「ふ、ふふふふふ」
 深夜、忍び込んだ厨房で李真朱は怪しく笑う。
 手には慎重に掲げた陶製の小瓶。くつくつ煮える小鍋の上にそっとその液体を垂らす。ふわりと立ち上ったその芳香に陶然とする。
「うふ。うふふふふふ」
 忍び笑いは止まらない。火を止めて、鍋の中身を椀に盛る。
 あぁ、あぁ。懐かしき故郷の味。白いお米とコレさえあれば、真朱はまた再び知らない世界に落っこちようと生きていけると信じてやまない。

 李真朱。身体年齢推定十五。
 吏部尚書紅黎深の養女にして吏部侍郎李絳攸の妹。
 現在は義父に一服盛られて後宮に放り込まれ、今上陛下唯一の妃賓、紅貴妃に仕える女官である。

 魂の本名を――という。

 元・二十一世紀出身、昭和生まれ平成育ち日本人、かつ元・男。通算精神年齢三十オーバー義父とどっこい。
 後宮なんぞに放りこまれた絶望は推して知るべし。

 彼女(?)がこの彩雲国へやってきたのはが二十一のとき、大学三年生就職活動真っ最中のことだ。
 別に事故にあって死んだわけでもなく、階段から落っこちたわけでもなく、神様の啓示があったわけでもなく、雷に打たれたわけでもどっか遠いところに行きたいなーと願ったわけでもなく、学校に行く途中、超悪性の貧血のような壮絶な眩暈を覚えたかと思うと次の瞬間には見知らぬ世界、それも幼児に、それもオンナノコになって呆然と突っ立っていたというフザケタ経歴の持ち主だ。
 当時のことはあまり記憶に残っていない。まぁ発狂寸前でお花畑と現実を行ったり来たりしていたのだから記憶もそぞろになるのも仕方がないと自分を慰める。
 結果的に超金持ちに拾われてお嬢なんぞをやっているが、それまでの経緯は思い出したくもないほど悲惨である。
 気が付けば幼児。ちなみに女だと気づくまで少々時間がかかった。
 親類縁故なし。いわば浮浪児。ぶっちゃけわけのわからぬまますぐに飢えて瀕死となった。
 その後を簡単にまとめれば、やっぱり浮浪児っぽかった絳攸に拾われ、その絳攸を紅黎深が拾った――オマケで拾われたわけだ。
 絳攸に拾われなければとっとと死んでいたな、と思う。
 ――全く別の世界から、不意にうっかり落っこちてくる――そんな人も探せば結構いるのではないかと真朱は考えている。いわゆる神隠し、そしてその後だ。
 自分が特別だとは別に思わない。が、大人なら大人で狂人扱いされたり、子供なら子供で生活力が皆無だったりで早々に死んでしまうのではあるまいか。そうすれば異世界からやってきましたーというプロフィールの人が他にいない理由も納得できるし、何とか順応できた転じて真朱でさえ、わざわざ「異世界から来たのー」なんぞと公言しようとは思わないし。
 帰れるものなら当然のこと、元の世界に戻りたい。
 しかしそもそも彩雲国へやってきた経緯むしろ原因が不明である。対処だの方法を検討する取っ掛かりすらないのだ。どーしよーもねー。
 それにもう、家族がいる。つくづく変人ばかりだが、例えばもとの世界の家族と天秤にかけたらどちらのほうが傾くか――などとは考えない。考えても無駄だ、どうせ答えは出ない。
 選んでやってきたわけではない。
 だからそれは選ぶ必要のないことなのだと開き直って―――開き直るまでに十年近くかかったのも事実だが、開き直った。

 それでも、三つ子の魂百までも、という。
 の記憶も鮮明な李真朱は時折どうしようもない発作を起こす。
 その名も"ホームシック"。

 宮女でありながらこっそり厨房に忍び込む真朱の、怪しい笑みの前に並ぶのは白米。
 そしてホームシック特効薬――肉じゃが。

 日本独自の万能調味料である味噌と醤油を作り出すまでの苦労はここでは語らない。何故なら、長くなるから。鰹節を作った苦労も語らない。長くなるから。
 しかしご存知だろうか。日本料理の九十%が味噌と醤油なくして成立しないということを。真朱は執念と不断の努力で大豆に挑んだものだ。
 紅家では近々、真朱の開発したこの醤油を市場に出すかと検討しているらしい。
 その紅家ではときどき使用人が真朱のために味噌と醤油を使った日本料理というかお惣菜を作ってくれる。黎深や絳攸も変わった料理だといいつつ食している。紅家当主一家ではポピュラーなメニューになりつつあるが、ここは後宮。誰も作ってくれない。仕方ないから自分で作る。
 お袋の味を思い出しながら――しみじみと切ない。


「ふふふははは大丈夫。まだ生きていける何処へ行っても生きて行ける今度落ちるときは醤油持参で落っこちたい。いやもう二度と落っこちたくないけど」


 饅頭を作るために女官長珠翠に手引きされた紅貴妃が厨房へこっそりやってくるまで――後五秒。







(神隠し経験者は語る。文系の雑学大王が前身……)








モドル ▽   △ ツギ

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