三・三七事件 









 ―――薄れゆく記憶の中の淡い面影と仕草を強く、強く想起する。


 彼女は目覚めると顔を洗った―――当たり前だろ、と思うなかれ。彼女と彼の洗顔には月とスッポンくらいのロケットが必要な距離が存在した。彼は彼女が洗面台を占領する前に、ぱぱぱと顔を濡らし洗顔料に泡を立て顔に擦りつける。そして泡を流し、ゴシゴシ顔を拭く。後は髭を剃って全工程終了。歯磨きは食後である。
 対して彼女は、まず髪が濡れないように後ろ髪を結び、前髪をヘアバンドで持ち上げた。それから軽く顔を湿らすと、一個五千円するらしい洗顔用石鹸を、泡立てネットでもこもこ泡立て擦るのではなく繊細な手つきでくるくる円を描き泡を顔面に広げてゆく。非常にゆっくりした動作だ。泡を流し、顔を拭くタオルも決して擦らず軽く押し付けるようにして水分を吸収する。

 そしてこっからが本番である。

 彼女は洗い立ての顔に化粧水を叩く。夏場は押し付けるように、冬場は叩くようにパタパタパチパチ。その化粧水とやらも朝と夜、夏と冬では種類が異なるとのこと。
 似たような仕草で違う瓶を手にとり、乳液を塗る。
 さらには美容液なる謎の液体が登場する。大抵が親指サイズあるかないかの小さい瓶だ。それで一本一万や二万くだらないというから恐れ入る。一、二滴手のひらに落とし、手のひらでのばし顔面に塗りこめる。
 それが終わると此処からは十人十色千差万別。チューブのナニカを塗ったり丸いケースに入ったクリームのナニカを塗ったりとにかく塗る。なにか塗る。塗りまくる。この時点で面の皮二倍になってんじゃないかってよく思った。しかし、これはあくまでも下準備に過ぎないのである。
 次に彼女は化粧下地なるクリームを顔に塗る。まだ塗る。そして肌に馴染ませるためにしばらく時間を置く。この間、彼が作った朝食を二人でとったりした。
 朝食を終えると、彼が先に歯を磨き、彼女は本格的なお化粧を始めるのである。この時点でようやく、男がおぼろげに想像する化粧らしい化粧に突入するのだ。やっとこ。
 リキッドタイプのファンデーションを、立方体のパフで均等にのばしていく。ムラが出ないように丁寧な手つきだ。
 フェイスパウダーなる粉を、ふわふわのパフでとんとん叩く。この作業で化粧崩れが抑えられるという。
 余分な粉を大きなブラシで払い落とし、それより小ぶりのブラシでチークを施す。頬骨の上に淡いピンクやオレンジをふんわりと。その下に少し暗い色のチークをさっとひと撫で。目の下と鼻筋にはパール系のハイライト。これ全部チークと呼ばれる化粧らしい。
 ウォータープルーフは常識らしい、アイライナーで両眼を縁取る。
 アイラインに一番近いところに濃い目のシャドウ。まぶた全体に淡い色のシャドウ。眉の下や目じりにパール系のハイライト。これも全部アイシャドウと呼ばれる化粧らしい。もうよくわからない。
 ビューラーで睫毛を持ち上げる。それからマスカラ。何があろうとマスカラ。まず何故か白いマスカラ下地。乾いてから真っ黒のマスカラ。付け睫毛をつける彼女も居た。アイラッシュと言えと叱られたような。ウォータープルーフなど当然の常識で、黒いマスカラには繊維が入っていたりするらしい。これを塗るは塗るは塗るは塗るは塗るは塗るは塗るは―――っ。とにかく塗る。
 それを終えると、彼女の睫毛は当社比三倍くらいになっているのである。
 眉には髪色よりちょっとだけ濃い色のアイブロウ。塗るというより、眉毛の間を埋めるように。眉山の位置はお見事すぎる左右対称。
 薬用のリップクリームを唇に塗る。
 その上からきらきらのルージュを塗る。
 さらにその上からツヤツヤのグロスを塗る。


 そうして振り向いた"彼女"は当社比五倍増しのくらいの美人になっているのである。まる。


 以上が"彼"の目撃した歴代彼女たちの平均的な舞台裏だった。
 思う。
 アノ手間を毎日まいにち鉄板の上のタイヤキのごとく、忙しい朝に惜しまないオンナのコって、もうホントすごすぎる―――イヤになっちゃわないんだから恐れ入る。
 いやもうまったく。



