攫われた秀麗と姿を消した静蘭が保護され、秀麗の身体を蝕んだ毒の解毒剤を、王が何らかの手段で手に入れた。
 自決を選んだ香鈴の容態も落ち着いた。
 一件落着を祝うには、まだ少し時間がかかる夜だった。
「真朱殿」
 かけられた声にのろのろと顔を上げる。
 真朱の服はいまだ、乾かぬ血に汚れたままだ。
「藍将軍……」
「終わったよ。いや、始まったのかな、ようやく――ともかく、大丈夫だよ。秀麗殿も一命を取り留めたし、静蘭も重症だが命に別状はない。香鈴もだ」
 真朱の喉が引き攣った。
「絳攸は秀麗殿に付きっ切りの主上に代わって事後処理に励んでる」
 真朱は面を伏せた。
 顔が、上げられなかった。
 ことんと盃と徳利が置かれる。
「主上が一人で動いたおかげで、わたしはやることがあまりない。付き合ってくれるかな?」
 峠を越したとはいえ、この状況で、後宮で酒盛りとは不謹慎だと真朱には言えるはずもない。
 気遣いが酒の形で出てきたのだとわかるだけに。
「君も飲んだらいい。酔えとは言わないよ。気付けにね」
「……はい」
 素直に従った。
「医師が褒めていたよ。君の応急処置は完璧だったとね。えぇと止血点、だったかな。そのことを教わりたいと言付を預かってる」
「……では、明日にでも」
 生気も乏しく頷く。楸瑛はどうしたものかと逡巡したが、結局遠回りをやめた。
「李兄妹は顔立ちはあまり似ていないと思っていたけど、表情がそっくりだね。絳攸も、今にも心臓が止まりそうな同じ顔をしてた。君たちの方がよほど死にそうに見える」
 楸瑛の声に、真朱は一気に盃を空けた。

「――死にたかった、わけじゃねーんだよ。拾った命、拾われた命だ、死にたかったわけがないっ」

 口調が変わる。改悪である。
 楸瑛は一瞬面食らったが、これが少女の本質だとすぐに気づいた。気負った装いがない。
 右手の指が白くなるほどに、握り締めるのは左手首。ためらいも迷いも欠片もない、ざっくりとした一文字の斜め傷が走っている。
 躊躇いもなく、迷いもなく、それでもその傷は、"躊躇い傷"と呼ばれる――。
「……この傷、果物を剥いてて手を滑らせた――って言ったら信じますか? らんしょーぐん」
「君がそういうなら、わたしは信じるよ」
「それって、信じてねーっていってるよーなもんじゃないっすか」
 少女は、他愛ない悪戯が大事になって青ざめている悪戯小僧のような顔をした。
「実際のところ、俺は今でもわからないんすよ。この傷、死にたくてつけたのか、本当に手が滑っただけなのか。ただ確実に切欠にはなりましたね。自分が―――」
 傷のあまりの深さに、流れるどころか噴出した血。
 血管を切り裂いたと、自覚して慄き、そして安堵して初めて気づいた。
 これで、楽になれるのか――と。

