楸瑛が拒否しようと彼女は一人でどうにかしてしまうだろう。であれば、なるべく張り付いていたほうが断然良い。 今この時より水面下で工作を繰り返し、少女曰く"一網打尽狩り"を実行するのは―――春。 「ではでは、春までなるべくいちゃいちゃしましょうね、藍将軍」 五日ほど薬で眠り続けた少女は今はもうすでにいつもどおりの表情をしている。少し―――かなり痩せたが、その分ガツガツ食べているらしい。少し鋭角になった頬の線を残して、本当にもう、いつもどおりだ。本人曰く"喉もと過ぎれば熱さを忘れる"―――らしい。例えいまだ痛む箇所があっても、忘れたフリをするのだろう。 会試を一月後にひかえた、どこか国中が忙しない日々のお茶会の一こま。 まぁ―――これも役得だろうと思うことにして、楸瑛はお手柔らかにと微笑んで優雅に紅茶を口元に運んだ。 心頭滅却すれば火もまた涼しというならば、心頭滅却すれば雪もまたあったかいのだ。あったかいったあったかい、つまり寒くない寒くなーい。 「さ・む・く・なーいっっ!!」 きっちり輪郭を作って引いた紅の下で青紫色になっているだろう唇をがたがた震わせながら、完全武装の真朱は階段を駆け上がる。 片手に布袋、片手に大きな鳥籠。身体を動かしているからか、胴体は温かいのに、冷え性の四肢末端は氷のようだ。最早あったかいのか寒いのかすらわからない。 ぜはぜは白い息を吐いては吸って、得意ではない運動に悲鳴を上げる心臓をなだめすかす。 そして最後の扉を―――蹴った(両手がふさがっているので)。 「さむーーーーーーっっっ!!!」 辿り着いた高楼のてっぺん、視界一杯に広がる冬の青空と情け容赦なく吹きすさぶ寒風についに絶叫。心頭滅却しようがやっぱり寒かった。チクショウ寒いよ。 「あぁチクショウやっぱ寒いっ寒い寒い寒いさーむーいーっっ!!」 「どやかましいっっ!! 誰じゃ!?」 「げっ」 「むっ」 王都を一望できる秘密の特等席で竜虎三度。 互いを認識した瞬間に戦いのゴングが鳴り響いた。 「―――あらぁ。あらあらあらぁ〜狸ジジィではございませんの。最近会わないから厳しい寒さに逝ったとばかり思っていましたわぁ」 真朱先制、軽くジャブ。 「ほっほー。お主こそみっともないほど震えおって寒いんじゃろ、寒いんじゃろー。失せろ」 霄太師、フリッカージャブで応戦。 「あぁそーだよ寒いんだよ!! 用がなきゃ真冬にこんなトコ来るか! ジジィこそ失せろ邪魔っ!」 「お主が此処になんの用があるとゆーんじゃい!! 邪魔はお主じゃっ! 馬鹿と煙は高いところが好きだと言うのぅ、お主馬鹿じゃろ!」 「俺が馬鹿ならジジィは煙だな! いい加減火葬されたらどうだ?」 むしろ煙になれとばかりに真朱は毒を吐く。ぴきりと皺のよった額に青筋が浮かぶのを見た。 「ふ、ふふふふふふふ此処で会ったが百年目。今日こそその減らず口を縫い付けてやるわっ」 「出来るもんならやってみな! 老眼のジジィに針に糸が通せるか!!」 「なにおーっ!?」 「あんだよっ!?」 すわ乱戦突入かというところで、この冬一番じゃないかという強烈な北風が吹きつけた。 「ひゃぁ」 「うぬっ」 刺す様な冷気に双方思わず首をすくめる。 「………」 「………」 お前らちょっと頭冷やせとばかりの大自然の意思に思えた―――というより、興ざめした。 肺を空っぽにするような大きな白い溜息をついて、真朱は頭を掻いた。 「こんな寒いトコ長居なんてしねーよ。一時休戦だじーさん」 「ふん、まぁええわい。何しに来たんだかサッパリわからんが用とやらをさっさと済ませるがいいわ」 お互い、相性の悪さは骨身に沁みている。