「……コンビニにだって化粧品は売ってたよな。色も値段も様々。何を以って選んでたんだかいまだワカラン。CMもひっきりなしに流れていたし、ブランドで統一してるコもいたし、このアイテムだけはココってモノで決めてたコもいたし。聞いた話によると、化粧品の原価って販売価格の一割切るとか切らないとか? ボロ儲け? それを大部分広告費に回してるってんだから競争の激しい世界だよ。一に情報二に品質、三四が無くて五に宣伝。こんなカンジ?」
 李真朱は書翰を片手に首を傾げる。
 安全性という意味での品質はすでに確保した。
 これからの経営方針は拡大発展。目指せ彩雲国全国制覇。フランチャイズなかんじでシェア拡大。最終的には独立採算制の支店を各地に建てたいのだ。情報伝達速度が故郷とは比べ物にならない世界だから、いちいち細かい指示出さなくても良いようにするのが最終的な目標だ。


 ―――そうして彼女は繊細にして複雑な文様の社長印をポンっと押した。



「ってわけで、朱李花の他州進出、経営拡大を目指して、商品に付加価値をつけ、差別化を計ってみようと思うんだなー。こっちが付け心地サッパリな化粧水で、こっちがシットリ? それぞれ四種類の香りがあんの。花だったり果実だったり。生薬配合のものも作ってみたぞー。そんでもって白粉にも匂いをつけたものとかー、色合いを変えたものとかー、濃化粧用とか薄化粧用とで分けてみた。紅もねー、ほのかに色合い違うから―――みんな、好きなの選んでよ」

 可愛らしい彩を施された真っ白の陶製の瓶がずらりと卓に並ぶ。
 黄色い歓声が上がった。

「キャーーー! すごいすっごーいっ!! お値段は!?」
「試作品だから無料配布。その代わり使った感想絶対聞かせて」
 さらに歓声。もうまっ黄色だ。悲鳴に近い。

 わたし母菊の匂いがいい、わたしは桃ー!! この色の紅珍しいわね、瓶まで可愛いっ! いやぁぁん迷っちゃうーーーっっ!! きゃーきゃーきゃー!!

「…………やっぱオンナのコって化粧が死ぬほど好きだよなぁ」
 有害と察しつつ鉛白や水銀白を使うだけあるってものである。古今東西、オンナのコは化粧が好き。大好き。たぶん真理だ。
 付加価値による商品の差別化には、歴代彼女たちの化粧品や方法、ぼーっと眺めていたCMのうたい文句などを参考にしてみた。覚えているもんである。
 普段はツンデレ系だったりホンワカ系だったりとそれぞれの魅力をキャラクター化した妓女たちが、年齢を問わずきゃあきゃあ小娘のようにはしゃぐ姿は可愛らしい。化粧する女性に対する男性の印象は数あるかもしれないが、"彼"は一生懸命化粧をする"彼女"の無心ともいえる姿を可愛いと思ったタイプである。素顔を見て「うわぁ詐欺」と思ったことがないとは言わないが、技術には敬意を払うことにしている。だから、一生懸命装う姿は可愛い。そう思う。
「盛況だねぇ」
 呆れたような、それでいて嬉しそうなしっとりとした美声に真朱は振り向いた。
 目が眩みそうな美貌を誇る傾城の美女―――胡蝶だ。
「おかげさまでー。のんびり見物してないで胡蝶も早く選べば? なくなっちゃうぞー」
「悩むのが楽しいんじゃないか」
 花街一の名妓女ですら、心持ち声を弾ませている。
「しかし残念だ。わたしはこれから客が入ってるのさ。のんびり選んでらんないねぇ」
「売れっ子は大変だなー。なくなっちゃうてのは嘘だよ。一人一種類はいきわたるように用意したから大丈夫。全部使って全部の感想聞かせてくれ」
「そりゃあいい」
 真朱は新商品試作品に夢中の妓女たちに、あらかじめ質問事項を記載した料紙を配り歩く。アンケートである。
 試作品だから無料配布なのも事実だが、原価にどれだけ儲けを乗せるか、いまだ未定なのも事実である。原材料が微妙に違うので原価だって微妙に異なる。しかしシリーズとして価格は均一にしたい。故にアンケート結果を鑑みて値段を決めるのだ。人気の品は多少高くても買い手はつくはずという目論見である。ギリギリのラインを見極めて儲けてやろうではないか。李真朱は基本的にあくどい。

