「どこから沸いた常春頭」
「君、心配して手伝いに来た心優しい旧友に対する第一声がそれ?」
「貴様が文官を辞めて武官に転身なんぞしなければお前は当たり前にここにいたんだ。何故感謝せねばならん。これとこれとこれとこれ、処理しろ」
 後に執務室となる小さな室。今はまだ、秀麗に付き添う王の姿はない。
 生真面目で硬質な一瞥で、絳攸はさっさと仕事に戻る。取り付く島もない……というより。
「事後処理にかまけて、考えないようにしてるね。よくない傾向じゃないかなぁ」
「うるさい黙れ」
 書簡が矢のように飛んできた。
 追加らしい。
「……いいけどね」
 肩をすくめて、しかし結局手伝う楸瑛はこの友人に甘いと思う。会試で厠へ行っては迷う超絶方向音痴を世話してからの腐れ縁だ。
 黙々と仕事を進める年下の友人は、今夜は徹夜を覚悟しているようだ。
 確かに最重要案件ではある。朝廷三師が一人茶太保の反乱なんぞ公に出来るはずもないが、もともと動いたものは王一人。端から公になっておらず、事実を知るものなど一握りだ。そこまで急ぐ仕事ではない。隠滅せねばならない証拠もろくにない。絳攸の勤勉さは今夜だけは逃げているように映る。
 渦中にあって秀麗すら何も知らない。それはまるで台風の目のように。
 真朱に至っては論外。
 香鈴が怪しいと、"拙い下手人"の容疑者として目をつけていた彼女だから、香鈴の自決に誰より早く気が付いて適切な処置を施すことが出来たが、彼女が知るのはそれだけで、香鈴が誰の為に手を汚そうと決意したかは知らない。楸瑛に尋ねようとすらしなかった。楸瑛が「終わった」と告げたとき、真朱は内心はどうあれ、この件に関しての全てを「終わらせた」。
 歯に衣を着せずに言えば、真朱は身の程をわきまえている。尋ねることは身の程知らず。聞かれたとしても楸瑛は答えたりはしなかっただろう。
 だから、知るべきではないと自ら一線を引いたのだ。
 その辺りの状況把握は、情に流されがちで知りたがりな女人とは一味違うと楸瑛は思う。
 たとえ秀麗が同じ決断を下したとしても、真朱と秀麗ではそこに至るまでの過程が決定的に違う。
 賢明な秀麗が、思いやりから知らないことを選ぶのだとしたら、真朱は"知るべき立場にないのなら関係がないこと"と切り捨てる、悪く言えば不人情さで同じ結論に達する。その思考過程の差異を全て男女という性別に拠るのは極論が過ぎるが、男女にそのような傾向があるというのは演繹的な事実である。
 俺は男だと語った少女。
 性別とは肉体に準拠する人格以前の意識だと楸瑛は考えていた。少女の身体を持ちながら、真朱が何の根拠を持って自身を"男だ"と断じたのか、かなり謎だ。まっさか異世界で二十一年男やってた記憶が鮮明で今更どーしよーもありませんなんて真実は想像にも及ばない。
 それでもそのことに真朱が死ぬほど苦しんで苦しんで苦しんで、今も苦悩しているのだということは言葉の端端からわかろうというものだ。
 だが、楸瑛は気づいた。
 自分は男なんだと、女には逆立ちしたってなれないと嘆いた少女は。

「自分のことを"妹"と呼び、君を"兄"と呼ぶことはやぶさかではないんだね」

 絳攸は手を止めた。
「あれが、何か言ったのか」
「うん? ちょっと寝つきが悪くなりそうな不景気な顔をしていたからね。晩酌に付き合ってもらったら手持ちの酒を巻き上げられて追い出された」
「………」
 楸瑛の気遣いに対する妹の所業に、なんと言ったものかとさすがの絳攸も言葉がない。ぽかんとした表情はかなり珍しく、無防備だった。
「自分は男だと言う真朱殿が、曲りなりにも自身の三人称に女人のものを使うとしたら、君の妹であることと、紅尚書の義娘であることぐらいなのかな。羨ましいくらい愛されていると思うけど、君は一体何がそんなに不安なんだい?」
「っ自分の手が決して届かない高いところで、絹糸みたいな細っい糸の上で綱渡りされてみろ! はらはらヤキモキぎくぎくおろおろするだろうがっ!!」
 適切すぎる比喩だった。
 それじゃあ見知らぬ人でも「あぁ! あぁ落ちるやめて落ちる!?」と叫びたくもなるだろう。それが身近な者であれば大絶叫だ。真朱が過保護と語った兄心の実情である。
「死にたかったわけじゃないと言っていたけど?」
 そもそも紅黎深の養い子である真朱の自殺など"影"が許すはずもない。手首を掻っ切ったのは事故だ。影が割ってはいる隙もなかった事故。
 しかし絳攸は声を荒げた。
「あれは自殺だ! いいか、その話には続きがある。あの後、あいつは物を食べなくなった。水すらも飲まなくなった。血が盛大に抜けて、一命を取り留めたと安堵した矢先だ。食わせても吐くんだ。飲ませても吐くんだ。医者は心が身体を拒否して支配していると抜かして匙を投げた! 直接的な手段で失敗した次はコレだ! あいつは何が何でも死ぬつもりだったんだ! 言葉ではなんと言おうとな!」
 切欠にはなった。
 死んでもいいと甘ったれたこと考えていたと気づく、切欠にはなったと。
「物心付いた頃から言葉遣いは何度言っても粗野な男言葉のままで! 自分は男だと言い張って! それでも身体は女人のものだと本人も理解していたから、俺たちは全く、気が付かなかった。その乖離は、狂おしいほどに苦しいのだということに、あいつの身体が真に女人になるまで、本人すら気づいてなかった」
 ちょっと……かなり偏屈な少女だとくらいしか、思っていなかった。
「……それでも、真朱殿は今、生きている。それが彼女の答えだろう?」
「違う―――脅したんだ」

