昼間は戸部で自動算盤、夜は後宮で主上のお世話という二重生活も早半月。 真朱は回廊を小走りに駆けていた。 株式売買の話から、うっかり戸部施政官と議論を交わし泣かされてからというもの、激務の合間に暇を見つけて戸部施政官が議論を吹っかけようとしてくるため、座りっぱなしなのにうかうかストレッチも出来ない自業自得の窮屈を味わっていた真朱は、体面を捨てて燕青と仕事を交換してもらった。 具体的には―――「座りっぱなしだと痔になる」と訴え、たまたま通りがかった燕青をズッコケさせ、こけた燕青の腕から本を抜き取り府庫へ逃げたのだ。いやもう我ながらサイテーの言い訳だった。 そもそも真朱は政治に関する自らの展望はあまりない。も李真朱も政治に携わる人ではなくその枠組みの中で生きる人だ。政経と歴史の知識も高卒程度の大学入試は日本史選択組だったりする。第一線で活躍する人々と丁々発止の激論を交わすには知識も意識も不足している。なんだか目新しいことを言う変な小僧だと思われてチョッカイを出されているのだろうが、それは単に双方の常識の違いが原因だ。決して真朱が彼らの如く飛び抜けて優れているわけではない。 また泣かされるのはゴメンとばかりに戸部から逃亡を果たした真朱は結局涙に暮れることになる。 これが泣かずにいられようか(反語)。 「れ……黎深さま……」 カトリック信者でもないのに十字を切りたくなった真朱の視界の先。 なんだか困惑しながらも笑みを浮かべて会話に応じる秀麗と、やにくずれてあれやこれやと秀麗に構う養い親、紅黎深の姿が―――っ。 おじさんと呼ばせて他愛なく喜んでいる。あんたエンコーオヤジかオイコラちょっとまて喜んでないでこの気に乗じて腹ァ括って自己紹介しろっつーのォォォ!! 邪魔すると何を言われるかわかったもんじゃないので柱の影に身を潜めながら内心で絶叫、地団駄を踏む。 回廊の突き当たりで秀麗と別れ、名残惜しそうに手を振っていた黎深がホクホク顔で踵を返したところで、真朱は柱から飛び出した。 「むっ! 何処から湧いた真朱」 紅黎深は胡乱げな義娘の視線に、一瞬でいつもの澄ました顔面に戻した。 でも遅い。 「…………」 どこぞから(柱の影)湧いた義理の娘の視線は生温かい。 「わ、わたしはあの子の実の叔父なんだっ! おじさんと呼ばせて何が悪いっ」 やましいところ――むしろ無様な自覚が多少はあるのか、真朱の雄弁な無言に対して黎深はソッコーで開き直る。 その言い分に真朱のドコカがぶちりと切れた。 「それ父親の弟の"叔父さん"じゃなくて不特定多数の年配の男性赤の他人に用いる名称としての"おじさん"でしょーがっ!! 音が同じだからって喜んでんじゃねーよー同音異義語だ!」 容赦のない真朱のツッコミに、兄一家大好き人間紅黎深が他愛なく泣きそうになる。泣きたいのはこっちだっつのと真朱は思う。俺コレが保護者なんですよ? 「あ、赤の他人に用いる名称……っ」 存在が瞬間漂白した黎深。影まで薄くなったように見える。凄い芸だ。 真朱はなんだかなーと溜息をつく。 「れーしん様がもたもたしてっから、俺と絳攸はいつまでたっても秀麗さまに"戸籍上は従兄妹っぽいですよ"って言えないんすよ? 切ないなー切ないなー」 「うぅっ」 絳攸には出来ない紅黎深に対する精神攻撃発動。真朱固有スキルである。 「嫌われるワケねーのに」 「なぜそう言い切れるっ!? 第一印象に失敗は許されないのだぞ! ただでさえ事前情報最悪なのにっ」 「俺と絳攸はあんたのこと好きだからっすよ」 それが真理であるかのように、真朱は断言した。 よほど、言われ慣れていないのだろう。率直な告白に照れる前に虚をつかれたように瞬く義父は愉快な人だと思う。兄一家に関しておたおたする黎深は見てて飽きない。これポイントかなり高い。兄一家構成員である秀麗の前ではいつでもおたおたしているだろう絶対。見てるだけで面白い筈だ。 「ちーっっっっとも優しくされてねー俺らですら大好きなんすから、ベロッベロに甘く優しい"叔父様"が嫌われるはずねーですよ―――ウザがられっかもしれないけど」 前半で持ち上げて後半でどん底に突き落とした。 最後の一言が余計だったようだ黎深が砂になった―――失敗。 