 真朱自身、全種類試しはした。が、正直なところ化粧を義務化しており女性らしい熱意に欠ける真朱には使い心地とかよくワカランのだった―――吹き出物一つ無い白面も豚に真珠。肌にも個人差があるらしいし、やっぱり人数集めて意見を聞いたほうがいいと結論、妓楼を営業に回っている。ドサまわり上等。
 好む色や匂いにも民族的な特徴があるのだろうか―――そんなところを考察するのは習い性である。化粧品を売りながら己の研究だって忘れない李真朱は一石二鳥とか二兎追うものは三兎得るとか言う諺が大好きだ。
 しかし棚ボタや濡れ手に粟は得をしたって主義に反するという根っからの策士だった。


 李真朱はどんな妓楼へ赴いても歓待される。
 本来であれば妓女が仕事に出る前にコチラの仕事も済ませた方が効率はいいのだが、日が高いうちは花街に近づけないという事情がある。義父の執着する姪っ子紅秀麗と遭遇する可能性があるからだ。なんでも黎深は敬愛してやまない長兄に秀麗との接触を禁じられているらしい―――これは黎深が、というより紅家全般だ。故に真朱は紅家というより黎深に倣う。真朱の姓は李なので己を紅家の一員だとは考えていないのだが、黎深を差し置いて接触すれば抜け駆けだのなんだのきっとウルサイ。そんなの、かなり御免だ。
 本来であれば大勢の侍女に傅かれて暮らしているはずの紅家長姫がバイトに勤しんでいることからわかるように、紅家を追放された黎深の兄は娘と市井で暮らし、市井で育てたいようだ。
 貴族って面倒くさいもんな、と真朱は黎深に猫運びされて共に遠目に垣間見た紅家長兄の教育方針に納得しないこともない。
 おかげで紅黎深は彩雲国には珍しい真性のストーカーだ。盗聴器とかカメラとか電話のない世界でヨカッタとつくづく思う。
 ―――そうした事情で、効率は悪いながらも日が暮れてから妓楼を訪れ、仕事を済ます。
 その後は妓楼の旦那や手の空いていた妓女たちに酒肴を勧められ、断りもせずいい酒を飲むのである。由緒正しき"接待"であり、袖の下などの陰湿な下心は無いのが嬉しいところだ。楽しく酒が飲めると言うもの、しかも綺麗どころが代わる代わる酌をしてくれるのだもうシアワセ。
 あぁ男の身体であったなら―――っ!! と内心で絶叫することしばしば。ちょっと切ないってのは内緒である。
 女でも構わないというツワモノな妓女もたまにいらっしゃるが、そちらは丁重にお断りせざるを得ないのは正直虚しかったりするのだが。
 据え膳食えないなんてもう男じゃない。泣ける。
 禍福は糾える縄の如しってやつだ、きっと。





 姮娥とは月の異称の一つである。
 つまり?娥楼とは月の楼閣であり、地上の月と言える。地上の月から夜空の月を眺めて酒を飲むとはなんとも風流だ。風流と評しながら地球に居ながら"やっぱり地球は青かった"ってゆーよーなモンだと認識している李真朱の感性は元現代っ子らしく割とミもフタもナイ。

 そんな内心の奇天烈な思考がまるで表情に出ない真朱が月を見上げると、なにやら月光の下物思いに沈む美少女という図が完成したりするから誤解が生まれる
 李真朱は正確無比な射撃率を誇りながら無意識的な誤爆も多いと言う迷惑な少女だ。本日もつい先ほど、通りすがりの客を酒に上機嫌な笑顔で誤射したところだ。年齢的には妓女見習いといったところで、まさか別口の仕事で訪れ接待されているとは考えない世の男どもに見初められ指名されかけていることを少女は知らない。知ったのであれば出来る範囲で態度を改めたのであろうが。
 代わる代わる訪れる妓女にもてなされ、上等の酒と上等の肴を振舞われる。
 しかし真朱は"客"ではなく、妓女を指名しているわけではない。部屋に人が途切れることもしばしばある。この時もそうだった。
 手酌で酒を注ぎ、そろそろ帰らないと兄がうるさいかなぁ〜と顔を上げる。義父は放任主義なので朝帰りしても気にしないのだが。

