「なんだこれは」
「梅酒を煮立て酒精を飛ばしテングサとかいう赤茶色の海草を干したものを煮立てた汁と混ぜて冷まして固めた梅ぜりぃなる茶菓子だ。冷やすとなかなか悪くない風味だぞ」
 いそいそと広げた風呂敷から梅ゼリーとやらを取り出して並べる紅黎深を前に、麗しの黄鳳珠は溜息をつく。
「―――その槍と仮面は一体何だ」
 聞きたくないが義務のように尋ねた。特に槍。
明日のためにその一だ。優しい叔父さんへの道は険しいのだと真朱が……いや、わたしはすでにこの上なく優しい叔父さんなのだが」
 多分「立て、立つんだジ○ー」とか言いながら法螺吹いたに違いない。ショックを受けたら真っ白になる養い親の姿から連想したと思われる。
 何故か黎深が小脇に抱えてきた槍と仮面は視界から抹消して、珍しい菓子と真朱から託されたという書翰だけは残しておく。
「―――女人の国試受験。本命はどっちだ」
「秀麗に決まっているだろうが」
 何を今更と黎深は断言した。
「秀………秀麗の方、か。真朱は?」
「やる気がない」
 ばっさり。
 予想はついていたのだろう。奇人は再び溜息をつく。
「実力はあるのにか?」
「受けるとなればまぁ及第はするだろうが、秀麗のように上位とはいかんだろうな。アイツは梅の木だ」
 梅の木。
 梅は成長は早いが、大木にはならない樹だ。成長はゆっくりだが、いずれ大木になる楠木とよく対比して、梅の木学問、楠木学問などと用いられる。要は大器晩成の反対。つまり"二十歳すぎればただの人"のことを暗喩する。
 幼児の中に成人男性が入っていた真朱はまさに梅の木の如く早熟に映ったことだろう。
「物は試しに勉強を教えてみたら、始めこそ物覚えや理論思考は絳攸より早かったが、あっという間に追い抜かれたな。どんな天才かと思えばたいしたことはなかった。まぁどうでもいいことだが」
「だが、あの百歩先をみる視点は貴重だろう」
「百歩どころか二百歩くらい先の景色をみている奴だからな。預言者じゃあるまいに、そんな先のことは絵空事と変わらん。地に足が着いていない」
「…………」
 鳳珠は半泣きの真朱と交わした貨幣体系の議論を思い出す。
 確かに百歩も二百歩も先の話だった。すぐさま国政に反映できるような意見ではない。
 黎深の義娘評価は辛辣だったが、話は官吏の資質に限定されている。
 吏部尚書として――というより養い親としての言葉だろう。その評価を疑うことはしないが食い下がったのは、鳳珠は李真朱という少女を買っていたからだ。
 そりゃもー買っていた。今のように人ン家に不法侵入する不届き者またの名を紅黎深対策に一家に一台常備したいとまで。
 何故かといえば数年前、この目の前の男に連れられてやってきた幼女は、鳳珠があげた栗饅頭を大人気なく取り上げた黎深に飛び蹴りかまして取り戻した勇者だった。身長差の不幸で、幼女の飛び蹴りは黎深のひざ裏に決まり―――つまり膝カックンになった。あの紅黎深に膝カックンをかませ、なおかつそれを許される人物は彩雲国広しといえど、李真朱以外に存在しまい。笑い死にそうになった。