「小耳に挟んだんですけどね、秀麗さまのイイ男の基準は"悪い人じゃなくて頭がよくて地位もお金もある人"らしいっすよ。黎深さまいいとこまで行ってます。だからおーい、戻ってこーい」 「なんだ。この国にわたしより頭がよくて地位も金もある者などおらぬではないか」 「最初の条件故意に無視したな? 自信ねーんだろ」 「わ、わたしは優しい叔父さんだっ」 「へーほーへー……ま、義理とはいえ、同じ年頃の見た目娘がそばに居るんですから、自己紹介の練習台くらい何時でもつとめますよ?」 だんだん義父が哀れに見えてきたので、真朱が珍しく仏心を出したら黎深は鼻で哂った。 「ふんっ! お前が秀麗の代わりになるか馬鹿者。似ても似つかん。練習台にもならんわ」 ――愛する姪の、代わりではないと、不器用な言葉。 ………わかっちゃいるが言い方が悪い。絳攸だったら傷つくだろう。真朱は傷つくほどこの養い親に対して繊細ではない。むしろナイロンザイル。 でも、ムカツクのは事実なワケで。 「………黎深さま。彼我の距離の算出の仕方、ご存知で?」 「知らぬはずなかろう。所要時間かける速度だ」 「ご名答。では黎深さまと秀麗さまの距離を算出してみましょうか。時間×速さ! あははははははははモタモタしてると離れるだけー!!」 一矢報いるのを通り過ぎて黎深にとどめを刺し、真朱は石化する義父を放置してとっとと仕事に戻った。 生みの親より育ての親とはよく言ったものだホント。この親にしてこの娘ありき。鬼畜の子は鬼畜。 府庫を中継して工部に書翰を届け、何故か駆けつけ一杯を飲み干して「コレの何処が必要経費だボケ国庫は無限じゃない削れ削れ練り直せ無能その脳ミソは酒カスか」という黄尚書の伝言を顔色変えず一字一句たがわず復唱した真朱は管尚書に「ムカツクから飲め」と口に酒瓶を突っ込まれた。これは何の罰ゲームだ。 真昼間から一本あけた真朱はらりらりになりながら戸部へ帰還しようと千鳥足を進めるが、不可抗力とはいえ酒の臭いをつけたまま戸部に帰ったら仮面の眼光に焼き殺されるような気がした。 少し酔いを醒まさねばと冷静な自分が告げ、回廊の隅で腰を下ろす。 ぐらぐらする視界が見上げた空が急激に暗くなる。 「一雨……いや、雷くるらも」 やばいのら〜と屋内に避難しようとするが、一度腰を下ろしてしまったからか、酒の回った足元がおぼつかない。 濡れる。やばい。 「あ、姫さん発見!」 「燕せーい?」 「あ〜……やっぱ酔ってる? 工部は無理やり酒飲まされるから秀や真には書翰持たせないようにって景侍郎が采配してくれてたんだよ」 なのに勝手に持ってくからさ〜とヒョイっと力強い腕に抱えられた。 お姫さま抱っこであれば猛然と反発しただろうが、まるで荷物か米俵かのように肩に乗っけられるという色気のない抱え方だったので、真朱はおとなしく運ばれるに任せることにした。濡れたくないし。 「回収にきれくれら? 二度手間? ごめんれ」 「姫さ……真、ろれつが回ってねーぞ。大丈夫か?」 「酔うのもはやいけろ、冷めるのもはやいから、らいじょーぶ。しばしまて?」 燕青の髪やら髭やらを引っ張りながら答える。イテ、イテテと悲鳴を上げながらも燕青は真朱の悪戯を咎めない。酔っ払いには何を言っても無駄だと悟っているようだ。 ピカッと暗い空が光った。バケツをひっくり返したような雨が降り始める。 「うわ、ついに来た」 「一、二、三、四、五、六、七……」 ゴロゴロと空が鳴る。 「何数えてんだ?」 「稲光から雷鳴までの時間差ー」 「あん?」 再びの稲光。 「光の速さはほとんど一瞬、音の速さは秒速340メートル」 「めーとる?」 「あー、光と音は伝わるはやさが違うらろ? それを使って雷が落ちたところ計算できるのら」 「真は物知りっつーか、変わった事よく知ってんなー」 ゴロゴロと空が鳴る。所要時間約四秒、さっきより近い。一キロちょいだ。どんどん近づいてきている。 「きゃはー!」 身体の芯を打ち抜くような轟音に真朱は手を打って喜ぶ。 「雷恐くねーの?」 「あんまし。あたまわるいから危機感覚えないのら」 避雷針があるわけでもない世界、代わりに突然の停電に脅えることもない。 