面と向かうと憎まれ口しか湧いてでないので、合意の下お互いを無視する。休戦というより冷戦だったがこれでもう最大限の譲歩である。さっさと用を済ますべし。 霄太師に思いっきり背を向けて、真朱は片手に握り締めていた袋から豆をばら撒いた。 一拍のち、盛大な羽音がして白い鳩が高楼に群がる。 「ぽっぽっぽーはとぽっぽー。まーめがほしいかそらやるぞーくるっくーぽっぽー」 変な歌を口ずさみ、真朱は鳩の群れにそっと歩み寄る。豆を落として一匹一匹を横目で識別、足元に文が結び付けられた四羽を抱き上げて手紙を回収する。 その都度持参した大きな鳥籠に手紙を運んできた鳩を押し入れ、残りの豆は鬼は外とばかりに階下へ投げ捨て集まった鳩を散らした。 終了。 要はただの伝書鳩である。通信の不便さに業を煮やして、食用に育成されていた鳩(高級食材)をいくつか失敬して伝書鳩にしたのだ。主に先物取引の情報交換に使用しているのだが、後宮に入ってからはもっぱら急ぎの手紙の転送に使っている。伝書鳩は鳩の帰巣本能を利用したものであるので、都合よく行き先を指定することは出来ない――所詮鳥、とり頭。つまりあまり賢くない。鳩はおうちに帰るだけ。この高楼に住み着いていた鳩を会社の鳩舎に運んでもらって、急ぎの手紙があるときそれを足に結んで放ってもらう。すると鳩はこの高楼に帰ってきて、真朱が手紙を受け取れるという地味で不確実な寸法だったが、手間と不安を差し引いても、速い。日本では江戸時代に廻米問屋が先物取引に使用していて、世界的には第二次世界大戦まで使われていた由緒正しき通信手段でもある。 「んー……? 最近顔に変な模様のあるヤツ見ないなぁ……鷹に食われたか」 王城にはやはり通信用に飼われている鷹がいる。鳩を使おうと思ったときに食われるかな、と考えたが、実際数が減っているところを鑑みると、食われているっぽい……合掌。 鳩に運ばせるのは急ぎだがさして重要でないとされる手紙だから、落としたところでたいした問題があるとは思えないが……鳩ごめん。ほんとごめん。君の犠牲は忘れない。 「―――後宮にいながら自らの企業の舵をとっていたカラクリはこれか」 「うぉ!?」 無視しすぎてその存在を忘れていた霄太師のしわがれた声に、真朱は飛び上がった。鳥籠の中で鳩が悲鳴を上げる。 「背後から話しかけんなよ!!」 口から心臓が飛び出るかと思った。胸を押さえる。奇しくも真朱を飛び上がらせた太師はいい気味だとばかりに鼻で笑いやがった。ムカツク。 「何故鷹でなく鳩を使うんじゃ?」 「鷹なんて使えるか。ありゃ人殺せるんだぞ簡単に」 デカイ重い怖い。三重苦ではないか。鳩くらいの方が扱いやすくていい。ちょっとかっこいいけど恐いからちょっとかっこ悪くても鳩がいいと考え実行している真朱はヘタレである。 「会社の連絡には使ってねーよ。個人的な手紙や城下の様子を知るために使ってんの。会社はここんとこ部下任せだ」 企業当時から片腕として一緒にやってきた腹心の部下がいる。もとは紅本家の家人である青年で、気心が知れているし優秀だ。 王都のことは、彼に任せることが出来るだろう―――李真朱がいなくなっても。 鳥籠を置いて、さっそく文を開く。なんか横に狸がいるが、別段気にすることもない。恋文とかは絶対来ないし。 四通の手紙のうち、三通はやはり私信だった。これは後で室でゆっくり読もうと懐に仕舞う。最後の一通はその部下からの城下の様子と簡潔な経営状況の報告だった。 「………おいジーさん」 「あんじゃ」 その中の気になる一文を指で示し、霄太師に見せる。 「これ、ヤベーんじゃねーの?」 横目で文字を追った太師はしょぼしょぼとわざとらしくもジジ臭く瞬きをすると、そらっ惚けた。 