「もう、超梅干ししかないと思うの……っ」
 座りきった半眼、握りこんだ小さな拳で紅秀麗は起死回生の策を意見した。
「…………………秀れー…秀様。いくらなんでも眉唾ですよアレは」
 高天凱と碧遜史がリタイアしたにっちもさっちもどーにも戸部。雑用と自動算盤の二人が交わす会話も自然と切羽詰る。
「だって施政官が三人になっちゃったのよ!? しかもそのうち一人は燕青なのよクマなのよ髭なのよっ!?」
 いや髭関係ありませんから……と、燕青でなくても思う秀麗の愉快な偏見に、さすがの真朱も燕青をかばいたくなる。
「……そらまー燕青の戦闘力は不明ですけど、見たところアイツかなり出来ますよ色んな意味で。侮るとあとで驚天動地の驚愕を味わいそうな気がします。わたくしは燕青の肩書きが実は仙人でも驚きません」
「毎日お米五杯以上おかわりするような食欲旺盛な人がかすみ食べて生きてる仙人なはずないでしょ真朱ー!!」
 遠慮のない居候だ。三杯目からはお茶碗をそっと出すくらいの慎みはあって欲しいが秀麗の言から推察するに豪快におかわりするのだろう。燕青……っ。
 実際、戸部は空前絶後の大ピンチである。
 人は倒れるばかりだが、仕事は一向に減らない。もう倒れる人手もないくらいだ。
 秀麗と真朱も力の限り力になりたいものだが、雑用と自動算盤ではその力量もたかが知れているし、またその権限および権利もないのだ。
 政に興味のない真朱はともかく、目の前の出来事なのに壁に隔たれている現状は、秀麗には何とも複雑なのだろう。
 それでも出来ることを頑張ろうとする彼女の姿勢は凛として、真朱には眩しい。あぁいい子だなと思う。
 だがしかし出来ることを頑張ろうとして行き着く先が超梅干し。

 どうかと思う。

「だってっ……真朱まで元気がないじゃない……」
「え」
 戦力外自動算盤をも案じる優しい少女に、うっかり感動した。あああなんていい子なんだろう。
 だがしかし行き着く先が超梅干し。

 やっぱりどうかと思う。

「………夏バテではありませんよ。ちょっとした寝不足です。もうすぐ休養日ですし、わたくしは大丈夫です」
「でもでもでも」
 事実、夏バテではない。昨夜の会話でちょっとだけへこんだだけだ。というかいらん恥をかいた。は平均的スケベだったが、平均的に羞恥心も持ち合わせていた当たり前だ。煙に巻くつもりで捲くし立てた自称鉄壁の防御(笑)をかいくぐって劉輝は真朱の傷に気づいた。つまり恥じのかき損。さすがにへこむ。
 人はそれを自爆いう――死して屍拾うものなし。
 思い出したら顔面から火が噴きそうになったので、思考を会話に戻す。意地でも戻す。
「うーん……超梅干しではありませんが、ただの梅干なら用意できますよ? 実家にあります漬けてます」
「え、ホント!?」
「えぇただの梅干しですが」
 初夏になると青梅を拾って梅干しと梅酒を造るのは毎年の習慣だ。故郷の味を追い求める真朱が作らないはずがない。一番簡単に出来た一品だ。味噌と醤油なんて"大豆を発酵させたもの"ぐらいの知識しかなかったから物凄く苦労した。一人でやってみようとして、とりあえず大豆を水に漬けておいたら二日後に芽が出て膨らんだ――豆もやしである。そう、もやしは大豆や緑豆の芽だ。しかし芽が出て膨らむまで全く気づかなかった。そらそーだと納得しつつ「すぷらうとー!!」と叫んで真朱は爆笑した。妹がぶっ壊れたと絳攸が心配するぐらい笑い転げたものだ。笑い死ぬかと思った。もやしは炒めて全部食べた。
 結局、醤を醸造する職人に話を持ちかけ、その道のプロとともに試行錯誤し、というか真朱はほとんど味見役で、共同開発というのもおこがましいが、その結果たどり着いた至高の日本の味が味噌と醤油。青梅に塩振って紫蘇と漬けただけでいい感じに完成した梅干しは楽勝の部類だった。
「猛暑にやられた死者をも蘇らせるなんて効能はありませんが、しょっぱいからご飯が進みますし、すっぱいから疲れにも効くみたいですよ」
 つーかゾンビメーカーか超梅干しとは。夏場が故にヤな感じに腐乱してそうで嫌だと思うのは真朱だけなのか。
「………あぁ。うちの梅干しを"超梅干し"と偽って配ってもいいですね」
 ふと思いつく。
 プラシーボ効果がありそうだ。
「………やってみましょうかソレ。病は気からって言うしっ」
 秀麗がぐっと拳を握る。
 "偽"超梅干しが戸部の隅っこで行われた悪巧みにより出回ることになる。
 "偽"と言いつつ真っ当な梅干しなのだがそこはソレである。