 つまらなそうに扇を仰いでいた黎深が何かを思い出し冷笑する。
「そうそう。確か絳攸が国試を受けた年だったか、戯れに"国試という制度をどう思う"と尋ねたことがあったな。アレの答えは傑作だった―――"試験内容が文学史学哲学ってのは実務と何のカンケーもないように思えますねぇ新人の即戦力は期待出来ない気がします。それでもあえてその試験を行うっつーのはアレですか意識統一ですか。経義なんてその最たるものですよね経典の解釈に正解を用いたらおんなじ考えを持つ人材しか集まらないじゃないですか。まー画一化された倫理観は便利だとは思いますけどね、王様に忠実ないい歯車になるんじゃないですか? しっかし厳密な音韻を踏んだ詩を作れるから何だっつーんですかンなもんより算盤が速いほうがいくらも役に立つと思うのは俺がアホだからっすかね?"と来た」
 鳳珠は低く唸った。
「………恐ろしいな」
「そうか? わたしはクソ生意気なガキだと思っただけだが」
 それは黎深が紅黎深だからである。紅黎深と書いてはテンジョーテンゲユイガドクソンと読む。
 国試という制度の、実力主義、平等主義にうまく隠れた側面を、六年前なら十にも満たなかったであろう幼女が見破ったというのなら恐ろしい限りだ。しかも官吏の意思を"画一化された倫理観"と表現した。まるで己の意思すらもが、王に操作されたものであるかのようで、薄ら寒いものを覚える。
「その論で行くと、真朱の奇奇怪怪な固定観念は官吏となることで失われると言えるな。あれの視点を貴重だと思うのなら尚更国試なぞ受けさせるべきではなかろう」
「しかしそれではあまりに、孤独だろうに――」
 人と同じ目線でものを見られない孤独を誰よりも知るはずの黎深は鼻で笑った。

「そんなものは、いつでも捨てられるものだ。それを捨てず固執して孤独に甘んじているのはあれの意思だ」

 真朱は"かつての自分"にしがみついている。
 それを手放すのは、孤独よりも恐ろしいといわんばかりに。
「―――大体、あいつは自分の事で手一杯だ。政治に興味をもてないのは余裕がサッパリないからだ。一杯一杯のあっぷあっぷだ」
「………相変わらず、か」
「全く相変わらずだ。自分が女だと認めん。いい加減ぶん殴りたくなるぞ」
 実行済みだと思う。
 扇子とか扇子とか扇子とかで。
「誰でもいいから一発思い知らせてやればいいんだ」
「下品」
 きつい眦の鳳珠の指導は華麗に無視。
「絳攸あたりが一番なんだがあいつもあいつでモタモタしてて苛々する」
 黎深なら密室に閉じ込めて媚香を焚くくらいのことは実行しそうだと鳳珠は思った。
「一度密室に閉じ込めて媚香を焚くまでお膳たてしてやったのに絳攸は扉を蹴破って脱出したし真朱は窓の玻璃を割って二階から飛び降りて骨折した」

 実行済みだった。

「…………当人たちの意思を無視するな馬鹿。二階から飛び降りるなど下手すれば死ぬぞ」
「だから一回しかやってない。つまらん。そもそも意思を無視してなどおらんわ。可能だろうとわたしが判断したんだからな。荒療治、治療だ治療、感情の名称など問題にならん。真朱は自分が男だと言うだけあって愛だの恋だのなくても出来ると思ってる上に恐ろしくスレた奴だから貞操云々なんぞ端から問題にしてないぞ。悪あがきをしてるに過ぎん。思い知りたくないだけだ」
 義理とはいえ父親の台詞ではない。
「そもそも兄妹だろうがっ!」
「血は繋がってない。だいたい繋がってても子供さえ作らなければ――」