「………だから、なんじゃー。ワシは名誉職じゃー。そもそも下街は親分衆の管轄じゃろ」 「時期が悪いじゃん! こいつらよそ者だぜ? すっげー馬鹿なことやりかねんじゃないかと思うんだけど」 「木簡か」 「そ。貴陽の人間だったら絶対手をだしゃしねーけど、よそ者で、チンピラだったらわかるわけがないぞ、その木簡の価値を。俺だってなぁ、絳攸が必死こいて勉強しているとこ見てなきゃわかんなかった。国試は万人に公平で平等な試験だって言われてるけど、子供を勉強漬けにすんのなんて金が無きゃ出来ねーから試験突破するのだって殆ど貴族じゃん。庶民に官吏は雲の上つーか別世界の存在だぞ」 偉い人にはそれがわからんとですと、世界的に謎の小ネタを挟む。 案の定、霄太師は聞き流した。ちょっと……かなり切ないよアミーゴ。 「親分衆は根っからの貴陽の人たちだし、そこんとこわかってんのかなぁ……」 別段見ず知らずの他人を心底心配するほど真朱はお人よしではないが、約一名、木簡を所持している知人がいる。いわずと知れた紅秀麗さまだったが、まぁ地元民だからそうそうかっぱらわれることはないだろうと思いつつもうっすらと不安になる。 「仮にそうなったとしたら、洟垂れどもの出番じゃろ。それをどうにか出来んかったら洟垂れどころかクソタレじゃー」 仮にも王様に向かってクソタレ。いい度胸だが、王様に対する態度であれば真朱だって人のこと言えた義理ではない。全然無い。 色々気に食わなかったが、真朱はそれこそ官吏ではない。この件にどうこう言う権利は無いのだ。でも、あとでそれとなく伝えておくくらいは許されるだろう。 「……やだなぁ、俺明日下街に行く用事があんのにぃ……物騒なの苦手なのに……」 とりあえず、腰に青い布を巻いた男どもは警戒しておこう。 少女の身体で絡まれたなら、ひとたまりも無い。 その日、鳩から受け取った私信は三通。 一つは真朱の会社の大株主からの世間話だった。無理やり休みをもぎ取った明日会いに行くので、返事は必要ないだろう。手土産はすでに用意してある。 この文は丁寧に閉じる。 もう一つは、旅先で知り合った知人からの簡素な近況報告。 背の君からの恋文のように、いっそ愛しそうな指先で文字をなぞる。返信はしない。ただ、胸中で祈り、返事に代える。 この文は丁寧に折りたたんで仕舞った。 そして真朱は最後の一通をどうしたものかとつまみ上げた。 「……………お前はピカソかっ!?」 届かぬと知りつつ裏拳でツッコミを入れてしまう。それは最早手紙じゃなかった。 最先端前衛芸術のような意味不明の―――多分、絵。紙という二次元媒体を用いながら何故四次元空間が広がるのか。複数視点からのキュービズム抽象画に見える……まんまピカソではないか。ある意味すごい。碧家にだってこの絵の価値がわかるものがいるかどうか。 「相変わらずわけわかんねーよ龍蓮……珍しくというか初めての手紙がこれって、一体何が言いたいんだお前……っ?」 首を傾げて、悩んだところでわかるはずもなく思考を放棄。返信しようがないし、藍州から届いた文だが、奴は基本的に所在不明だ。今頃どこにいるのやら。 真朱は潔く忘れることにした。後にして思えば、これは台風の上陸予告だった―――そんなこと、このピカソ画から察しろと言うほうが無理だったし、わかったところで逃げようもなかったし。 これも一応、案机に仕舞っておく。 「さーて、さよならの準備だ」 去年までとは違う春を目指して。 (伏線ばっかりになった……全部わかるのは春だから忘れてていーです。全部わかったらそれはそれですごい代わりに続きを書いてくれ) |