「"偽"超梅干しを譲ってくだされーっ!!」
「ぅほわぁっ!?」
 書翰を抱え、回廊を駆けていた真朱はいきなり老人に縋りつかれ色気のない素っ頓狂な悲鳴を上げた。
「なに、な、な、な、誰っ!?」
「李真朱殿とお見受けするーっ、どうか"偽"超梅干しをどうかどうかーっ」
「え、な、なんでっ」
 外朝をうろついている現在、真朱は李真朱ではなく李真である。毎朝後宮からこっそり出て、府庫近くの厠でさらしを巻いて侍童の格好に着替えズラを外し男装しているのだ。その苦労を水泡にしてくれるような絶叫だった。思わず周囲を見渡す。大丈夫だ、他に人は居ない。
 落としそうになった書翰を抱えなおし、改めて迷惑な老人を観察する。
 ………かなりの高官に見受けられる。そんでもって蓋のないヘンな壷というか瓶を小脇に抱えている。
「もうどいつもこいつも阿呆な噂に振り回されていたいけな老人を追い掛け回すのじゃーいじめだと思わんか? 助けると思って敬老精神を発揮して儂に"偽"超梅干しをっ」
「―――…………霄太師であられますかゥオイ」
 頭痛が。
「うむ。苦しゅうないぞよ」
 苦しくねーよ。
「秀麗殿に聞き及んだのだ。ここのところ流れている超梅干しは実は真朱殿が漬けた梅干しだと。しかし未だに追い掛け回されるのじゃ。撒き餌に使いたいので是非とも分けてくれぃ」
「……………」
 頭痛が。
 真朱は気力で笑顔を作った。
「申し訳ありませんが、実は義父に霄太師には優しくするなと躾られておりますの。他をあたってくださいな」
「のおぉぉぉぉーーーーーーっ!!」
 老人は崩れ落ちた。真朱は知らないが無茶苦茶自業自得だ。
「そ、そこをなんとかーっ」
「なにやら恨み骨髄でいらっしゃるようなのです。そらもーお名前を出すだけで扇を投げつけてくださいますのよ? 何度ぶつけられたと思います? うふふその回数なんと二十三回。数えておりますの。そういうわけでわたくしもあまり霄太師にはいい感情を持ち合わせておりませんの。扇って結構痛いんですよぉ」
 わたしの前であのクソタヌキジジィの名を出すなすぱーんべしんっ、である。黎深得意の扇子アタックは高価な扇子だけに骨組みがしっかりしており痛いなんてもんじゃないのだ。二十三回ぶつけられる真朱の学習能力も末期だが。
「そ、それはワシのせいというより黎深殿のー……」
「煎じ詰めれば太師が原因ですので……ここで心優しく梅干しをお分けしても義父が知ったらわたくしが何されるかわかったもんじゃありませんしーぃ」
 つれない素振りで焦らしつつ、哀れっぽくめそめそして「老人を敬わぬと祟るのじゃぞ〜」とかほざいている霄太師を見下ろす。遠方に住む孫にお菓子をあげようとしたら人見知りされてへこんでいるような切ないジジィに相通ずる哀愁が漂う。
「のぅ、ワシはこれでも朝廷百官を統べる偉いジジィなのじゃぞ? 故に"偽"超梅干しにも相応の対価を用意できると思うのじゃがどうじゃ?」
「そう来ましたか」
 ギブアンドテイク。
 李真朱という人格と取引をするならそれが一番確実な手段だった。命令および懇願など逆効果、それを一目で見抜くとはさすがだ。朝廷百官の長も伊達じゃない。
「ですが今は欲しいものありませんから」
 時期が悪かった。
「そ、それなら! ワシは長く生きとる年寄りじゃ! 何か質問はないか!? 大抵のことには答えられる自信があるぞよ!?」
 必死。
「………ふぅん?」
 これには真朱も一考した。
 しかし、この時点で真朱は梅干しを譲るつもりなどさらさらなかった。梅干しは自分が食べる分しか確保していないのだ。要は量がない。秀麗のためなら分けてもいいが、見ず知らずのじーさんに分けてやるほど真朱の心は広くない。義父が嫌っている人物であれば無視したって心が痛もうはずもない。繰り返すが鬼畜の子は鬼畜なのである。
「じゃあ」
 神様ですら答えられない質問を投げようと思った。
 そしてそれは本当に、本当は喉から手が出るほどに知りたいことでもあった。