「自分が、死んでもいーやとか甘ったれたこと、考えてたって、気づく……」

 幼い頃は、ただ不便に思うだけだった。
 見知らぬ世界の己の身体。小さな体躯。細い手足。
 身体の縮んだ名探偵は、こんな苦労を味わったんだろーなー名前コナンにするか俺。そんな埒もないことを考えながら、背が伸びるのを、力が付くのを待ちわびた。
 背は伸びた――だけど黎深や絳攸を追い抜くことは出来なかった。
 力は付いた――だけど片手で持てただろう荷物に、両手が必要だった。
 これからもずっと。
 この身体は少女のもので、何処からどう見ても少女のもので。
 それを誰よりも知りながら、己の身体だと誰よりも、未だに、認められない愚か者。
「俺は、男なんすよ」
「わたしには、魅力的な可愛い女人に見えるけど?」
 懺悔のような告白に、わざとらしく目を瞠る楸瑛に苦く笑い、真朱は肩をすくめる。
「体はどっからどーみても女っすけどね。でも俺は男で、子供が産めるようになったと知ったとき、気持ち悪くて、気持ち悪くて、錯乱して、まぁわけがわからなくなってブシュっと」
 手首を掻っ切る仕草をして、真朱は再び手酌の盃を飲み干した。
「男と女の違いってのは、目に見えるものとか、考え方とか、そんなんじゃないんっすよ―――ただ、"覚悟"。人を産み、慈しみ、育てる覚悟を、女は生まれながらに持っていて、男は持ってない。学ぶことは出来るんでしょーがね、最初の一個目はどーしたって無理です。獲得と学習は致命的に違う」
 楸瑛は自分が妊娠する様を想像してみて………出来るはずもなく挫折した。
 ……なるほど。
 これが女であれば、どんなに幼い少女でも。自分が母となる姿を容易に想像できるに違いない。
 男と女の違いなど、突き詰めてしまえば、それだけだ。
 それだけが、致命的に違う。恐らく母親の胎内で身体すら変える獲得性の"覚悟"。
 
 性同一性障害などと説明しても誰もわからないだろうし、しかも正確なところは違うのだろうし――やってらんねーと投げ捨てたようなものだ……命を。

「死にたかったわけじゃないし、死にたかったわけがない。でも死んでもいいとも思った浅はかな自分がいまだ赦せなくて、思い出して胸糞悪ぃやドチクショウ!! 藍将軍これくださいこの酒全部ください全部飲んでやらぁ!!」
「………どうぞ」
「ありがとーございます!! あーちくしょう穴があったら入りたい! 思い出したらクソ恥ずかしい! 飲むぞ今日は飲むぞ飲むしかねェーーーっ!!」
「……いや、ほんとうに、男らしい人だったんだね君は」
「逆立ちしたって女になんかなれないっすよ逆立ちしたら女になれるんだったら逆立ちで庭院三週したっていいですよ!? なれるもんならなー!!」
 ついには徳利からグビグビ煽る飲み方は味も風味もあったものではない。
「〜〜っぷは! はー……気ィ使っていただいて、ありがとうございます藍将軍。でも俺は本当は大丈夫なんすよ。俺は思い出しても、恥ずかしい自分に身悶えするくらいで、あの時俺が傷つけたのは、俺の手首じゃないんです……だから出来たら、絳攸のこと、気にかけてやってください。俺は外朝にはいけないし、今はあわせる顔もないんで……どうか」
 真朱は懐を探り、目当てのものを取り出して楸瑛に差し出した。
 一斤染めの薄紅の絹手巾に、白い糸で象ったすももの花――。
「わたしに、ではなさそうだね」
「藍将軍は選り取りみどりじゃないっすか。くれっつったら大抵の女はせっせと針をとりますって。これは、どーしよーもない女嫌いで、どうか受け取ってくださいとか言われたら脱兎で逃げるような甲斐性なしの、我が兄上に親愛をこめて。曲がりなりにも女の手製の贈り物を絳攸が受け取るのは今んところ俺っくらいしかいないだろーし、俺も俺で、絳攸ぐらいしかあげるアテがないっつー甲斐性なし兄妹なんですよ」
「っはは」
「あいつの女嫌いに一役買ってるような不肖の妹っすけどね……謝るばっかりで、俺は、ありがとうって言ったことなかったの思い出したんすよ。今更言葉にするのは照れくさいんで、刺繍にしましたけど」
 細い指先が、すももの花をなぞる。
 じゃあ針を取って、大切な人の為に――秀麗の号令に、針が苦手という珠翠と香鈴も刺繍に励んだ。
 苦手どころか刺繍なんてやったことすらなかった真朱も、愛しい人へ……はともかく、伝えていない言葉があるのを思い出した。

「助けてくれてありがとう――命を助けてくれて、ありがとう。もっと早く、伝えておけばよかった」

 開け放たれた窓からひらり。桜の花びらが夜風に一片迷い込み、酒を満たした盃に着地した。
 まるで絳攸みたいな方向音痴の花びらだと、真朱と楸瑛は声を上げて笑った。







(俺はホモじゃねぇと呪文を唱えて正気を保っているらしい。必死)









モドル ▽   △ ツギ

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