お兄ちゃんの災難 何故こんな目にあっているのか、十六歳の李絳攸にはさっぱりわからなかった。わかりたくもなかった。だからさっぱりわからない。 気分は逃亡者。事実、現実に逃亡者。複数の迫り来る追っ手に包囲され、食われるのを待つばかりの草食動物に悲しいまでの共感を覚える、そこまで切羽詰っていた。 誰も助けてなんかくれない、普通助けてくれるだろう養い親は、生憎"普通"とは対極の、しかも最果てに位置する人だった。助けを請うだけ多分無駄だ。もしかしたら嬉々として助けてくれるかもしれないが、その後のことを想像したらそれだけで世を儚んで首を吊たくなる……やっぱり頼れない。絶対頼れないっ。 傍中の一番に記された己の名に、誇らしく思えたのも一瞬のことだった。今はすでにこの忌むべき事態を招いた諸悪の根源にしか思えなくなっている。こんなはずじゃなかった。 ―――国試状元及第。 晴れがましいあの日から一転、恐怖の日々を送るはめに陥っている。何故、くそぅ何故だ。 「絳攸さまぁ〜? いずこにいらっしゃるのです〜?」 あてどなく逃げ惑えば、絳攸でなくとも迷子になるだろう。此処は何処だ、こっちが聞きたいと内心で絶叫しつつも、予想より近くで聞こえた女の声に背筋を凍らせる。まだ姿は見えないが、耳で測った距離からすれば見つかるのも時間の問題、逃げろ、しかし、何処へ!? これから始まる官吏生活を思えば、出席するに越したことはない酒宴はいつもこうだ! 養い親は脅え逃げ惑う養い子を笑って見ているだけで絶対助けちゃくれないし、笑っているだけに心底楽しんでいる。娯楽を提供できていると思えば慰められないこともないこともないが現実は待ってくれない、逃げろ。 素直に礼を言う気には到底なれないが、それとなく女を引き受けてくれる同期及第の常春頭は、別の酒宴に出席していて不在。孤立無援とはこういう事態をさすらしい、逃げろ。 だから何処へ? 後に朝廷随一の才人と呼ばれる少年の脳みそも、許容範囲を超えようとしていた。どうしようどうすれば。 「絳攸さまぁ〜?」 先ほどより近づいた声に、無様な悲鳴を上げなかった自分を褒めてやりたい。 逃げろ。 逃げろ逃げろ逃げろにげろニゲロッ!! だから、何処へっ!? 「アホかお前、食われたいのか?」 聞き慣れた声がした。 「真ッ!?」 「シィッ! 叫ぶな馬鹿!」 鋭い小声に続く言葉を嚥下する。 まだ幼いが、少女の声。名を呼ばれても背筋が寒くならないのは、この少女と養い親の奥方だけだろう。 「回廊に突っ立っててどーするよ、コッチ」 手を繋いで、珍しく着飾っている少女は衣を翻す。 正確な年齢は本人もわからないらしいが、便宜上、十を数えている年齢の妹は迷い無い足取りで追い詰められた絳攸を先導する。 ………十と数えているものの、一見、この少女は年齢がわからない。身体はようやく丸みを帯びだした正真正銘十あたりの少女のものだ。なのにその雰囲気が見た目のままに年を数えることを許さない。 ―――まず、無邪気に笑わない。笑顔にもさまざまあるが、その中でも異様に苦笑と冷笑が似合うという年不相応の落ち着きがある。 言動は大の大人を向こうに回して一歩だって引けを取らない。とにかく頭がいい。常識は無いが、物知りだ。始めからこうだったから絳攸は今更それを不審に思ったりはしないが、その言動は全くもって十の少女のものではない。生意気だとか、大人びているという背伸びした表現を受け付けない。むしろ逆で、等身大の精神が身体と見合っていないのだ。それがますます周囲を幻惑する。 普段は決して少女らしい装いをしない。髪は短いままほったらかしで、そのあまりの無頓着ぶりに時折絳攸が慣れない手つきで短い髪の毛をどうにか少女らしく結わえたりする。何か思うところがあるのか、少女は養い親二人と絳攸にだけは、諦めて大人しく飾られるままにする。