 この酒飲んだらもう帰ろう、そう決めたところだ。盃になみなみと酒を注ぎ、男らしくグイッと呷ろうとしたところ―――。



「―――おや? こんなところに可愛い月花が咲いているとは驚いた。独りなら私のところに来るかい?」



 通りすがりの客に声をかけられ鼻から吹いた。



 










 所用でいったん胡蝶の座敷を離れた藍楸瑛が用を済ませ室に戻る途中、その少女は最高級の客室に一人ぽつんと窓辺に座り、月を眺めて酒を飲んでいた。
 まだ幼いともいえる年頃で、妓女らしからぬ装いだが、妓楼にいるということは妓女見習いだろうと当然のように思考する。見習いであれば先輩妓女の席について仕事を学んだり手伝ったりするものだ。それがこの時間帯に、上等の酒と肴に囲まれながらも対面に客である男もおらず、上位格の妓女の姿も無いということは、かわいそうに、席をすっぽかされたのだと判断した。


 下心ではなく、むしろ親切心で楸瑛は胡蝶の席に誘ったのである、一応。
 花街一の名妓女の席は見習いにとって最高の現場だろう。そう判断してのことなのだが。


げェッふぉはーーーくシュッッ!! ぶぇっ、ぶはっ―――はヒーっ!?


 盃をひっくり返してのた打ち回る少女に、さすがの楸瑛も固まった。
「はなっ、鼻がイタ、いたいクシュンぜーはーぜーはーっくしょーーっいグヘッ」
 懐紙で鼻頭を押さえ込む。喉と鼻の粘膜を酒精で焼いた感触はひたすら痛い。本当に痛い。さらに苦しい。し、死ぬ。死ぬかも。
「こ、の場合、しし死因は何になルんだロっ―――窒息ーーーー?? ズビッ」
「…………だ、大丈夫かい?」
「ダイジョブじゃないっ! それに俺は妓女じゃないっ!! 他の娘誘ってやれよっ!!」
 少女はズビーーーーーーーーッッと盛大に鼻をかむ。男の前で。

 ―――これは妓女じゃないと言うのも本当のことかもしれない。良くも悪くも女人らしい異性に対する媚や繕いが皆無だ。

「おやまぁ藍さま。遅いと思ったら何をしてるんだい」
「胡蝶……」
「胡蝶〜〜、鼻から酒吹いたぁ〜! グシュ、苦しいーーーーっっ」
ほんっとうに何してたんだい、藍さま?」
「いや私は別に何も?」
 声かけただけだ。これは本当。
「ほんとうかねぇ?」
 流し目で睨まれた。うわぁ我ながらなんて信用の無さだと楸瑛は苦笑した。
「あぁほら真朱、今お水持ってこさせるから」
「ぶしゅっ……た、たすかる………鼻いたいーっ……」
 己の懐の紙を使い尽くした真朱がグズグズ鼻を鳴らしながら胡蝶に礼を言う。
「えーと、なんて言うか、そう! 初々しい娘だね」
 楸瑛はかなり表現を選んだ。いかなる女人に対しても悪しき言葉は使わないのが彼の信条だったが、その藍楸瑛にして相当の苦し紛れとなった。
「何言ってるんだい藍さま。この娘は妓女じゃないよ。話したことがあったろう―――"朱李花"だよ」
「―――この娘が……」
「ふヒー………っ」
「……………」
「………………」
「ぐしゅぐしゅ」

 ―――楸瑛が噂に伝え聞いた"朱李花"は今までに無い体系を形成した白粉問屋だった。問屋というのも正確ではないとのこと、化粧品の原材料の生産から商品の生産、流通、販売に至るまでを一手に引き受けているという。仕入れと販売をするだけの問屋ではなく、代表であるまだ年若い貴族の姫君はその体系を"企業"やら"会社"などと呼ぶと言う。
 さらには"株券"なる証文を用いて出資者を小口に分割し、責任を有限にしたとのこと。今までに無い試みで、馴染みの妓女らから話を聞いた楸瑛はそれとなく注目していた。

 年若いとは聞いていたが―――むしろ幼い。
 貴族の姫だと聞いていたが―――えと、彼女が?