「この身体は何なのか、ご存知ですか―――?」




 心の規格とまるで違う異世界の自分の身体。
 これが誰なのか、本来の持ち主がいたのではないか、ずっと心に留めていた。
 それを皆まで説明せず、漠然とした問いに乗せる。答えられるものなら答えてみろと。
「なんじゃあそんなことかの」
「え?」

「空の器じゃ。誰のものでもない。しいて言えばおぬしのモノでいいじゃろ」

「な、に」
 1足す1が2であるように淀みなく返る答え。
「ときどき生まれるんじゃ。中身、魂を持たずして母の胎内から産まれ堕ちてしまう身体がの。産まれた時は泣くし、乳も吸う。赤子の頃はあまり泣かず、ちぃっと笑わぬ程度の差しか見えぬが、長ずるにつれて空っぽであるが故に意思なき木偶になる。あるのは身体に備わった本能だけでのぅ、まともに育たず大抵五つを迎える前に土に還るわ」
 膝が震えた。
「そしてやはり、たまーに魂だけ落っこちて来る者がおるんじゃなー、おぬしがそれじゃー。ちょうどすっぽ抜けて落っこちてきたところに空っぽの器があったがゆえ、引き込まれて収まったんじゃろ。器がなければ世界に弾かれてもとの世界に戻れたであろうに、運がいいのか悪いのかわからんのぅお主」
「………っ」
 なに、を。
 何を言っているこの老人は。
「魂呼せという異能の術がある。巫の身体を依り代に異界の存在を降ろすのじゃ。あれの人為の介さぬものとでも思えばよい―――異能は異能を呼ぶ故に大抵は器を殺して追い出すがお前は肉の器も魂の輪郭も人の枠に収まるただの人間だったから殺さずに捨て置いた。平凡で良かったなぁ命拾いしたぞ」
 言葉の途中から太師の口調が一変する。
 口調はおろか、しわくちゃの老人の枯れた声音が、若々しく張りのある美声に様変わりする。
 その異常を不審に思うより先に、嫌悪が迸った。
 まるで生きたまま、腹を開かれ、解剖されているような恐怖。
 それこそ、老人の身体に神が降臨したかのような宣託に聞こえた。

「は――っ、あはは! 虫ケラにでもなったような気分だ! その目ェ!」

 人を人とも思わない老人の視線に、真朱は笑い弾けた。笑い飛ばして恐怖を弾く。
「ムカツクから信じねーよクソジジィ」
 意地にかけて悪態をつく。
「お前が信じようと信じまいと何も変わらんさ」
「気色悪ぃからその声ヤメロ似合わねー」
 じりじりと後退する。
 このまま逃げ出す前にどうしても一矢報いたい。あぁ義父は正しかったなんだっつーんだこのクソタヌキ!?
 一寸の虫にも五分の魂窮鼠猫を噛むのだ。ただの人間の何が悪いただの人間だからなんだ。
 ―――見下される謂れはない。
 猫の尾を噛み切れ。






「スーパーカリフラジリスティックイクスピレンリドーシャス狸退散っっっ!!!」






「………は?」
 虚を突かれ呆けた声を片耳に、踵を返して一目散に脱兎。
 逃亡ではない、戦略的撤退と言え。
 用いた流暢な呪文には何の意味もない、しかし恐ろしく耳に残るから採用。御免なさいメアリー・ポピンズ大好きだ。
 異世界の謎の呪文に少し悩めクソジジイ。
 推定年齢十五歳の若さに任せて全力疾走、決して振り向かない。
「あ、う、梅干しっ!?」
 なんか聞こえたが、くれてやるわけねーだろダァホ。
 内心で吐き捨てて、走る。走る。走る。
「―――――流行らせてやるっ!!」
 誓う。


 以後、霄太師は出会い頭に"スーパーカリフラジリスティック以下略"と謎の呪文を唱えられるのようになる。
 真朱は真顔で法螺を吹いたのだ「これは煮ても焼いても食えないタヌキをお山に返す有り難い呪文です」――と。
 超梅干しの情報操作にあやかって劉輝経由ターゲットは主に高官。
 劉輝が「すーぱーかりふらじりすてぃっく(以下略)何の用だ霄太師?」と問い、邵可が府庫で「すーぱーかりふらじりすてぃっく(以下略)山に帰れジジィ」と微笑み、黎深が朝議で「すーぱーかりふらじりすてぃっく(以下略)」と真顔で呪文だけ言い捨てる――劉輝曰く、真夏なのにいい感じに場が涼しくなったという。
 真朱の目論見どおり、とっても流行した。
 人望のないじーさんだったザマァミサラセ。
 この呪文は対霄太師のみならず、胸をなで繰り回されて怒髪天をついた黄鳳珠が葉医師に対しても用いるという真朱の予想を飛び越えた発展拡大をみたりする。
 