恐がるものが少なくなったのは、代わりに得たものがあるからだと思う。街灯のない真夜。見上げれば満天の星があった。気が狂いそうな静かな夜。耳を澄ませば虫の声と、隣で眠る人の寝息が直接耳朶を震わせる。鉄筋コンクリートに守られていない剥き出しの災害。命懸けの生の意味を知る。 男の自分の身体と名前――女の自分と新たな名前。 大丈夫。こわくない。 失った代わりに得たものだ。だから、こわくない。 「こわくなんか、ないもんね」 強がりによく似た宣誓。 「そっか」 わずかに震えた語尾に気づかないわけがない距離にありながら、燕青のよこした相槌は簡潔だった。 素っ気無いのではなく、ささけ立ったままの真朱の矛盾すら包括して受理したのだ。何気ないようで、なかなか出来ない芸当だ。燕青の度量の深さが知れる。 「………………髭面に惑わされてた。お前もイイ男じゃねーか敵だムカツク」 「え、なにそれ褒めてんの貶してんの!?」 ほとんど条件反射の敵愾心だ―――羨ましくて。 そして羨むばかりの自分が惨めなだけだ。惨めになるだけなのだ、いつも。 雷鳴が轟く。 「でもいつもよりムカつかない……なんでだ。あぁそうか――燕青、落ち込んでるな? 髭面にションボリは似合わんよ?」 元気な相手には遠慮なく悪態をつく。要は八つ当たりだが、そんな迷惑な習性を持っているせいか、真朱は攻撃自粛対象――少しでも元気のない人――に滅法鼻が利く。 「げぇっ鋭い……てゆーか落ち込むのと髭カンケーねーだろ。髭生えてたって落ち込むことくらいあるっての」 「さよけ。あんがと。もう歩けるわ」 ぺしぺしと大きな背中を叩く。 「あー」 「おろせー」 「ワリ。もうちっとだけ、抱えてていーか?」 「…………」 自己申告どおり、真朱はすぐ酔うがすぐ冷める。総合的にはかなりイケる口だ。 酒気の晴れた思考がらしからぬ燕青の言動を分析する。 「……結構深刻に落ち込んでたんだな。じゃ、いーぞ。抱えてても」 「ワリぃな。嫁入り前なのにさー」 「人聞きの悪いことゆーなや。でもま、こーゆーときは女の身体の方が向いてるよな。ふにふにだし」 「そーなんだよなー。男の胸板じゃ癒されねーんだよなー何故かむしろ荒むし。ただ体温と、心臓の音聞いていたいだけで、そんだけなら男も女もカンケーないはずなのになー」 「なー。謎だよなー」 ここで心底共感する真朱はやっぱりヤローの感性で生きている。 いつか男の胸板に癒されるような日が来るのだろうか―――あ、悪寒……こりゃダメだ。 「俺ー、なんか勘違いしてたっぽくてさー。いや、むしろ思い上がってたっつーか、だから落ち込んでるっつーより穴があったら入りたいカンジ」 思い出したのか、あ゛ーっと唸って頭を掻き毟る燕青の背中を、ぺしぺしではなくぽんぽんと叩く。 「そりゃ痛いな。でもまぁなんだか知らんが気づいてよかったんじゃね? 今ならまだ間に合うかも知れんし」 「間に合うかなー……まだ待っててくれっかなー?」 遠い地の人を想う燕青の背中で、逆さまの真朱がニヒャリと笑う。 「なんだなんだー? どっから来たのか知らねーけど、泣いて縋る美女の手を振り切って貴陽に来たのか? やるなクマ」 「いや、無言で威圧してくる可愛げのねー九分九厘のヤローどもなんだけど」 「…………………おろせ」 「だからこそ! ふにふにに癒される男心を理解してくれってー!」 そこは李真朱である。うっかり理解してしまったので暴れるのをやめた。 想像するだにしょっぱい。 「――ダイジョブだ燕青。浅はかな自分がやっちまった失敗ってのは、どんなに恥ずかしくても恥ずかしいだけじゃ死ぬこたないし、むしろ失地を回復して挽回してからじゃねーと首括っても死ねないような仕組みになってるんだよ人生って」 「スゲー。踏み倒せねーよーになってんのかよ」 燕青が笑って、真朱も笑った。 「そう。ゴメンナサイからアリガトウまでの道のりは長げーぞ。がんばろーぜお互い。距離は時間×速さ。俺は急げねーから、一生かけると決めた」 踏み込むでもない傍らで、馴れ合うでもなく寄り添って、心臓の音に耳を澄ます。 (み、は、じーって覚えたんですがこれもいろんな形があるらしい? 黎深をおちょくり、ションボリ燕青と絡む――満足) |