 鳳珠は外道ここに極まる男をとりあえずぶん殴っておいた。
 李兄妹がこの場にいれば、渾身の拍手喝采が送られただろう。






 未明の昊、暁の星が徹夜明けの目に痛い。
 黄尚書宅の馬鹿騒ぎからヨロヨロと帰宅した絳攸は、公休日に帰宅している妹の私室から漏れる灯りを見つけた。
 夜明けにはまだ早い時間である。朝告げの鶏すらもいまだ夢の中のこの時刻に、すでに起きているのかと驚いた。
 驚きは一瞬、絳攸が戸部に放り込んだ為、自分の会社の仕事が押していたのだとすぐに気づく。つまり、もう起きているのではなく、まだ寝てない。
 さすがに申し訳なくなった。真朱は細身であまり体力がない。そのことをことの外悔しがっている。その内心は「一週間徹夜で麻雀しても平気だったあの身体を返せ」というロクでもねーものだったが。
 人のいない厨房で、手ずから入れた疲れに利く茶を盆に乗せ、室の前でふと足を止める。楸瑛の忠告を思い出した。
 忌々しげに舌打ちする。
 愛だの恋だの、絳攸は知らない。女嫌いは伊達じゃない。欲得ずくの目の色変わった女人に追い掛け回された恐怖は根深い。食われるかと思った。そーゆー意味じゃなく、食人の方向で。いやもう怖かった。
 おかげさまで、愛だの恋だのなんぞ知りたくもないというのが本音だ。
 ―――楸瑛は一つだけ、間違っていた。
 恨まれることなんて、置いていかれることに比べたら何ほどのものでもない。自分のそばで笑っていなくても、誰かのそばで笑っているならそれでいい。
 愛だの恋だの絳攸は知らない。知りたくもないから、この思いに名前をつけられない。
 だから愛でも恋でもなく――同情ですらないのならなんだと問われても答えられない。
 そもそも心にいちいち名前をつけた奴は何処のどいつだ。愛だの恋だの同情だの面倒くさい。張本人を見つけたら殴っている自信がある。
 躊躇うように止まった足に腹が立って、いつものように真朱の室を訪れた。ことさら、いつものように。

 揺れる蝋燭の明かりの下、妹は案机に突っ伏して、うたた寝をしていた。
「―――おい」
 書翰をよけて盆を置き、細い肩を揺らす。
「んぁ? うぉ!? 寝てた!? ぅぎゃーっ!!」
「ヨダレを拭け」
「ぎぇ」
 跳ね起きた真朱はごしごしと衣で顔を拭う。姫の仕草ではない。
「い、い、いつ寝こけたんだ俺。やっべぇ」
 ヨダレで汚れた書翰に泡を食う少女はキョロキョロとあたりを見渡し、いまだ昊が薄暗いと知ると安堵の吐息を漏らす。
 そして、兄と傍らの盆に目を向けた。
「夜明け前だな。こんな時間に何してんの?」
「今帰ってきたんだ」
「やるな朝帰り」
「やかましい」
 絳攸と真朱は、実は全く顔をあわせない日の方が多い。互いに独立した生活を送っているのだから当たり前だ。同じ家に住んでいた春まですらそうだったのだから、真朱が後宮に上がってからというもの、尚更会わない。恐らく、本来の主よりも我が物顔で後宮を練り歩く楸瑛の方が、迷子にでもならなければ後宮に寄り付かない絳攸より真朱と顔をあわせているはずだ。
 会わなくても、会えばいつもと変わらない。家族だから当然だ。
 それだけで―――それだけでいいのに、年頃になってからというもの周囲の雑音が煩わしい。
 煩わしいだけならまだしも鉄壁の理性は崩れないが、黎深のような常識破りの強硬手段を取られると疲労はいや増す。ホント勘弁して欲しい。あれは別に絳攸と真朱をくっつけようという空恐ろしい企みではなくただ単に手段であって目的ではないのが救いといえば救いだが、真朱は骨折するわ、蹴破った扉と割った玻璃の弁償を容赦なく申し付けられ絳攸も真朱も俸禄が吹っ飛んだ。あのまま財政方面から攻められればそこは何処もかしこも一級品しかない紅家別邸、一年くらいで財布が底をついたかもしれない。考えるだに恐ろしい。

「―――愛だの恋だの、煩わしい」

 別段他人の――楸瑛のような見境のないものでなければ――例えば劉輝が秀麗に抱く真摯かつ難攻不落で前途多難な想いのようなものであれば、否定しようとは思わないが、わが身を省みればやはり、絳攸には面倒くさくて煩わしい。
「んあ? あーあーあー同感同感超同感。ちょっと見た目が育っただけじゃんなぁ? 中身は何にも、変わってねーのに、俺ら」
 やはりというか、こちらも見た目だけは年頃の少女でありながら、「コイ? 鯉のが食えて好き」とばかりに真朱もしみじみと肯定する。色気より食い気。
 成長するように変わった心もあるし、成長しても変わらない心があって、それぞれの想いにただ年頃だというだけで、一挙一動を色恋沙汰に当てはめられてはたまらない。

