それは来るべき破綻で、真朱は"その日"がいつか来ること、訪れれば最期であると本能的に悟っていた。 放任主義の養い親、優しいその奥方。 真朱を拾った兄。 変人ぞろいの、新たな家族は、優しい人ばかりだと知っていた。 見た目どおりの幼い心であれば、気づけなかっただろう養い親の不器用かつ婉曲かつアクロバティックな慈愛も、意地っ張りな少年の真っ直ぐで、時に頓珍漢だったりする想いも残らず余さず理解した。 理解して、それでもどうしようもなく、全てを裏切り――死を、選ぶだろう日が来ることを、恐れながら、知っていた。 は男だ。 そして李真朱は紛うことなく、少女だった。 見える傷跡は一つ。真朱の左手首に刻まれたそれ一つ。 見えぬ傷跡は数多。 自分以外人々の、踏みにじった優しさに今も生傷のように、開いたままの――。 「馬鹿がっ!」 宮女らしからぬ口調で吐き捨て、真朱は衣が濡れるのも厭わずに少女の身体を抱き起こした。 ぬらぬらと蝋燭の火にゆれる赤い血が裳裾を汚す。 血の気のない白い顔を一瞥し、苦い思いを隠さずに舌打ち、真朱は傷と肘の間を破いた袖で縛った。 根暗な手管はお手の物でありながら、青ざめておろおろするばかりの他の宮女たちを切り捨てて、頼りになるのは女官長の珠翠くらいだろうと背の高い彼女の姿を薄暗い室から探すが、見当たらない。 「ありったけの手巾を持って来い! 室を明るくしろ! 蝋燭を灯せ! うろうろするな邪魔だぁ! 医者を呼べ! 出来ぬなら失せろ!!」 年若い少女の一喝に、自失していた宮女たちがおずおずと動き出す。鈍い。役立たずどもが。 拙い――迷いすら浮かんで見える稚拙な手管で、紅貴妃を殺そうとした少女。 先日、秀麗の号令の元、共に刺繍を習った少女だ。 宮女としては真朱よりも先輩の年下の少女。図太く順応した真朱の数十倍は初々しく、傍目にもわかるほどに秀麗を慕いながら――思いを込めた刺繍と共に、全てを捧げた誰かの為に、秀麗を裏切り、失敗した。 それは裏切りですらないと、真朱は知っている。 人は選ぶ。 選んで、その道が苦しくとも、選ばずにはいられずに、選ぶということはとりもなおさずもう片方を捨てることだと、知っていた。 香鈴の裏切りは、秀麗の暗殺未遂ではない。 裏切りは、秀麗もろとも"誰か"までも裏切った香鈴の罪は、この自殺だ――っ。 思い出す。 思い出すな。 左手首。 同じ場所。 同じ傷。 選んで、選べず、苦しくて、狂いそうで、投げ捨てるように、 違う傷。 今も血を垂れ流す、癒えない傷。 「馬鹿が、馬鹿がっ」 泣きそうになりながら、涙を零さず罵倒する。 「早く、誰か、医者……血が、どうしよう。止血点、肘の骨の、動脈が通る、止まらない、早く、早く、止めなきゃ」 細い腕をまさぐる。遠い知識を掘り起こし、あぁそうだ心臓より上に患部を持ち上げて、そしてそれから、止血点を抑え、医者が来るまで――真朱に出来ることなどそれぐらいしかない。 「っ見つけた!」 どくんと脈打ち、縛ってもなお零れるばかりだった手首の血が止まる。探し当てた止血点を二度と見失わないように、押さえる指先の力を込める。 「何を騒いでいる!?」 後宮にあるまじき、硬質な男声に、真朱は心臓を止めた。 よりによって、この場所に、何故と。 いや、迷子になって偶然たどり着いたのだろうと、どこか冷静な己が教えた。 「何が起こった!?」 「来るな絳攸!!」 叫び、失敗を悟る。 これではまるで、拒否ではなく、助けを呼ぶような悲鳴ではないか。 「何が、真しゅっ―――!!」 血にまみれた妹の姿に、絳攸が何を思い出したかなんて、一足す一より簡単な答えだ。 「俺じゃない! 俺じゃない! 香鈴だ! 医者を呼んでくれ! 早く!」 自失は一瞬。さすがは自称鉄壁の理性。おろおろと右往左往する宮女を蹴散らして、駆け出した絳攸の背中が頼もしかったが――。 「おい……迷うなよな、頼むから」 彼をよく知るものであるが故の間抜な懸念が知らず零れる。 いや、大丈夫だろう。下手に目印を探しながら歩くより、何も考えず突っ走ったほうが彼は迷わない。 ごめんなさいと、泣きながら謝った。 赦されるはずもないと知りながら、それでもなお謝罪せずにいられなかった。 なんで、何故と叫びながら己を抱いて、泣きながら止血をしたのは彼だった。 ごめんなさいと、許されるはずもないと知りながら、祈り続けた。 いつかこんな日が来ることを知りながら、誰にも言えなかった。 血が流れる。 流れたのは、傷口ともう一つ。 少女が女に羽化した日のこと――。 (要は初潮が来てパニックを起こした自殺未遂。冷静でいられる男はいまい。それ男じゃない) |