 死ぬほど苦しむ妹を前に、楽にしてやることなど考えもせずに、置いていかれてたまるものかと―――。

「……"お前が食べないなら俺も食わん"と根競べのつもりで、俺も食事をやめた」
 賭けだった。
「そうしたら、黎深様まで"絳攸の割にはいい考えだ"と食事を絶った」
「―――それ、は」
 あの紅黎深まで。楸瑛は言葉をなくした。
「百合様もそれに習った……主人が食事をやめて、家人が飽食できる筈もない。それでなくとも、真朱は皆に可愛がられていた。次々と、食事を止めた。親が止めるから、子まで習った」
 自分がやられてみればこの上ない恐怖だと絳攸は思う。
 あの時は食物をまるで受け入れない真朱に焦れて、日に日に細くなる腕に焦るばかりだったが。置き換えてみれば目の前が暗くなるほどの恐怖を味わう。
 大切な人が、次々と、命をかけていく。
 ままならない体の、己の為に。
「王位争いは終結したが、城下はまだ荒れていた。丁度いいからといって蔵を解放した。どうせ食わないから下々のものにくれてやれと」
 背水の陣を敷かれた真朱の心境は察して余りある。
 心の病は自分でどうこう出来るものではないのに、最終的には自分でどうにかするしかない極めつけの難物だ。
「真朱に食事を運ぶ家人の子供がついに空腹に倒れた。それが決定打だ。食べるから食べて、食べるから食べてくれと泣きながら、食べて吐いて食べて吐いて、吐いたものまで再び口に入れて、泣きながら飲み込んだ。そうしてあいつは生きている―――」

 その意図はなかったが、真朱の大切に思う人々を質草に、生きろと真朱に脅迫したのは、絳攸だ。

「それが君の負い目?」
「後悔は、していない」
 だが、それでも。
「それからあいつは言葉を馬鹿っ丁寧な女言葉に改めた。その代わり、髪を切った。化粧をするようになった。その代わり、仕事を探して、養われるだけであるのをやめた。素振りでも死のうとすることはなくなった。その代わり、ニ、三月に一度寝込む」
 一つ受け入れて、一つ否定する。一つ否定して、一つ受け入れる。
 綱渡りの例えの通り、危い足取りで均衡を保ちながら、生きている。
 それは死ぬか狂うかの瀬戸際で、たった一本の細い細い正気の糸を手繰り歩む。ただ生きるだけで一苦労だろう。
 見ているほうが、はらはらヤキモキぎくぎくおろおろする―――なるほど。
 しかし真朱にそのような綱渡りを強制したのは、自分なのだと絳攸は言う。
 仮にそうだとしても。
「はい、これ」
「なんだこれは。桃色の手巾とはなんだ貴様の頭の中か」
「真朱殿の手製の刺繍入り手巾」
「はぁっ!?」
 ぼたぼたと絳攸は書簡を取り落とした。
「え、そんなに驚くものかい? 良家の姫には必須の技能だろうし、真朱殿は器用な方じゃないか」
「え、いや、あいつはあんなんだから、自分が、恥をかかない程度の礼儀作法しか………え? 刺繍?」
 絳攸の頭の中では、真朱がチマチマと針を刺す姿がどうしても想像できないらしい。

「―――君へ。命を助けてくれて、ありがとうの言葉に代えて、だそうだよ」

 小刻みに震える指が、妹がしたのと同じ仕草で糸目をなぞるのを楸瑛は見た。
「っだからって、なんで、桃色の手巾なんだっ!」
「いやそれは仕方ないんじゃ? 白い李花を縫うなら白地じゃ目立たないだろうし、紅家に連なるものに贈るのに青だの緑だの絹地は使いがたいだろうし」
 準禁色の紅の聴色。赤みの薄い赤紫に散る花びらは白。李の花。
 生まれて初めてだろう刺繍は、師匠の教え方が良かったのか、もともと真朱が小器用だったのか――両方だろう。ところどころ布地が突っ張る以外、丁寧に指された糸目はとても素人の作には見えない。

 言葉に代えて、想いを込めて。

「じーんと感動しているところ悪いんだけど、訊いてもいいかい?」
「……なんだ。配達の駄賃に聞いてやらんこともない」
 李兄妹の絆はよーっくわかった。
 だからこその、純粋な疑問を楸瑛は口にする。

「君たちは、最初から兄妹だったのかい――?」

 幼い兄妹が黎深に拾われたのか。
 拾われることで、兄妹となったのか。

 踏み込んだ質問に喚くかと思われた絳攸は、顔色を変えず眉一つ動かさず。
「わからん」
 きっぱり、答えになってない答えを断言した。
「……おやおや」
 意味深だと、楸瑛は口の端で笑った。
 







(何も知らないまま終わる。知っている情報は秀麗より少ないぐらいのお姫さま扱い。本人に指摘したら憤死すると思う)










モドル ▽   △ ツギ

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