 ――朝廷はもうだめかもしれない。
 



 クサクサした気分で迎えた公休日。なにやら劉輝が夜這い云々を企んでおり、夜這いといいながら「真朱も一緒に行かぬか?」とかウキウキと誘われたので間違いようがなく言葉の用法を間違えていると確信したが真朱はあえてその間違いを正さずにおいた。そのほうが面白いし、王が勘違いしたままでも誰も困らないから。むしろ本来の用法を教えたほうが素直に実行しそうで恐いじゃないか。
 礼儀正しく申し出を辞して真朱は休みを貰った。
 実家へ帰宅し、休みだというのに実質休みにならなかった。
 会社の決済が溜まっていたのである。そりゃそーだ。腐っても代表取締役。
 おかえりなさいませお嬢様コレよろしくお願いしますねと積み重ねられた書翰は戸部に張り合えた。目の前が暗くなる。
「〜〜〜〜過労死が目前っ!?」
 洒落にならない。
 朝から昼までひたすら案机に張り付いて書翰を片付ける。真朱の元に届けられる書翰は代表取締役である真朱が判断すべき最終決定しかない。他の専務や常務に肩代わりしてもらえる――押し付けられる――仕事ではない。後宮に上がってからは細々と書翰を届けてもらって処理していたのだが、ここしばらく戸部でその時間が全部潰れていた。
「あぁそうだ黄尚書に株の書類を作っておかにゃならねーんだった………」
 大口出資者は大歓迎である。でもこれは真朱でなくとも出来る仕事なので部下に指示。
 寝食を忘れ目を血走らせ、ひたすら書翰と格闘し、なんか目が見えなくなってきたと顔を上げたら日が暮れていた。字が見にくくなるはずだった。
「燭台……蝋燭蝋燭、火……」
 幽鬼のような足取りで火と灯す。そろそろ脳の回路が焼き切れそうだったが、半分は終わった―――まだ、半分だった。
 一瞬気が遠くなった。

「こんな暗い室で何をしてるんだお前」
 何の前触れもなしに、黎深が真朱の私室にやって来た。
「見てわかりませんかぁ。仕事中です」
 一応年頃の娘と義理の父なのだが、双方ともにちょっとアレなため扉も叩かないでいきなり入ってくるなとか父といえど娘の室にズカズカ入るななどという繊細な機微とは無縁である。
「これから鳳珠のところへ行くから手土産の茶菓子を作れ真朱」
「この書翰風呂みたいな状況を見てンな命令を下しますかっ、これ今日中に終わらせなきゃならんのですよ!?」
「たいした量じゃないだろう。吏部はこれの百倍は仕事があるぞ」
「仕事しろよ尚書」
 兄の苦労を垣間見た。百倍とか言ったか?
「暑いから見目の涼しい菓子がいい。あの梅の入った"ぜりぃ"とやらにしろ」
「聞けよ」
 ぱたぱたぱた扇子が揺れる。
 駄目だ。こりゃあ駄目だと真朱は心底思った。黎深とはときどき会話が成立しない。
 知ってたけど。
「……………………………………梅ゼリー、ですね?」
「そうだ」
「冷やさなきゃならんからそんなにすぐ出来ませんよ?」
「けち臭いこといわず氷を使え」
「りょーかい………」
 この瞬間、真朱の徹夜が決定した。
「お前も行くか?」
「書翰に溺れて死ねと?」
「ふん。なんでお前も絳攸も鳳珠もだ、そんなに仕事が好きなんだ?」
 黎深はなんだか不満そうに扇を仰いでいる。
 確かに、真朱も絳攸も黄尚書も、目の前に大量の書翰があって、背後で黎深がウロチョロしていたら、背後の黎深を無視する。邪魔しかしないから。
 それが不満らしい。
 ―――子供か!?
「…………………あー。ゼリーと一緒に書類もってってくださいません? 黄尚書とお約束していたものなので」
「わたしを使いっぱしりにするとはいい度胸だな真朱」
「――――そうですわね、失礼いたしましたわ。ほんのついでと思いとんだ無礼を。秀麗さまに愚痴ってやる
「書翰と言わず槍と仮面も運んでやろうではないか!」
 仮面はともかく槍の選択が意味不明。
 だが秀麗さまさまだ。今夜は紅南区の方角を拝んでから眠ろうと思う。
 ……………眠れたら。










(意地悪ジーさんと遭遇。だけど負けてないから案外凄い。そしてなんだかんだで義父に甘い。しかも秀麗今夜は黄東区だったり)




モドル ▽   △ ツギ

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