「………本当だからね」
 ちょっと変わった娘であるのは周知の事実だが、基本的に聡く、言葉遣いは貴族なんて嘘だろうってくらいに悪いが、李真朱という少女の根本的な態度や言動は、誰にだって分け隔て無く、優しい。
 分け隔てなく他人を気遣うことの出来る人間を、胡蝶は"高貴"だと思う。それはとても当たり前で、当たり前なのに難しい、貴いことだと思うのだ。
 そういう意味では、真朱は真に"貴族"らしいと言える。少なくとも胡蝶はそう考えている。
「胡蝶が私につまらない嘘をつくなんて思ってないよ」
 言葉にされなかった思いを察したのか、目の前の惨状はともかく、楸瑛は頷いた。
「みずーっ」
 目の前の惨状が水をふがふが呷っていた。
「………つまりだね、この娘はイイとこの姫さまで男に慣れてないんだよ。チョッカイ出したら藍さまといえどもタダじゃあ置かないよ?」
「いや本当に私は何もしていないんだけど………」
「あーうん。胡蝶、これ俺の自爆」
 水を飲んで落ち着いた少女はアッサリのたまった。
「俺が独りでいたから、わざわざ声かけてくれたんだと思う。なのに勝手にビックリしてさぁ。こーなった」
 いやーしかし死ぬかと思ったと少女は続ける。
「…………ほぅらね?」
「あぁ、うん。なるほどね」
「あん?」


 なるほど―――聡い。
 そして、当たり前に人を気遣うことが出来るということは、人の気遣いを察することが出来るということ―――なるほど。


「本当に胡蝶の座敷に来ないかい? 独りはつまらないだろう?」
「もう帰るからヘーキ。胡蝶のお座敷は興味あるけど」
「そういうことは早くお言いよ。今度仕事前に予約だけ入れておいで」
「おぉマジですかっ!?」
 破格の申し出だ。予約だけということはもしかしてタダ!? 誇り高い名妓女にここまで言わせるとは俺スゴくねー?

 あぁああああぁぁぁ男の身体であったならぁぁぁぁぁぁぁっ(血涙)。

「………残念だな。色々話を聞きたかったのに」
 真朱は顔を上げて、楸瑛をジッと見つめた。
 まさか楸瑛が化粧品を使うとは思わない。キモチワルイ。てことはアレか、贈り物に使うのだろう。
「―――タラシめ」
「っふ!」
 ぼそりと呟いた言葉に胡蝶が吹き出した。袖で口元を隠すが遅い。
「あは、あーっはっはっは!! さすがだ真朱よく見抜いたね! 見る目あるよ!」
 手を叩いて胡蝶は華やかに笑った。
「………これは手厳しい」
「女に化粧品を贈るのは上級技じゃん。金だけかけりゃあいいってもんじゃなく、女の好みまで正確に把握してなきゃならないし。花より難しいぞ。抜け目の無い男しか出来ねー」
 慧眼である。
 鋭くも遠慮の無い分析に、楸瑛も笑ってしまった。ここまで言われては最早痛快だ。
「いやはや将来有望というか、末恐ろしいお嬢さんだね」
 長ずると難攻不落の悪女となるかもしれない。悪女だから難攻不落なのではなく、難攻不落だから、手の届かない男どもに悪女と罵られてしまうような、高嶺の花に。
 似たようなことを義父に言われ続けている少女の中で悪女といえば峰○二子。今のままでは胸と腰はともかく身長が足りねぇとか考えていた。つまり目指す気は皆無。
「んじゃ、今夜はもう帰るわ俺。胡蝶またなー。えーっと……藍さま? も」
「楸瑛だ。藍楸瑛」
「………楸瑛さま、も」
 ぺこりと頭を下げつつアレ? どっかで罵声と共に聞いたことがある名前のようなー? と記憶を探る。
 それが同期及第の友人を罵る兄の台詞だと答えに辿り着く前に真朱の思考は分断される。
「あと二、三年したら、お相手してもらおうかな。可愛らしい蕾の君」