その間の目は死んだ魚の方が活きがいいというくらい死んでいる。 酒宴に参加するにはきわどい年齢だが、此処にいるということは養い親に連れてこられたのだろう、珍しくも深窓の姫らしく着飾っているが、彼女がこのような装いをするのは、己が美しく映るためでは決して無い。ただ、相応の装いをしなければ養い親が恥をかくときのみ、彼女は粛々と装飾を受け付ける。養い親はそんなことを気にするほど"普通"の人ではないのだが、その点に関しては少女のほうは養い親より数段まともな感性を有しているようだ。 「お、おい、何処へ」 「うっせー黙ってついてこいや助けてやろうっつってんだから。この甲斐性無しが」 一応小声で問うた兄に、やはり小声の妹の返答はけんもほろろ。 しかも最後の一言は少年の硝子の心を滅多刺しにする容赦のない言葉の刃だった。 「お………俺にだって、選ぶ権利がっ」 「だから、助けてやるんだろーが」 呆れて言葉もないといわんばかりに無駄口を切り上げるこの妹が男なら、某常春頭のように後腐れなく適当に付き合って据え膳ありがたくいただきしかし責任はうまくはぐらかす女の敵になったに違いないと絳攸は思う。本人には災難だろうが、少女が少女の身体であることは人類の半数にとって僥倖だったのではないかとまで思った。 失礼な話である。 真朱は甲斐性無しの兄の手を引き、人気のないことを確かめた室にそっと踏み込んだ。 「ん、この辺でいいか」 一人で納得し、手際よく室内の蝋燭を吹き消す。 「お、おい、何を」 「るせーな。お前その辺に腰掛けてろ」 細い指が差したのは窓辺の欄干。わけのわからぬまま絳攸はそこに腰掛ける。 光源を落としつつ、しかし真っ暗にはしない。光源というより調度品である飾り灯篭の火は残し、ぼぅっとした暗闇を作り上げて、真朱は欄干に腰掛けた兄に近づいた。 そして、爆弾を落とした。 「脱げ」 絳攸の頭が理解を拒否しても仕方がない。 たっぷり十秒は沈黙が場を支配する。 「…………………は?」 「っち、このグズが! 時間がないんだからいいから脱げ!!」 今度はさすがに理解した。 しかしだからといって実行するかはまた別だ。別すぎる。 「なななななななななに言って!?」 「あぁもう!! 別に全裸になれとは言ってねーだろ!! 男なら潔く脱げっつーの!!」 言うが早いかこの常識はずれの妹は実力行使にかかった。 人の膝の上に乗り上げ、ぺったりと張り付き、こうすれば腕力で叶わなくても―――叶わないからこそ―――兄が上手く抵抗できないのを知り尽くしている妹の手は、瞬く間に絳攸の結わえた髪を解き、背中に散らすと、脱がすというより見えそうで見えない按配に兄の衣の裾を崩した。 「チラリズムよーし」 何か謎の言語を発し、自分の衣まで同様に着崩す。 この段になって完璧に許容範囲外、完全凝結した兄の両腕を己の腰――尻の真上――と、うなじから背中に差し込むように配置すると、己の両腕は絳攸の首に回す。 もう一声とばかりに、肩が見えるくらいまで己の衣を肌蹴させた。 「よし、こんなもんか」 スタンバイオッケーと少女は呟く。 それとほぼ同時に、扉から光が差した。 「絳攸さまぁ? こちらにいらっしゃいま………………」 見知らぬ女の声は途中で無様に途切れた。 「……………」 「…………………」 女の両眼が零れ落ちんばかりにひん剥かれるのを、絳攸の口から飛び出した魂魄が確かに見た。 「………………………あ、ん」 真朱がここぞとばかりに身じろぎし、聞いたこともないようなおぞすさまじく甘い声を上げた。 絳攸の記憶は此処でぶっつりと途切れることになる。 ―――李真朱はときどき手段を選ばない。 被害者は枚挙に暇がないのだが、筆頭はいわずと知れて、兄なのである。 (抱き合いながら双方見事な鳥肌を立てていたそうな。色気絶無) △ モドル ▽ |