 そんなんじゃない―――と、思う。多分。

「…………渋っ。何このお茶」
「…………良薬は口に苦しと……」
「いや、薬じゃなくてお茶だろ。単に淹れるのが下手なんだべ。にがー」
 李絳攸が手ずから入れた茶に文句をつけるのは黎深と真朱くらいだ。
 文句を言いつつ飲み干すところもそっくりだ。
「あぁ……苦いから目が覚めた」
「ふん」
 ソコまで見越して濃い茶を入れたとはさすがに言わなかった。嘘すぎる。真朱の指摘どおり、茶葉ごとの蒸らし時間や適量をよく知らない絳攸は茶を入れるのが下手なだけだった。それでも邵可の父茶より飲めるだけ数倍マシだと思うのだが、尊敬する邵可の名誉の為に絳攸は話題を戻した。
「不便だ」
「何が?」
「愛でも恋でもないと口をすっぱくして主張してるのに誰一人信じないとはなんだ!?」
「あー。信じないだけならまだしも、"はっはっはーまたまたー、奥手なんだなお二人さんあーっはっは"てゆー視線だけは俺も未だ耐えられん。微笑ましく見守るな頼むからと叫びたい」
「叫べ。世界の中心で叫べ」
「実行したらただの変人だっつーの。すんなよ? 李侍郎の評判地に落ちるぞ。だいたい世界の中心で叫ぶのは愛と相場が決まってる」
 真朱は電気ネズミみたいなベストセラーより先にエリスンのケモノを思い出す世代だ。ネタがわかる人だけほくそ笑んでくれ。
「………煩わしい。なんでいちいち名前をつけて感情を区別するんだ。答えられないと勝手に分類される。思い違いも甚だしいというにっ」
「答えりゃいいじゃん。俺は答えることにしてる。そうすっと大抵の人はなんとなく納得する必殺の名詞があるぞ」
「あるのか!?」
 溺れるものは藁をも掴む。







「やくそく」







 湯飲みを置いた小さな手が、絳攸の手に重ねられた。
 繋いだ手だけが世界のすべてだった、あの頃のように――。 
「………………なるほど」
 変わっていないというのなら、それはあの頃のままの名前でいい。忘れてないのに、忘れてた。
「やくそくだから、そばにいる。やくそくだから、ほっとけない。それでいいじゃん。嘘じゃないし」
「ハッ、嘘をつけ。お前は笑って、嘘ばかりつく――」
 真朱はその"約束"が絳攸とって必要でなくなったと判断すれば躊躇いもなく手を振り解くヒトデナシで、すでに前科三犯。
 紅黎深に拾われた時。
 絳攸が国試に及第した時。

 ――手首を切った時。

 その度にもう一度手を繋いで、手を繋ぎなおして、命ごと繋ぎとめて、これから何度振り払われても、手を握れる距離に真朱がいるのなら、何度でも手を伸ばすだろう。
 破られることが前提の約束をなんどでも交わす。何度破棄しようと破棄されようと、どちらも全く気にしない。問題にならない。
 最期のときに、手を握れる距離にいれば履行されると知っている。



 死ぬまで握ってろ。
 ―――死ぬまで握っててやる。



 この先。
 どんな出会いと、別れを経て、それぞれの隣に立つ人が自分であろうとなかろうと、きっと―――同じ日に、息絶える。
 追うのでも、追われるのでもなく、それが当然の寿命として、夜明けを待たずに―――君が息を止めたなら、呼吸も鼓動も希薄になって、薄れ行くようにきえよう。
 一番最初に交わした約束は、最後の最期の刻の約束だった。


「まず終わりを先に決めたから、始まってもいない関係の現在位置がわからなくなるのか」
「そーそー。ンで、そーゆーときには初心に返って」
「………………死が二人を分かつまで? そっちのほうが人聞きが悪いような」
「絳攸絳攸絳攸それ禁句。禁句だから」

 今はまだ―――。












(恋愛なにそれ食べれるの? とゆー二人。それ以前の問題でそれ以上の約束。黄金の約束だけに約束締め。そんなカンジで許してホント)




モドル ▽   △ ツギ



inserted by FC2 system