 ッちゅ。








 頬に。
 あっという間の出来事に、真朱は頬を押さえて呆然とした。
「藍さま!?」
 胡蝶の責めるような声にもどこ吹く風、楸瑛はしてやったりとした笑顔だ。タラシと呼ばれた面目躍如であり、ささやかな仕返しでもあった。

 呆然とした少女はふるりと肩を震わせる。

 …………ほっぺちゅー。
 ほっぺちゅーだ。え、マジですか電光石火の早業よける暇も無かった何者。スゲェ身のこなしだったいっそ感心する―――違うそうじゃねーだろ感心するな俺。

 ―――子ども扱い。ちゅーとはいえ所詮ほっぺ。子ども扱い。いやこれは仕方ない。李真朱は小柄で見た目十二、三歳だ。貴族であればそろそろ嫁いでもおかしくない年齢とはいえ世間的にはまだまだ子どもだ。まさか中身が三十路近いとは仙人ですら気づくまい。
 ―――オンナ扱い。いやいやいやいやこれも仕方ない。李真朱は見た目どっからどーみたって少女である。これで男だと主張したって誰も信じない。だからこれも仕方ない仕方ない仕方ない。
 仕方ない。仕方ない仕方ない仕方ない仕方ない仕方ないとはいえ。言えど。
 どちらか一方だけなら許せた。うん仕方ないから。
 しかし両方いっぺんとは、これは、さすがに、うん、さすがに、ね、うん―――さ、す、が、に!!






 ブッチん。






 楸瑛と胡蝶は確かにナニカがぶち切れる不吉な音を聴いた。
 ガ シ ィ !! と真朱は高価な衣を引っつかんだ。背伸びしても届かないので、能面のような無表情で楸瑛によじ登る。

 李真朱の辞書に泣き寝入りと言う単語はない。

 まさか振り落とすわけにもいかず、楸瑛はよじ登る真朱を抱きかかえる。
 眼前で少女は微笑む。
「楸瑛さま?」
「………何かな?」
後悔しろ




 宣言し、息を吸い――――少女は楸瑛に噛み付いた。
 ――――唇に





 胡蝶がぱかーっと口をまん丸にした。
「―――っ!?」
 舌が入ってきた―――!? さすがの楸瑛も驚愕する。
 噛み付くような、むさぼるような激しい口付けだ。
 まかり間違っても子どもの技じゃない。てゆーか上手い。慣れてる? え、超絶技巧?
 驚きから冷めると、楸瑛は反射的に、負けじと応じる。







 ………………しばらくおまちください。







「――――負けたぁっ、チクショウ!! でも敗因は肺活量だっ!! 技術では負けてないっ!!!!」
「………いや、ほんと―――ゴチソウサマ」
 それはある意味男のプライドを賭けた勝負であって、色めいたところは激しさと反比例して欠片も無かった。
「あぁムカつく!! 俺は帰る!!! じゃあな胡蝶!!」
 少女は憤然と楸瑛から飛び降りて踵を返す。楸瑛には言葉をかけず、しかし振り向き様にニヤリと恐ろしく邪悪な笑みを残し、小さな背中は鮮やかに去っていった。

 ………なんだったんだろう。

 まるでタヌキかキツネに化かされたような面持ちで楸瑛は胡蝶に視線を向ける。
「………新記録じゃないかい? 三分三十七秒
「は?」
 何数えていらっしゃるんですか。いや考えてみれば数えるくらいしか暇の潰し方はなかったかもしれない、いやしかし。
「だから、三分三十七秒もの激しい口付けだったねぇホホホこちらこそゴチソウサマ。よくもこの胡蝶の目の前で他の女といちゃついてくれたねぇ藍さま」
「…………えーっと、ね、胡蝶、アレは」
「藍さまが幼女趣味だったとはこの胡蝶、不覚ながら知らなかったよ」






 
 邪悪な笑みの意味を知る







 これよりしばらく、藍楸瑛の身辺には妓楼発の不穏な噂が付きまとうことになる。
 してやったりと邪悪にほくそ笑む少女の誤算は、その記録が伝説として末永く花街で語り継がれることとなるという悪夢だった。


 ―――三分三十七秒の記録はいまだ破られていないという。










(なんつーかアホな話ばっかり浮かぶんですが脳の病気ですか)





モドル

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